第49話 竜域進行

 〈竜域〉に入った。肌や『气』だけではない。周囲の植物が明らかに変化している。

 巨大な木々や植物は圧力を感じさせようとしているわけではない。ただそこに在るだけだ。人間を害しようとはしていない。

 であるのに、大蛇の腹の中で圧殺されるような締め付けが、体を芯から竦ませようとしてくる。


(人の世では無き地。元より住むことすら許されない隔離された世界。ここが、〈竜域〉)


 イスズは、なにもかもが雄大な〈竜域〉を目にしながら、感動を覚えていた。心が畏れを抱きながら、体の調子が限りなくよいお陰で、精神が無駄に高揚しているせいもある。

 だが、それ以上に興奮が抑えられない。

 学問に携わる者なら、一度は『竜』について調べたいと切望する。禁忌指定されていなければ即調査に行く研究者もいるだろう。

 途中で諦めたとはいえ、イスズも学士の端くれだ。血が騒がないはずがない。

 『竜』に魅入られた人間は、二度と俗世には帰れない、という学士の間で有名な格言がある。その格言の真偽は、シキが証明している。

 理性を焼き斬ろうとする焦がれる知識欲が、イスズの内で渦巻いていた。。


「おい、イスズ。あんまりキョロキョロ視線を飛ばすな、集中しろ。ここは〈竜域〉だぞ死にたいのか」


 叱責が、イスズを正気に戻す。


「申し訳ございません、気を引き締めます」


 馬鹿な欲に駆られ、役目を疎かにしてしまっていたことに、イスズはおのれを省みる。

 これでは自分が愚か、と言ったシキとなんら変わらない。

 血に抗うなど、並大抵の精神ではできぬ。

 幼い頃、苦笑しながら言っていた祖父の言葉が脳裏をよぎった。心を落ち着かせ、高ぶる欲を制御しようと、大きな深呼吸をして――リュウモが立ち止まった。


「止まって下さい」


 静かな声には、子供とは思えない力があった。特定分野の専門家の発する、経験と知恵からくる冷静さを、少年の声は含んでいる。


「なんだあ、鹿も止まりやがったぞ」

「地面を掘り返しているが、リュウモ、これはなにをしているのだ?」

「土の中にある、木の根っこを食べているんです」


 緊張に穴が空いて、イスズの体から力が抜ける。


「こ、こいつ、人の気持ちも知らねえで悠々と……つか、なんの根を食ってんだ?」


 悪態をつきながら、ロウハは森鹿の傍によって観察しようとした。ロウハの腕を、慌ててリュウモが掴んだ。彼は訝しげにリュウモに振り向く。

 リュウモは進行方向にある、巨大な樹木を指さす。イスズは、彼の指先にあるものを認識すると、口に力が入った。

 骨だ。小型、中型動物の白骨が、巨木の根本に転がっている。中には、まだ肉が骨に張り付いている物まである。


「竜喰い樹。『竜』を喰う樹です。人にも反応するから、近づいちゃ駄目です」

「おいおい、樹がどうやって『竜』を喰うんだよ」


 リュウモは石ころを拾うと、樹の根本に投げる。すると……まるで蛸の足のように、太い根っこがうねうねと動いた。数秒経過した後、根は元に戻る。


「根の力は、小型の『竜』なら簡単に絞め殺せます。絡めとられたら、逃げるのは難しい」

「なんとまあ、恐ろしい樹木だな。切り倒すか、進むのに邪魔だ」

「駄目です、ガジンさん。周りを見て下さい」


 ガジンより早く、イスズは辺りを見回した。だが、植物にそこまで詳しくないせいで、違いや危険性のある物は見分けられなかった。


「竜喰い樹は、捕食した『竜』の栄養の一部を、地面に流して他の植物を育てるんです。切ってしまったら、均衡が崩れてしまう」


 イスズは、少年の知恵に感心すると同時に、親近感のようなものを覚えた。彼の知識は、禁忌という点を除けば、学問のようだったからだ。

 物事の関連性と与え合う影響を分析し、分解、理解に至ろうとする。まるで、最先端の技術者のようでもある。


「樹の周りにある植物を食べようと『竜』は来るけど、樹には近づかない。そうなると、他の動物は安全に食べ物にありつける。でも」


 リュウモは、地面を掘って根を頬張る森鹿を見る。


