第39話 〈禍ツ竜〉
巨大な影を目にした瞬間、リュウモは都の外へ一刻も早く出なければならないと確信した。黒い巨体に赤黒い目が、こちらを見たのだ。
〈禍ツ竜〉は、右目が潰されて、隻眼となっていた。残った左目は、リュウモを捉えて離さない。まるで、強い恨みを抱いているかのようだった。
――襲ってくる……!
〈禍ツ竜〉は徐々に高度を落としている。ここが戦場になれば、また燃やし尽くされる光景を目にすることになる。それは、リュウモは嫌だった。
「こっちだ、こっちへ来い!」
言葉を理解しているのか、赤黒い目がリュウモを見据える。
全力で都の外へ走り出ると、待ち構えていたかのように地面に下り立った。
振動が大地を揺らし、小規模の地鳴りが起きる。
(こ、の……揺れ――ッ!)
知っている。故郷の〈竜域〉で、皆と共に逃げ回ったときのものと同じ。
「お前が、みんなを……!」
リュウモは怒りをあらわにし、〈禍ツ竜〉を睨み付ける。
隻眼の黒竜は、双眸を輝かせ、獲物を前に口を裂く。
(翼竜だ、そんな変わらない)
形はリュウモが知っている『竜』とさして変化はない。
一対の翼と四足歩行を可能とする前肢と後肢。あらゆる生物の攻撃を受け付けない鱗と甲殻は、所々がひび割れ、切り裂かれている。
〈竜守ノ民〉と戦った結果、負った傷だろう。つまり――。
――弱ってる……!
リュウモは〈龍王刀〉を抜いた。骨の白い刀身が発光し輝いた。
白光が目障りだと、〈禍ツ竜〉は吠える。咆哮は空気を激しく打ち据え、ビリビリと鼓膜が振るえた。
「ここからさきは、行かせない!」
駆け出す。〈禍ツ竜〉は怯まず一歩も引かず、怨敵を睥睨している。
「――!」
『使命』を果たす。死んで逝った者たちのために、リュウモは命を賭す。
再び、轟音が月下に響いた。
同時、〈禍ツ竜〉は息を大きく吸い込む。口の端からちらちらと炎が漏れ出ている。
火炎の吐息がくる。リュウモは大きく横に逸れて避けようとした。
『――――ォ、ォォ……!』
突然、〈禍ツ竜〉はむせ返るように息を吐いた。見れば、首元に大きな傷がつけられていて、上手く炎を吐けないようにされている。
好機を逃さず、リュウモは懐に深く入り込み、刀を一閃する。
「アァァァ!!!」
腕、胸元を何度も何度も斬りつける。その度に、赤黒い血液が噴き出す。
(いける、斬れる……!)
相手は弱っている。なら、頭に刀を突き刺せば……。
希望を垣間見た瞬間、〈禍ツ竜〉は、炎の代わりに爆音を周囲に巻き散らした。
「い……!」
鼓膜が破れるかと思うほどの音量。リュウモは反射的に耳を両手で塞いでしまう。
音で脳と鼓膜が大きく揺れ、平衡感覚がわずかにずれる。
耳鳴りが治まる前に、巨大な『竜』の手が迫っていた。
「が……ッ」
回避が間に合わず、まともに一撃を受ける。優に十度は地面を転がってようやく止まる。
(い、たい……)
視界がぶれる。体が止まれと命令する。
(い、やだ……こんな、ところで、なにもできないまま、死んで、たまるか――!)
故郷も、村の皆も、死んだ意味がなくなってしまう。大切だった人たちの死が無意味になってしまう。
――嫌だ、絶対に、嫌だ……!
駄々をこねる子供のように体に喝を入れ、鞭を打ち立ち上がる。
〈禍ツ竜〉は、切り裂かれた箇所からだらだらと流血している。致死量にはまだほど遠い。
さきにどちらかが倒れるかなど、火を見るよりも明らかだった。
それでも、リュウモは真っ直ぐに敵を睨み付ける。刀を絶対に離さぬよう握り締めた。
(胸元に傷が多い。きっと、みんながつけた傷だ。あそこに、突き刺せれば――!)
