第9話 炎路の旅立ち 前編

 巨大な樹木が立ち並ぶ〈竜域〉の奥深くを、リュウモは数人の大人に囲まれて歩いていた。手には〈龍赦笛〉が固く握られている。〈竜守ノ民〉の中でも、厳しい訓練を経た戦士の集団は、ひとりの少年を中央に陣形を組み、深くへと歩みを進めて行く。

 やがて、リュウモの肌が、ちくちくと針で肌の表面を刺されたような痛みが走り始めた。すぐさま反射的に口を覆った。


「止まれ、予想以上に浸食が早い」


 一団の先頭を行くひとりが合図すると、訓練を受けていた全員が停止する。あまりにも息が合いすぎていたので、集団での訓練をしていないリュウモは、前につんのめってしまった。


「酷い……いったい、どうしてこんな〈禍ツ气〉の浸食が早いんだ?」


 うめくように、誰かが言った。


「みんな、口を布で覆え。この濃さは、体に毒だ」


 リュウモは、言われた通り、持参していた布で口を覆った。この布は特別性で、呼吸によって体内に入ってくる濃度が高い〈禍ツ气〉を完璧とは言えないが、ほとんど防いでくれる。

 これを使用するのは、空気中にかなりの量の〈禍ツ气〉が含まれている証である。なんの準備も無しに足を進めれば、命を落とす危険域に変貌していることを示していた。

 リュウモは、この辺りにはまず近づかない。ひとりでは森の奥まで行くのを許されていないからだ。語り部の後継になるための特殊な訓練をしなければ同伴者がいても許可されない。

 だから、リュウモにとって周りは見たことがない、話に聞いていただけの植物が何個もあった。それらが、直に見るのが初めてであったリュウモでもわかるほど、しなだれ、活力を失っていた。

 深緑の葉、太い幹は色素を薄れさせ、黒い筋の血管のようなものが浮き出ている。

 〈禍ツ气〉に浸食され、体にある浄化作用の力を越えてしまうと、このように黒く、おぞましい姿へと変わってしまうのだ。

 黒に染め上げられかけている森を、哀しく思いながら、リュウモは皆に合わせて、ゆっくりと歩いた。

 〈竜域〉の生態系は、特異なものが多く、また植生も通常の森林とは大きく違う。区域を誰かに定められたかのように、びっちりと分けられている。

 『竜』もそれに倣っているのか、自身の縄張りに侵入してくる敵対者にはまったく容赦しない。なので、彼らの縄張りに入る時は、自分たちが敵意がないことを伝えなければならない。

 本来ならば、このような挨拶が必要な場所を通らず、どの『竜』のものでもない、空白地帯を進む。だが、安全が保障されていた道は〈禍ツ气〉によって危険な道となってしまった。行先を変えるしかないのだ。

 先頭集団の屈強な若者が、全体に止まるよう片手をあげると、一段はまた一斉に立ち止まった。

 ひとりが、口に指を当てて、空気を吐き出した。指笛だ。何度か同じように音を鳴らし続けると、反応が返って来た。それに応えるように、再度指笛を吹く。

 〈竜守ノ民〉は『竜』の言っていることを人語に訳せるわけではない。彼らは人と違い、言葉を使わず、鳴き声などで互いの意志を伝え合う。

 そういった『竜』の声を分析し、微妙な高低や響きを指笛によって使い分け、一部の『竜』たちと会話をするのである。

 同郷の者が『竜』と語らっている姿を目にして、リュウモはどうしてか誇らしく思えた。

 何度か指笛が鳴る。大人たちは慣れたもので、躊躇なく『竜』に語り掛けている。と、突然、指笛を吹いていた若者が吹くのを止めて、リュウモに向き直った。


「リュウモ、やってみろ」


 青年の指示に、リュウモは飛びあがりそうになった。


「いやいやいや!? ――――む、無理だって……」


 つい、大声を出してしまって、すぐにささやく程度の音量に抑えた。


「お前さんなら大丈夫だろうと、村長もジジの爺さんも言っていたぜ? 安心しろ、失敗して襲われたら一目散に逃げてやっから」

「う……た、確かに、吹き方は教えてもらってるし、できるけどさ」


 技術を習得しているのと、それを使って結果を出すことは違う。リュウモは不安で仕方がなかった。青年は、にこやかに笑う。


「なーに、誰でも失敗はある。間違えたら脱兎の如く、ほとぼりが冷めるまで逃げればいいだけだ」

「いや、それはまずいんじゃ」


 どうにか青年を説き伏せようとするが、言葉足らずなリュウモでは、無理な難題であった。


「それに、教えられた通りにやるなら、お前さんは、絶対に誤らないだろう」

「そりゃ、まあ、そうだけど……」

「便利な才能だよな、『合气』ってやつは」


 生れついて、リュウモには特別な才能があった。

 それは、自らが感じ取った『气』の流れを寸分違わずに再現できるというもの。

 つまり、完全なる模倣。

 完成された結果のみを見れば、過程をすっ飛ばして技を会得できる、特異な才であった。村では、このような人ならざる才能を、異能と呼んだ。

 村でも、異能を持って生まれて来る者は時折いる。目が『气』の流れを可視化できる、はるか遠くの音を聞き分ける、触れてもいないのに物体を動かせるなどだ。

 リュウモの異能は、体系化された技術を習得するには、驚異的な早さを誇る。

 これは、物の作成や語りについても同様である。人がなにかを語る、作るさいには必ず動きがあり『气』の流れが生ずる。そのため、リュウモは幼い頃から村にある重要なすべての技術を叩き込まれたのである。