「竜喰い樹は、偶に眠ったように動きが鈍くなるときがある。それを狙って『竜』は狙いを定めて獲物に襲い掛かる」

「はーん、上手いこと周り巡るようにできているわけか。下手に刺激すんのは危ないらしいぜ、ガジン」

「わかったわかった。だがリュウモ、樹の動きが鈍っているなら『竜』が近くにいるのではないか?」

「森鹿は肉食の『竜』の気配に敏感です。近くにいたらすぐ逃げますよ」


 また森鹿が動く。腹を満たして気分が良いのか、心なしか歩調がゆっくりだ。

 周囲に気を配りながら進むと、景色が徐々に変わる。鬱蒼として光が葉や枝に遮られていた状態から、頭上に陽が降り注いでいる。


「これは、また……凄まじいですね」


 適切な言葉が見つからず、イスズは至極単純な感想しか言えなかった。

 樹木だ。幹の周囲が一軒家を越えている巨木が、尖塔のようにそびえ立っている。それらは見渡す限りに点在し、視界を茶に染め上げている。

 先程まで、頬や首筋に纏わりついてきた覆い茂っていた葉が嘘のような光景だ。


「おいおいおい、『竜』が大量にいるが大丈夫なのかこれ……!?」


 木々の根や水場に百を超える『竜』が当たり前のように闊歩していた。外見だけで判別すると、三種類の『竜』がいる。


「全部、大人しいので危険はないし、触っても平気なのもいます。根本と洞にいる子供に手を出さなければ」


 リュウモが指差した方に、『竜』赤子が顔を出していた。初めて見る相手に好奇心が刺激されたのかもしれない。


「坊主、一応聞いとくが、手を出したら?」

「群れが一斉に襲い掛かってきてぼこぼこにされますよ。噛み砕かれるか、尻尾で吹き飛ばされるか、一本角で刺し殺されるかです」


 イスズは『竜』の目が常に自分達へ向いていることに気づく。彼らは初見の相手を見定めている。味方か、敵か。無害か、有害か。樹木の間に引き絞られる弦のような緊張感が漂っていた。


「了解、さっさと抜けちまおう。おら、鹿さんよ、きりきり案内しろや」


 せせら笑うように、はんっと鼻を鳴らす。森鹿は歩いた分の栄養を補給するように草を食べる。進行は停止だ。


「なあ、坊主。こいつの尻、引っ叩いてもいいか」

「止めた方が……森鹿の蹴りは、小型の『竜』なら一発で殺してしまうぐらい力があるので……」

「それはまた恐ろしいですね。〈竜域〉の生物は、皆こうなのですか?」

「はい。熊とかもいますけど、外よりずっと強いです」

「〈竜气〉は人体に影響を与える、か」


 イスズは自分の長い長髪の一房に触れる。緑色に変色している髪は、〈竜气〉を行ったときにこうなった。〈竜槍〉との相性がよいのは喜ばしいのだが、適合率があまりに高いと、槍に食われる。皇国の歴史上〈竜槍〉に食われた者は何人か存在する。

 そのため、イスズは帝から〈竜化〉を無暗に使用しないよう注意を受けていた。


「もしかして、〈竜槍〉の力が、髪の色を変えたんですか?」

「ええ、皆は、わたくしが槍に食われるのではと案じていましたが、むしろ調子はよいくらいなのです。以前に〈竜化〉しましたが、肉体に変調があったわけでもないですね」


 〈竜槍〉に食われた者は、魂が欠落した痛みに悩まされ続けたという。イスズはそのような激痛があるわけでもなく、至って普通に生活を送れている。


「多分、〈竜气〉に体が適応したんじゃないかと。すごいですよ、おれ達の先祖は、最初は大変だったのに」

「わたくしの肉体は、貴方達に近しくなっている……?」


 リュウモはうなずいた。イスズは自分の白い手を握る。常人となんら変わらない掌。しかし、かけ離れた一撃を繰り出すことのできる手。

 シスイ家は、生来から環境に対する適応能力が高い一族だ。生まれてくる者が例外なく卓越した頭脳を持ち得ているのも、長年研究にすべてを費やしてきたからである。

 百を優に超える時、一族は道を決め選んできた。それは少年の一族も同じだ。


(わたくしの体、どのような仕組みになっているのか、解明してみたいものです)


 できるわけがないことは理解している。だが、数百の時間を飛び越える身体の構造は如何ほどのものか。人体の神秘、それを暴いてみたい。

 白と黒が混じった欲望が再び噴出しかける。

 ――嫌になりますね、性というものは。


「げ、このクソ鹿、腹一杯にしやがったら横になったぞ。まいったね、こんなところで止まらなきゃならんのかい」

「ここに来てから、神経がすり減りっぱなしだ……」


 『竜』の群れに囲まれている現状は、男二人には堪えるようであった。


(あ、ああ、嗚呼……! 一本角の『竜』あれは攻撃のみに使うのでしょうかいや鹿などは角をぶつけ合って牝を取り合うので求愛の際に争いにも用いられる!? あちらの亀が巨大化したような種は一体なんでしょう尻尾の先が円形になっているのは振り回して外敵を追い払うため!? な、なんでしょうあの鷲よりも大きく色鮮やかな羽を持つ鳥は派手すぎると天敵に発見されてしまうのでは!? 地、地鳴り、……!? な、なんと巨大な体躯! 二本の角に甲殻に長い尾……群れではなく単一で行動していますが個体数がすくないのでしょうああ! まとめる情報が多すぎる頭が割れてしまいそう!)

「あ、双角だ。珍しいな、草食性の群れにはあんまり来ないのに」

「待て、リュウモ、これは平気なのか高さが三階建てぐらいあるが……!?」

「なにもしなければ平気です。大人しい『竜』だから」


 根を椅子代わりにしていたリュウモが、双角を見もしないで呑気に言う。接近してきているのに、彼は立って近くにある湧き水で喉を潤す始末である。

 イスズは実感する。目の前にいる少年は、やはり、紛れもなく『竜』を知る者、〈竜守ノ民〉なのだと。『竜』が自分達を傷つけようとしていないことを、信頼などという甘い幻想に縋ったものではなく、蓄えられてきた事実から算出しているだけなのだ。だから、恐れる必要もない。


「なんという、立派な二本角……四足歩行に加えて狼のように鋭い目つき、肉食性に見えますが口と牙の形状から草食性でしょうか、口先が鳥類のようですから草や葉が主食……? 見てください後頭部から尾の先までびっしりと生えている鱗をあれで背を守っているのですね一部は甲殻のようになっている素晴らしいああ触れてみたい……!」

「おい、ガジン、イスズが狂い出したぞ叩きゃ直るか」

「ああいや、うん……こうなるときがある。放っておけ、直に収まる」


 諦観を含んだガジンの乾いた声だった。

 ロウハは深々と、森の地面に染みつくようなため息を吐く。彼は、一応護衛対象の近くに寄った。


「坊主、どんどん近寄って来てるがありゃ、いいのか」

「うーん……気性は大人しくて争いを好まないから、見たことない相手に近付くのは稀なんだけどなあ。〈禍ツ气〉もないしなにが原因――あ」


 リュウモは手に在る〈龍王槍〉に目を向けた後に、順々に〈竜槍〉を見た。


「こいつのせいってわけかい。だがどうして」

「自分の縄張りに、他の『竜』が侵入して来たって考えているのかもしれないです。〈竜槍〉の『气』が引き寄せてしまった、のかも」


 イスズは双角の前に立ち塞がろうとする。リュウモの話の通りなら、双角は侵入者を排除しに来た可能性がある。『竜』の存在感は圧巻ではあるが、勝ち目はあると勘がささやいている。


「大丈夫、戦いにきたわけじゃない、確認しに来ているだけ。通してください、おれなら平気ですから」


 リュウモは恐怖を抱いていない。彼の言葉を信じ、イスズは道を開ける。横を、木の幹よりも太い足が通り過ぎていく。

 人間より遥かな生命力漲る者が地鳴りと風を発生させる。振動は経験したことのない種類の揺れだった。

 双角は、リュウモの顔を覗き込む。青い瞳同士がお互いを見つめ合う。

 意思の疎通が言語を介さずに行われているのか、イスズにはわからなかった。

 だが、一人と一匹はおのれの意思を伝え合ったのか、危害を加える気がないと両者が分かり合ったようで、双角はリュウモの近くに横たわった。

 その行為に、一体なんの意味があるのか考察を重ねていたイスズであったが、結局はわからず終いであった。リュウモが大丈夫です、と言うと大人三人は彼の元に集まった。


「リュウモ、これはなぜ我らの元にやって来た? 襲いに来たわけではないのだろう」

「他の双角がいちいち確認しに来なくてもいいように、ここに居座ってるのかも……」

「他の? ではこの種は群れを形成して活動しているのですか?」

「ああいえ、そういうわけではなくて……。縄張りごとにヌシがいて、他の双角はヌシを中心として固有の、自分達の縄張りを持ってるんです。人でいう、親と子、みたいな」

「一頭の主を中心とした社会を築いている? 素晴らしいっ、『竜』とは我々の予想を遥かに超える知性を持っているのですね、つまり、この個体はヌシであると」

「は、はい、体つき、角を見ても、間違いないと思います」


 興味深い。意思疎通はどうしている。声を使っていないようだが、『气』を感じ取って互いの位置を把握しているのか。謎は深まるばかりで質問が連鎖的に増えていく。


「ガジン、研究者ってのは頭がトンでんのが共通事項なのか」

「頭のよい大馬鹿、愚者というのを、私達はよく知っているだろう?」


 明晰な頭脳の持ち主を前に、言いたい放題である。二人は『竜』を任務をこなすうえで霜害のひとつとしか思っていない。これほど腹立たしいことは、イスズにはなかったが言っても仕方がない。

 『竜』について、その深淵を覗き込みたいと思う人間は、研究者でもごく一部に限られる。共感を得られるはずがない。


「そもそも、オメーはなんで槍を始めたんだ。んなに『竜』を知りたきゃ帝に許可を貰えばよかったじゃねーか」


 うっと、イスズは言葉に詰まる。

 国の学士として役に立とうとしていた道を半ばにして諦めたのだ。『竜』への探求も、本来は妹のチィエがすべきことである。未練だ、とイスズは自嘲しそうになる。


「イスズに妹がいるのは知っているな。帝の話に出て来た子だ」

「ああ、鬼才だと帝が言ってたな、それがどうした」

「帝の評価は決して過大なものではない。解決法が見つからずとも、あの子は帝と同じ結論に達していたのだから」


 シスイ家の血が凝固して結晶化したような存在、それがイスズの妹だった。わずか十一で学術院に席を置いている時点で、その才は推して知るべしである。


「正直、まったくこれっぽっちも理解できないが、イスズ曰く、自分は頭の出来がよくないらしい。試験で二位、四位辺りを彷徨っていただけでな」

「おい、なんだそりゃ、国の最高位の試験を受けれてるのにそりゃねーだろ。だったら、あれか、俺らは猿以下か」

「さてな。優れすぎた妹がいたせいで、色々といっぱいいっぱいだった。で、気晴らしに近くの小さな道場で槍を始めたら、まあ、ご覧の通りだ」

「ははあん、わかったぞ、イスズ。さてはお前、面倒臭い女だな?」


 怠そうな顔で、地味な侮蔑を放つロウハである。イスズは憤慨した。


「だ、誰が面倒臭いですか! いくら貴方様であっても言ってよいことと悪いことがありますよ!?」


 男女に上下はないと定義しているイスズにも看過できない一線くらいはある。

 うるさい、とでも言いたいのか、双角がわざとらしく鼻息を吹きかけた。それで止まる〈八竜槍〉ではなかったが。


「お前、完璧を求めすぎなんだよ。だから変なところでおかしくなるんだ、一と十で物事を判断しすぎなんだ。坊主のときなんかがいい例だったぞ。やるときゃとことんまで冷徹だってのに、相手に事情があると知った途端に甘くなる」


 反論の余地はない。心当たりがありすぎて口を開く余裕すらなかった。


「大体、昨日稽古相手にくだらないだどうだと言ってたがな、お前の方がよっぽどだ」

「なっ、そのようなことは決して!」


 さすがにこのような謂れの無い中傷には、イスズは声を荒げる。どんな言われ方をしようとも、手の豆が破れ出血してもなお汗を流して技術を高め続けたことに偽りはない。

 それをくだらない連中と一緒くたにされるどころか、以下だと断じられるのは我慢がならなかった。ロウハは眉間に皺を寄せる。


「お前の後ろで敗れ膝をついた奴らは、十年以上、ずっと槍を使い続けようやく資格を手にした。生活を賭けてたのもいんだろうよ。それを名家のお嬢様が、片手間に始めた稽古でずかずかとやって来たらいい顔なんぞできるわきゃねーだろうが」


 なるほど、一理ある。だが無意味だ。イスズは不快そうに柳眉を逆立てる。


「選定官であった槍士はわたくしにこう言いました。〈竜槍〉に挑む者は、皆等しく、身分は関係ないと。貴方様とて、口酸っぱく言われたはずですが?」


 例え、女だからと気を使われたとしても、稽古をまったくしない理由にはならない。

 国の重鎮を決める重要な義だ。そえに協力しないのでは、すなわち皇国への反逆と取られても仕方がなく、同情の余地はない。


「ああ、もう面倒くせえ……」


 どうしたものかと、ロウハが苛立たし気に頭を乱雑に掻いた。ガジンが聞き分けのない赤子に困ったときのように苦笑する。


「これが言いたいのはな、槍士の中にも多種多様な事情を抱える者もすくなくない。だからこそ、一方的に相手を非難するのは止せ、と言っているのだ。お前も、この件が終われば部隊を持ち、部下を率いる立場になる。そのときに和を乱し士気に関わる不用意な発言をしたくはなかろう」