『竜』であろうと生物に違いはない。臓器があり心臓がある。
どんな生き物だろうと、首を刎ねられるか心臓を潰されれば死ぬ。
血で赤く染まった〈龍王刀〉が強く発光する。刀も、作戦に賛同しているようだった。
だが、もう一度距離を詰められるか。至近距離で咆哮を食らえば体が硬直する。
同じことの繰り返した。そうなってしまえば膨大な生命力を持つ『竜』へ軍配が上がるのは必定である。
「止まれないんだ、おれは……!」
発走する。策はなくとも、止まっていられない。敵は〈禍ツ竜〉だけではないのだから。
(どうにかして、どうにかして隙を作れば……)
ほんのすこしでいい。〈禍ツ竜〉の気を逸らすなにかがあれば……。
〈禍ツ竜〉の口角があがる、無駄なあがきをする人間の姿を嗤うように。
その小さな人間の後ろから、なにかが高速で通過した。
『――オォォォ!?』
飛来した細長い影を、〈禍ツ竜〉は全力で避ける。巨大からは考えられない機敏さであったが、それ以上に影は早かった。
――槍?!
『竜』の首元を狙った見覚えのある槍は、直撃にこそ至らなかったものの、首を切り裂いていた。
〈禍ツ竜〉の意識が逸れる。
リュウモは全力で疾走し、体ごとぶつけるように〈龍王刀〉を『竜』の胸元へ突き入れた。
『――――――!?!?!?!?!』
激痛に『竜』が絶叫する。痛みから逃れるように、〈禍ツ竜〉は両翼を広げ飛び立った。
浮遊感がリュウモの感覚を狂わせようと襲う。
――斃れろ、斃れろ、斃れろ……!
祈りを捧げるように、あるいは呪詛を吐きつけるように言い続けた。
刺した刀の柄の尻を掌で叩き、さらに深く、心臓に到達させようとする。
血飛沫があがり、リュウモの目を赤く染めた。異物が入ったせいで視界がおかしくなる。
「う、あァァ!!!!」
渾身の力を込めて柄頭を殴る。刀がさらに深く入り込む。
『――オォ、オオオオ!!!』
ついに、〈禍ツ竜〉の手がリュウモの小さな体を打ち据えた。
我武者羅に振るっていた手がぶつかってしまったのだ。
空中に放り出された。
地面が秒ごとに近付き、その度に心臓や肝が縮み上がる。
――衝撃は、地面に叩きつけられるより早かった。
木々の枝に身体中がぶち当たり、衝撃で四方八方からタコ殴りにされた。
バキ、ガッ、ドっと、音が耳に響いた。痛みよりも先に音が届き、背中から草木茂る地面に激突した。「けはっ」と、口から空気が抜ける声が出る。
凄まじい痛みは、そのあとにやってきた。殴打された時のような、鈍い痛みが全身のそこかしこから発せられている。骨がじんじんと音を立てて軋んでいるかのようだった。
「いっづ……」
口から血の味がした。痛みにのたうち回ることすらできず、ごほごほと息を吐き出す。
最後に背中を強打したせいか、肺の動きがおかしくなっている気がした。
二分ほど経って、やっと動けるようになると、今度は全身に負った打撲が神経を刺激する。
「い、ぎ……!」
思わずうずくまってしまったっが、そのせいで別の個所が激痛を訴える。
(これは、ちょっと、おとなしく、してないと、駄目、だけど……)
あの〈禍ツ竜〉がどこに向かったのか突き止めないといけない。もし、どこかで暴れ回りでもすれば、惨劇が引き起こされるのは必定だ。
「行か、ないと。あれじゃ、きっと、死なない……」
深手を追わせはしたが、致命傷ではなかった。『竜』の強靭な生命力、強力な治癒力は、人のそれをはるかに凌駕している。身体を休めれば、再び人を襲い始めるはずだ。
リュウモは、痛めた身体を引き摺るように、重い足取りで進み始めた。
墜落したのは、小さな山の頂上であったらしい。月明かりの下で照らされた他の山々が顔を見せている。周囲には、あるべき獣の声も、虫の鳴き声もない。すべての命が『竜』に怯え、隠れてしまっていた。
よろよろと歩きながら、時には木に身を預けて休みながら、下山する。
足音だけが、夜の山に虚しく響いていた。
痛みと疲労で意識が朦朧となってきた時だ。木の根に足をとられ、身体の均衡が崩れた。
「あ――――――」
途端、あらゆる支えを失ったかのように、リュウモは前に転倒する。比較的緩い傾斜といえ、山である。小さな身体は、ごろごろと転がる小石と化し、下へ、下へと進む。
ドンっと、音が鳴って、ようやく止まった。意識を引き千切るほどの痛みが身体に走り、動こうとする意志を粉微塵にしようと身の内を這いずり回る。
痛みが収まった。仰向けになり、亡羊としていたリュウモの顔に、緑色の葉っぱが落ちた。激突の衝撃で落ちてきてしまったのだ。
葉を退かす力すら、四肢には残っていなかった。視界がかすみ、物の輪郭、次第には色さえもぼやけて混じり始めた。
(動かない、と……)
リュウモの意思に反し、身体は強制的に意識を闇の中に突き落としてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます