第54話 使命の終わり
〈龍王槍〉が即座にこの場から退避しろと『气』で伝えてきた。槍に言われるまま横に飛ぶ。爆炎が先程までいた場所を通過する。熱が骨を赤く変える。速い――。
「あのときと、全然違うッ」
巨体に似合わない俊敏さだった。都で短刀を突き立てた〈禍ツ竜〉とはまるで別物だ。
あらゆる能力が格段に上昇している。リュウモひとりでは逆立ちしようとも勝機はない。
前肢が振り上げられ、小さな邪魔者を押し潰そうとした。
まさに、一撃必殺。振り下ろされた手はリュウモを確実に捉えていた。即死だ――リュウモがひとりであったならば。
「――――――ッ!?」
受け止める。質量の差からそれは土台からして無理であるはずだった。
「おれも、あのときとは違うぞ……!」
自らのみならず槍からも供給される〈竜气〉が不可能を実現する。
押し切ろうとする〈禍ツ竜〉を逆に弾き返す。信じられない腕力の増大に、リュウモ自身が一番驚いていた。
「二対一だけど、文句はないよな」
こんな急激に力が増えれば普通は制御できない。だが、リュウモが言った通り二対一だ。
細かい制御はすべて〈龍王槍〉が行っている。むずかゆい感覚がするが不思議と不快感はない。
〈禍ツ竜〉が息を深く吸い込んだ。炎が来る。
避けるのは簡単だ。口の向きに気を付ければいい。だが、ちろちろと炎が出る口を、『竜』は下へ向けた。
「いぃ――!?」
吐き出された炎が、大津波のように迫る。爆炎の巨壁が標的を燃やし尽くそうと押し流しにかかる。逃げきれない、ならば……。
(イスズさんがやった動きを……!)
槍を構える。『合气』が彼女の動作を完璧に再現した。不可視の空気の刃が、一閃された槍より飛ぶ。両断。
「――――ッッ!?!?」
炎の壁に飽き足らず〈禍ツ竜〉の額に真一文字の裂傷が走り、出血する。
「腕が、なんともない」
明らかに、今のはリュウモの限界を超えていた。本来なら反動によって副作用が出る。
だが、ない。つまり〈龍王槍〉が反動を抑制し、癒しているのだ。多少無理に動き回ってもいけそうであった。
絶叫が耳をつんざく。傷つけられた〈禍ツ竜〉は怨敵を見据えた。四足の足で地を踏み付け、余りある質量をもって突進して来た。
その動きだけで人間を殺傷できる。地が鳴り、死が音を立てて迫る。
対し、リュウモはぎりぎりまで引き付け、前へ急加速した。緩から急へ。小柄な体を利用して『竜』の視界から離脱。
後ろへ回り込む。狙いは首の付け根、人でいう後頭部だ。
人間と同じ、『竜』にも急所がある。そこを狙う。都での初邂逅では後ろへ回り込めなかったが、今ならできる。
槍の加護を受けて強化された身体能力を生かし、敵の体を駆けあがる。大きくはあるが、一般的な翼竜の体躯とはそう変わらない長い首を蹴った。狙いを定める。
「――――オォォォ!!!」
爆発が起こったとしか思えない咆哮と共に、大量の〈禍ツ气〉が『竜』の体から発せられた。途轍もない量がゆえに、リュウモの体は枯葉のように宙を舞った。
発散された〈禍ツ气〉は邪魔者を殺そうと存分に効力を発揮する。
(く、くそっ)
急傾斜から転がり落ちるように吹き飛ばされ、槍を突き立ててやっと止まる。『龍』の骨同士がぶつかり合い、火花が散り、穂先が赤熱化する。
「……いッ!?」
体中に痛みが駆け回る。擦り傷の痛みではない。火に炙られるような痛みだ。
左耳が特に酷い。鈍器で殴打でもされたかのようだ。
「〈禍ツ气〉のせいかっ」
四散した〈禍ツ气〉が自らの脅威となる者を排除しようとしている。今まで〈龍王槍〉が守ってくれていたが、この濃度では限界に達してしまったのだ。
時間が経過するほど不利になっていく。やるならば短期決戦しかない。
〈禍ツ竜〉が仕掛けてきた。前肢を存分に活用した猛攻がリュウモの体力と精神を徐々に削り取る。
炎の吐息、尻尾による牽制、〈禍ツ气〉の効果で失われる集中力と気力。
逃げ回るしかできなくなり攻められない。このままでは敗北は必定にように思われた。
(おかしい、なんでこんなに攻め立てて来る?!)