 しかし、だからといって人の命がかかっている行動をなんの迷いもなくできるかと言われれば、否であった。話しの内容を覚えて反復するのとはわけが違う。違えればここにいる全員の命を危険にさらすのだ。気軽にできるはずない。


 指笛の形を手で作っては崩すを繰り返すこと六度。じれったさに我慢ができなくなった青年が言った。


「だ、か、ら! 気にするなっての。失敗してもお前さんかついで逃げるだけさ。ほれ、早く早く」


 リュウモの後ろにいた若者が、ぽんぽんと肩を叩いた。


「わ、わかったよ……!」


 若干、やけになりながら、リュウモは指笛を吹いた。生きが掌の間で回り、隙間から出て音を鳴らした。飛び出た音は、森の響き『竜』の元へと走って行った。

 同じような鳴き声が返って来て、リュウモはようやくほっとして指笛の形にしていた手を解いた。


「おお、完璧だ。相変わらず、便利でいいな、それ」

「なんでもできるわけじゃないけどね。……それで、どうするの?」

「〈禍ツ气〉の大本まではちょっと危ない区域を通るが、さっきの指笛で挨拶はしたし、通貨するだけなら、簡単だな。あそこらへんは、よく俺らは通っているから」


 リュウモに同行する若者たちは、村では選りすぐりの戦士たちである。単騎でも『竜』を容易に仕留める実力を持つ。リュウモなど、彼らに触れさえもしない。悔しいので稽古の時は何度も挑戦するのだが、一度も拳が届いたことはない。

 陽気で、、腕っぷしが強く、豪快な彼らだが、欠片ひとつも『竜』を侮っていないのは、リュウモには痛いほどわかっていた。彼らの中には、親しい物を『竜』に殺された者もいるからだ。それでも彼らは『竜』を恨まず、ここに足を踏み入れている。

 〈龍赦笛〉に選ばれた者を守るために鍛えあげられた、八人の若者たち。過去にも、八人の者たちが、特殊な槍を持ち、選ばれし者を〈竜峰〉へと導いたらしい。伝承に残る逸話になぞらえた彼らに守られているというのは、遠い過去の先人たちと繋がっているようで、リュウモは言葉では言い表せない気分になる。

 巨大な樹木が生えている場所から、一団は大きく動いた。苔むした樹木がいくつも並ぶ区域を通り越すと、やがて灌木が顔を覗かせ始める。

 晴れていた視界は、葉や枝に遮られ始め、いつの間にか木も低く変わっていた。

 一団は、気を引き締めるように、自らの武器に手を掛けながら進む。


「腰を低くしろ、リュウモ」


 うごめく気配を、リュウモよりも圧倒的に早く感知した若者が言った。言われた通り中腰になり、木々で隠れる薄闇に目を向けた。葉が擦れ合う音が、狭い室内に反響するかのように響く。実際、それほどの大きさではなかったが、鋭敏になったリュウモの感覚は、嫌なほど聞こえてくる。

 〈禍ツ气〉が薄くも漂うこの辺りでは、『气法』の感覚が狂わされて相手がどのような者なのか捉えきれない。捕捉するには、目視で確認するしかなかった。


(『竜』なの、か?)


 緊張した面持ちで、リュウモはその場でじっとして相手の出方を待った。汗が額から伝わって、頬を通り過ぎ、あご先から地面に落ちた。

 音が止まる。そして、木陰からひょこりと、立派な二本の角が顔を出した。


「森鹿か……驚かせるなよ」


 皆の緊張がやわらいだ。〈竜域〉には『竜』のみが棲息しているわけではない。熊や鳥、普通の森にいる種も生きている。もっとも、彼らも〈竜气〉にあてられ、体能力は通常種とはまったく違う。また〈竜域〉に対応するために独自の進化を遂げた種も存在した。

 あらわれた森鹿は、その独自の進化を果たした種に入る。

 森鹿の足は『竜』より速く、二本の角は牙も爪も通さない。気性は、手を出されない限りは非常に大人しい。が、一度暴れはじめるとなだめるのは困難であった。だが、自らが仲間と定めた者にはどこまでも親身で協力的だった。仲間意識はとても強いのだ。――森鹿が結んだ絆は『竜』さえ断てぬ、と村の人々は言う。

 若々しい、精力にみなぎる森鹿は、ぽつんと佇み、リュウモを黒々とした瞳で見つめている。四本の足は微動せず、地に根を張ったように動かない。


「な、なんだ、どうしたんだ? 群れからはぐれたって、わけじゃなさそうだが」


 森鹿以外の〈竜域〉に住む生物全般に言えることだが、『竜』という絶対的強者が存在するこの地域では、他の動物たちは警戒心がかなり強い。森鹿も、飼い慣らす方法は確立されているが、絆を育むまでは骨が折れるほどの苦労なのだ。時に、物理的に骨が折れることもある。