猛攻、言い換えれば死に物狂い。悪く言えば、後が無いような攻め方だった。
『竜』であろうといつまでも動き続けていれば消耗する。まして『气』を全開にしているなら尚更だ。休息を挟まない連撃は余裕の裏返しとも取れるが……。
(違う。こんな必死な目をする奴がそんなこと考えるはずがない。捨て身だ)
建物を一発で倒壊させる爪がぎりぎり上を通り過ぎる。左耳があったままならば千切れ飛んでいたかもしれない。
――なんでだ、有利なのに、なんでここまでする……?
理由が解明できれば反撃の糸口が掴める。今が我慢のしどころだった。
前肢が思い切り振り上げられた。見切り易い動作。――好機。
「オオォ!」
跳ぶ。前肢と入れ替わるように〈禍ツ竜〉の首へ。
槍を振り抜いた。重たい手応えの後、大量の出血。苦痛にのたうち回る〈禍ツ竜〉の尾が運悪くリュウモを叩き落とす。
「ガッ――――い、つ……」
槍を杖代わりにして立ち上がる。ぶつかる瞬間、槍を盾にして『气』を集中させた。おかげでなんとか無事だ。足が震えているがまだ戦える。リュウモはおのれに喝を入れる。
応えるように〈龍王槍〉が白い『气』を発し、リュウモの負傷を癒した。
途端、〈禍ツ竜〉は叫び、激しい憎悪をぎらつかせながら襲って来た。
(〈龍王槍〉の『气』に反応してる? ……! そういうことかっ)
槍が侵された自然を一瞬で元に戻した光景が脳裏を過る。
(こいつには、〈龍王槍〉の『气』は猛毒なんだ。だから、おれを……!)
〈禍ツ气〉より生まれ出た存在ならば、それを浄化する相手は天敵なのだ。一刻も早く始末したいのだ、でなければ自らが浄められ死ぬ。戦いが長期に渡れば不利になるのは必至。
すわなち、リュウモは相手と同じ土俵の上に立っている。しかも、敵は満身創痍、〈竜守ノ民〉とラカンの傷は完治していない。だが、それでもなお。
(まずい、あいつが消える前におれが倒れる……っ)
この〈禍ツ气〉の濃度だ。普通ならなんの対策を講じていなければ十数秒と経たずに死亡する。リュウモの息があるのは、槍が守ってくれているからだ。
――もうすこしだけ、踏ん張ってくれ!
槍が応え、『气』が強まる。〈禍ツ竜〉の雄叫びが周囲に響く。
さっきと同じようになにか来る。だが、今度は苛烈な攻撃はなかった。〈禍ツ竜〉は前肢で器用に胸部を掻き毟っていた。
血が噴出する。突き立てられている〈龍王刀〉に爪が当たる度にバチバチと音が鳴り、弾かれている。槍と刀が共鳴し、力が強まっていた。
激痛にもがき苦しむ〈禍ツ竜〉は、口から血反吐を吐きながらも闘志を絶やさない。命を奪い去る〈禍ツ气〉が濃くなる。
すると、『龍』の頭骨に黒い線が浮きあがる。それは、水が高所から低所に流れるように伸びて落ちていく。大地へ、大地へと。
「……!」
此処がどのような機能があるのか、全容を把握しているわけではない。だが、リュウモは今の『气』の流れからおおよそを理解する。
〈竜峰〉は巨大な『气』を地へ流し込む注ぎ口なのだ。かつての『龍』達は此処で力を解放し、大地を自らの清浄なる『气』で満たした。
役目を終えた『龍』は墓にて眠りについたのだろう。つまりは。
――このまま放っておいたら、こいつの〈禍ツ气〉が世界中に染み渡る、そうなったら……!
人の世は地獄の様相を呈する。作物は育たず、水は飲めず、そこかしこから狂った『竜』が生まれては人間を喰らう。
そうなれば人だけではない。正常な『竜』すら全滅する。世の理は、すべて崩壊する。
「そんなこと、させるかァ!」
皆が築いてきたものを無にさせなどしない。この『竜』を今ここで討たなければ未来はない。だから、斃す。
もうなりふり構っていられない。『气』を枯渇させる勢いで解放する。後のことは、目の前の敵を倒してから考える。
「――――オオォォオッ!!!」
体内を浄化の力によって焼かれても、憎しみは絶えず。破壊の化身は吠える。
全身全霊の戦いが巻き起こる。
条件は互いに同じ。実力は加護を受けたリュウモがやや劣る。
しかし、リュウモはひとりではない。死角から来る攻撃をすべて〈龍王槍〉が検知する。骨まで灰にする吐息も、目にしてきた戦いから最適なものを選んで迎撃する。
小さな体は、巨体を翻弄する。
(き、つい……ッ)
『气』の消費から来る疲労からではない。〈龍王槍〉が供給する膨大な〈竜气〉がリュウモの体を傷つけ始めたのだ。
幼いリュウモの体は、とてもではないが成熟しているとは言えない。
入るはずのない容量を体内に注がれ、破壊された箇所を片っ端から修復しているのだ。負担が掛からないはずがない。
一歩を踏み出す度に骨が軋む。痛みが生じ、即座に回復する。
〈禍ツ气〉による外からの猛威、分不相応な力を扱うことからの内部の自壊。
倒れそうになる。リュウモは休息を求める肉体の要望を跳ね除ける。
「まだ、だ……まだ倒れるなッ!」
自分から膝をつき地に伏すなど言語道断。協力してくれた人の想いを踏みにじる所業だ。
崩壊していく肉体は、秒刻みで動きをほんの僅かに鈍らせていく。しかし――。
(見つけた、ぞ、お前の弱点!)
槍と刀は強く共鳴すると〈禍ツ竜〉を異様に苦しめていた。両方が接近すればするほど、浄化の力は強力になっている。
ならば、全力を込めた槍を突き刺せば効力が増し、槍と刀の力に内側から破壊されることになる。そうなれば、いかな〈禍ツ竜〉といえども立ってはいられまい。なにより、突きだけは戦いの中で非常に警戒していたのだ。深く叩き込めば勝機はある。
前肢の地を引っ繰り返すような横払いを高く跳躍して躱す。〈禍ツ竜〉は宙に飛び上がった獲物を撃ち落とそうと、息を吸い込み――驚愕に目を見開いた。
「行く、ぞ!!!」
リュウモは投擲の姿勢に移行していた。
〈禍ツ竜〉にとって、その選択は埒外であっただろう。リュウモは槍の力のおかげで尋常ならざる動きを可能としている。代償として自らの崩壊すら〈龍王槍〉が治している状態だ。
槍を手放せば、短期間で体内に蓄積していた傷が一気に反動となって襲い掛かる。
知ったことか。リュウモはありったけの『气』を槍に込める。手から離れた途端、〈竜化〉が解除されるわけではない。だが、供給が弱まるのは確実だ。
かまうものか。〈禍ツ竜〉はすでに回避を行えない。攻撃を中断しても、槍は体のどこかには突き刺さる。これだけ大きな的を外すほど、リュウモは未熟ではない。
「うあぁァァァ!!!!!!!」
全身全霊、全力全開、全精力を傾けた一矢を放つ。
〈禍ツ竜〉は爆炎でもって迎え撃った。
炎と槍が激突する。
数瞬の拮抗の後――槍が炎を喰い破った。
〈禍ツ竜〉が迫りくる脅威に反射的に首を逸らした。首元を掠めて槍は後方に飛ぶ。
安堵を浮かべた〈禍ツ竜〉は即座に顔を苦痛に歪ませた。
大地に縫い留めるように〈龍王槍〉は尾に突き刺さっていたのだ。
浄化の力が『竜』の内側を焼く。刀と槍の白い『气』が〈禍ツ竜〉を絡めとり、苦しめた。
だが、致命傷ではない。耐え切る。
〈禍ツ竜〉は激痛の中に勝利を夢想していただろう。小さな影が、動けなくなった自分に落ちて来るまでは。
「終わり、だァァァ!!!」
刺さっている〈龍王刀〉に手を掛けた。
最後の力を振り絞り、深々と短刀を斬り下ろした。『气』によって形成された白刃は、臓器にまで達する。
「うッ……」
受け身も取れずに地面に激突する。悲鳴はなく、〈禍ツ竜〉はおのれを斬った相手を見下ろしていた。
やがて……赤い目から力が抜けていき、倒れた。
「は、が、ぐ、げッ……!」
リュウモの体を反動が体を蝕む。ビキビキと骨が鳴り、筋肉が音を立てて断裂する。立ち上がることもできず、激痛に呻いた。
〈龍王槍〉が尾から引き抜かれ、勝手にリュウモの手に触れる。
『气』が供給され、リュウモの体が治癒される。破滅しかけていたリュウモは、槍によって助けられた。ふらふらと立ち上がり、槍を支えにする。
「ありが、とう、助かった、よ……」
息も絶え絶えに礼を言った。しかし、槍かリュウモのどちらかが限界なのか、治癒が今以上に進まない。
――でも、十分だ。これなら歩ける。
頭を上げているのも辛くなりうつむいた。視線の先にある『龍』の骨がまだ黒い線を浮かばせている。
「生きて、るのか」
〈龍王槍〉は〈禍ツ竜〉の方へ引っ張ろうとする。止めを刺せと言っているのだろう。
リュウモは故郷を滅ぼした仇敵の前へ歩いた。顔の前で止まる。浅くではあるが呼吸をしていた。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
なにもできず、弱々しい姿をさらす仇の様子を、リュウモはただ見つめた。
「おれは、心の底から『竜』を憎いと思ったことなんてない」
槍を手に、リュウモはぽつりと零した。双角をじっと見つめていたとき、憎しみは湧いてこなかった。
『竜』の営みを目にしたとき、破壊してやりたいと思う暗い気持ちは湧き出なかった。
「でも、お前は憎い」
故郷を焼き払ってきたこの敵が、憎い。
〈竜守ノ民〉を殺したこの敵が、憎い。
大好きなジジを殺したこの敵が、憎い。
それでも――。
「それでも、おれがお前を倒すのは、憎いからじゃない」
倒れている、真っ赤になった瞳を見下ろす。
「お前を倒すのは、命をかけておれをここに導いてくれた人たちの遺志を、壊そうとするからだ」
槍を振りあげる。敵であった相手に、狙いを定めた。
「だから、ここで斃れてくれ」
なんだか懺悔みたいだな……そう思いながら、リュウモは〈龍王槍〉を〈禍ツ竜〉に突き立てた。ぶちり、と音がした。
槍を引き抜くと、命を刈り取った手応えが、生々しく掌に残った。
全身が、枯れ木がたわむ時の音を出している気がした。どこもかしこも怪我だらけで、〈龍王槍〉が助けてくれなければ死んでいた。
――痛い……。
傷のせいで、頭がぼんやりと重たい雲がかかっている。ドシャリ、と音がする。
それが自分が倒れた音なのだと気付くまで、リュウモはすこし時間を必要とした。
「あ、れ……」
まだだ、まだ『使命』は終わっていない。『龍』の頭骨は〈禍ツ气〉が残留したままだ。
「動け、動、け、動け……っ」
辛うじて右手が動く。五指で骨の表面を捉え、体を引き摺る。
――お願いだ、もうすこしだから、動いて……!
目の前が霞んで消えていく。体が強制的に暗闇に意識を落とそうとする。
駄目だ、ここで意識を失ったらなんにもならない。
――動いてくれ、動いて、動いて、動い、動……。
――できるさ。お前はわしの大切な、誇り、生きた証。ああ、わしの孫なんだから。
どこにもいない、ジジの声が聞こえた。
「――――ッッッ!!!!!」
踏ん張る。失いかけていた意識が戻る。火が付いたように立ち上がって進み出す。
〈竜峰〉はもう見えている。目に映っている。手が届く場所にある。
――行かないと。そうじゃないと……。
家族の、一族の死がすべて無為なものになってしまう。だったらやるべきことはひとつだ。ひとつ以外ない。
リュウモは全身を引きずるようにして、足を進める。進め続ける。
やがて、頭骨の額部分に辿り着いた。
眼下に広がる光景は、この世すべてを見下ろしているかのような錯覚を感じさせる。
雄大な大地の緑がどこまでも広がり続けている。
リュウモは理解した。ここは、司令塔だ。この大地に指令を飛ばす、尖塔。
『龍王』の遺骸から作られた笛でもって『气』を吹き込み、その意思を余すことなく伝えきるために大地が作り出した塔。自分は、指令を正確に伝播させるための演奏者なのだ。
だからきっと、世に絶望したまま笛を吹けば、『气』は奏者の意思を伝え、世界を滅ぼしてしまうのだろう。
「――――――」
リュウモは〈龍赦笛〉を握って、口をつけた。なにを吹けばいいのかわからない。
どうすれば『竜』を鎮める音楽を奏でられるのか、知るわけがない。村に伝わっていたどの調べを演奏すればいいのか、理解できるわけがない。
リュウモは『人』であって『竜』ではないのだ。――だから、なにを奏でればいいのかは、笛が教えてくれた。
〈龍赦笛〉が『气』を走らせた。その動きをリュウモは追った。自然と指が動き、息を笛へと送り込んだ。