 そんな彼らが、人の集団をその眼で直接見て、なんの反応も示さず、棒立ちに近い、無防備な姿を晒している。普通は、こんな距離まで森鹿が近づいてくることはない。


「まあ、襲ってくる気配はないし、大丈夫だろ」


 リュウモたちは、いつもと違う森鹿の様子に戸惑いを覚えたが、目的のために、また森鹿を刺激しないように歩調を緩めて歩く。

 すると、森鹿はぴょんと跳ねると、距離を取った。逃げるかと思えたが、若い森鹿はリュウモたちの進行方向の先に行って、また停止した。


「ね、ねえ、なんか、案内してくれてるみたいな感じだけど……」

「森鹿が? それはあり得ない――いや、でも確かに〈禍ツ气〉の大本の方だな」


 目で合図をし、一団は森鹿の跡を追った。

 リュウモは、途中で狂った『竜』に出くわさないか心配だったが、影も見当たらなかった。森鹿の、人に無い驚異的な察知能力のお陰なのかもしれなかった。

 やがて、〈竜域〉の深い場所まで来ると、森鹿は、突然、我に返ったように逃げて行った。

 木の奥に消えて行く背を見送り、〈竜守ノ民〉の一行は、布越しに口元を押さえた。

 黒い大気が、そこには滞留していた。土、木、草、自然にある命が〈禍ツ气〉によって変貌している。黒い光線が、風景を黒く変えていた。


「信じられない。目で見えるほど、濃い〈禍ツ气〉なんて、聞いたことがないぞ……!」


 人垣の間から、リュウモの目に映ったのは、すべてそ塗り潰そうとする、黒い光の風のうねりだった。手が、爪先が、凍ったように冷たくなったのは、錯覚ではなかった。

 リュウモは、お守り代わりに、ずっと持っている〈龍赦笛〉を握った。笛が、熱を持っていた。なにかに、導かれている気がした。人の壁の隙間に体を押し入れて、前に出た。


「吹けって、言われてる気がする」


 なにに、とは言わなかった。


「本当か? 俺は、笛からなにも感じられないが」

「この子が言うなら、そうだろう。私らは、周囲の警戒を続行しよう。『竜』に襲われでもしたら、冗談にもならない」


 リュウモは、皆が散開するのを待って、リュウモは〈禍ツ气〉が噴き出している地点を見た。〈禍ツ气〉は、通常の『气』が歪んでしまったものだが、大地から噴火でもしたかのように飛び出てくることはない。


(こんなの、神話か伝承にしかない事態だけど……)


 原因を探る前に、やらなければいけない。リュウモは、笛に口をつけた。

 頭にはいくつも習った音楽が流れていたが、そのどれもが、笛に命じられたものと違った。

 指が、笛の穴に吸い込まれるように動いた。演奏の仕方は、笛が教えてくれた。

 音が、黒に染まった領域を浄化していく。音が波となり、波が黒を洗い流している。

 演奏が終わると、清浄な空気が戻ってきたのが、リュウモにはわかった。

 黒く変わり果てていた森はいつもの姿へと転じていた。


「思うんだが〈龍赦笛〉ってのは、凄いもんだよなあ。自然が時間をかけてすることを、数瞬でやっちまうんだから」

「それが『龍王』が持っていた力の一部だったのだろうさ。亡骸となった後でも、これだけの力を発するというのは、恐ろしくもあるがな」


 『龍王』の巨大な亡骸から削り出された〈龍赦笛〉は、元となった『竜』の力を一部、受け継いでいる。当然、強力であり、人が扱えない強大な力である。リュウモは、つるつるとした笛の表面を、感謝の意味も込めて撫でた。


(どうして、おれにこの笛が吹けるんだろう)


 村長の家の居間に、後生大事にされていた〈龍赦笛〉を、好奇心から手に取って吹いてみたのが、出会いだった。

 ――すっごい、爺ちゃんに怒られたなあ。

 あの時ほど、リュウモはジジに怒られたことはなかった。激昂していたと言ってもいい。

 ジジの、顔に皺が寄った、恐ろしい顔が目に浮かび、頭を振って想像をかき消した。


「なにはともあれ、これで一件落着だ。よくやってくれたな、リュウモ、立派だったぞ」


 わしゃわしゃと頭をなでられた。日常的に繰り返されている訓練のせいで、掌は固くなっていたが、リュウモにはとても暖かかった。


「帰るとするか」


 言われて、リュウモが背を向けた、その時。

 脳天から股下にかけて、鋭い痛みが走り抜けた。

 その場にいた全員が、頭上を仰ぎ見る。空には九つの星があり、『竜』の星のひとつ、〈禍ツ星〉が光量を強めていた。


「なーんか、嫌な予感がするぜ。さっさと」


 その言葉は、続けられることはなかった。

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