笛より流れ出たのは、体が寒気立ち、怖気立つほどの澄んだ音だった。同時に、なにかを強く頭ごなしに命令する、きつい調べのようにも感じられる。
リュウモは、ただただ、必死に笛が指し示すまま、命令を飛ばし続けた。
「む? 止まった?」
ガジンが丁度、二百匹目の『竜』を仕留めた矢先、彼らの動きがぴたりと止まった。
辺りは酷い有様だ。木々はなぎ倒され、焼け落ちている。その真っ只中に〈八竜槍〉のガジンは、突然止まった『竜』を不審がる。
「――リュウモがやったのか?」
疑問に答える者はいなかったが、ガジンの言葉を証明するように『竜』に変化が起きた。突如あらわれた時と同じく、体がほどけて消えて行く。蚕の糸をほどいて絹にしていくように、歪んだ『气』が浄化され、真っ白になって大気に溶ける。
濃い霧が晴れて行くような光景だった。〈禍ツ气〉に蝕まれた『竜』はすべて、大地へと還っていった。
「はあ……とりあえず、終わったか」
ガジンは安全を確認すると〈竜化〉を解いた。体を一度休めるために倒れていた木に腰かけた。
ガジンは〈竜峰〉の方へ目を向けた。事が終わったのならば、リュウモはこちらに向かって来るはずだが、怪我で動けない可能性もあり得る。
「迎えに行ってやらねば」
休息を終えたガジンが立ち上がると同時、〈竜峰〉の反対側から、ロウハとイスズの二人が歩いて来た。
「終わ……った――」
笛が伝えて来たすべてを模倣し終わるのと、『竜』たちが静まったのは、同時だった。
〈禍ツ气〉から生まれた『竜』は大地へと還って行ったようで、峰の下からいくつかの『气』が白い霧となって天上へと噴きあがって行っていた。
それが『使命』の終わりを告げていた。
強い日差しと、立ち昇る濃霧に似た『气』とが合わさって、雪を陽光で照らしたかのように、きらきらと世界が光を乱反射させていた。
蜃気楼のようにすべてがぼやけて、輪郭をふわふわと溶けさせている。
普通では見られない超常的な景色を、リュウモは呆然として目に焼き付けていた。
自然が生み出す以上の、神秘そのものといっていい景観が、ぼろぼろになった体のすべての痛みと疲れを忘れさせた。
すこしずつ白い『气』の霧が晴れて行くと、後ろでいくつかの気配がした。
リュウモが後ろを向くと、ガジン、イスズ、ロウハの三人が、歩いて来た。大きな怪我はしていない。
彼らが無事で、リュウモはほっとした。どこもかしこも痛む体を動かし、三人を安心させようと歩こうとして――――視界が下へ向かって落ちた。目には頭骨の色しか入らなくなった。
(あ、れ……?)
リュウモは、自分でもびっくりするほど体に力が入らないことに驚いた。それから、体から感覚が抜けていくと、強烈な眠気が襲って来た。
(そう、言えば……)
――こんなことが前にもあったっけ。
そうだ。ガジンたちを〈龍赦笛〉を使って助けたときだ。笛を吹いたあと、それなりに動けたはずだが、今回は長時間の使用だったためか、指先どころか目さえも動かない。
それに、体の疲れはもう限界をとっくに超えている。酷使し続けた心身は、ここに来て深い休息を欲してきた。リュウモは、その二つに今回は黙って要求を受け入れた。
「しっかりなさいッ!」
鈴を激しく鳴らしたような声を最後に、リュウモの意識はそこで途切れかけた。
「よくやった、よくやったぞ、だから死ぬな!」
よくやったぞ。
ああ、それは、きっと、自分が大好きな人に一番言ってもらって嬉しかった言葉だ。
(爺ちゃん……)
もういないたったひとりの家族。そうだ、自分はただその言葉だけのために……。
――そっか、おれ、爺ちゃんに、褒めてもらいたかったんだ。
ふわっと、誰かが頭を撫でた。
(爺、ちゃん……)
その感触を忘れるはずがない。リュウモはなけなしの力を絞り出し、ほんのすこしだけ首を動かした。
白い、朧気な影があった。
(爺ちゃん……!)
おれ、やったよ。頑張ったんだ。だから――。
『よくやったぞ、リュウモ』
ただそれだけを言って、影は消えて行った。三人には見えていないのだろう。必死にリュウモに話しかけている。
リュウモは、微笑んだ。すべてをやり遂げて、心から脱力する。
――目蓋を閉じた暗闇の奥で、みんなが笑っている気がした。
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