 見かねて助け船を出したガジンの言葉に、すうっと、感情的になっていた頭の芯が冷える。ロウハは、〈八竜槍〉となって日の浅い新顔に心構えを説こうとしていたのだ。

 イスズは、おのれの浅慮さに恥じ入った。


「はい……ご忠言、有り難うございます、ロウハ様」

「気にするな、こいつはいつもわかり辛いのだ。もっと噛み砕いて教えればいいものを」

「おーおー、美しい師弟愛だこって。自分の頭で考えられない奴は等しく失敗する。新人に自分で反省と改善をさせるのは重要だぞ」


 と、男二人が軽口を叩き合う。新人教育に相違があるのか、若干熱くなって過去の話まで持ちだして罵り合いに発展しているのが、なんとも気を置ける友人らしいやり取りだった。


「つーか、一体男共になにされたんだよ。お前があそこまで食い下がるなんぞ珍しい」

「単純です。彼らはわたくしと一度も手合わせをしなかった。評価試合に至るまで、一度も」


 ロウハの顔に、怒りと不快が走って皺を作った。


「……当時の選定官には、どうやらキツイ灸をすえる必要がありそうじゃねえか。得心がいった、そこまで徹底されていたとはな。武館の奴らにも注意しておくか」

「っく……! お前も、なんだかんだと面倒見がいいな、昔から」


 遠回しな過保護さを、ガジンは笑う。口でなんと言おうと、ロウハは後輩に気を使っているのだ。


「うっせえ、お前こそ同じようなもんだろうが! 弟子のためだなんだと宮でこそこそ人員集めしやがって、俺の隊から腕っ扱きを引っこ抜いたのは貸しだからなっ」

「おまっ、黙ってると約束しただろう!」

「あの、ええと……?」


 口論となっている軸が見えてこない。それに〈八竜槍〉直属から槍士を引き抜くなど尋常ではない。ガジンは、悪戯を実行する前に見破られた悪童のようにばつが悪そうだった。


「まあ、なんだ、お前の部隊の人員だ。集めていたのはな」

「わたくしの、部隊……?」


 〈八竜槍〉は、各人が選りすぐりの槍士を部下とする。信頼のおける人間はなによりの宝だ。イスズはそういった者と、まったく縁がない。

 流星の如くあらわれた天才は、周囲の槍士と競い合う時間を共有できなかったのである。


「お前を推した手前、これぐらいは世話を焼いても罰は当たらんだろう」

「槍士を宮に集めて試合をすんのは〈八竜槍〉になった後、部下にするなり自分が信用できる関係を築くためでもあんだ。まあ、お前の場合は色々と前提と状況が特殊すぎて無理みたいだったが。でえ、そんな状況に放り込んだ張本人が弟子のために駆け回ってたわけよ」

「それは……大変、ご迷惑をお掛けしました」


 小さな道場で、小さな世界で腕を磨いていたイスズは、槍士の間にある口にする必要のない伝統、感覚がない。

 師に知らぬところで迷惑をかけていた事実に、イスズは畏まるばかりだった。


「ガジンの自業自得だ。気に病むこたぁない。――おい坊主。お前の将来のことでもあんだぞ、関係ないみたいな面してんな」

「え、お、おれ……?」


 魂を吸われたように双角を見つめていたリュウモが、突然話題に放り込まれて当惑していた。


「当たり前だ。これが終わったら〈八竜槍〉になんだぞ。拒否権はない」


 〈竜槍〉に見初められた者は、どんな者であろうと〈八竜槍〉とならなければならない。それはリュウモとて例外ではない。


「これから……――『使命』が、終わったら……」

「これから皇国で生きていくんだ。ちったあ将来を考えろ」


 想定どころか、思考の隅にすらなかったと、リュウモのぽかんとした顔が物語っていた。


「ありがとう、ございます、ちゃんと考えてみます……その、優しいんですね」


 な……! と、鼻っ面を叩かれたように、ロウハが顔を仰け反らせた。


「ああ、そうだとも。こいつは優しいのだ、リュウモ」


 二の句が継げなくなったロウハの代わりに、ガジンが誇らしげに言った。反比例するようにロウハの表情が不機嫌に染まる。


「なーにがやっさしいだ。俺は自分に火の粉が降りかかってくる前に手を打った。それだけだ」

「おれみたいない〈青眼〉の将来を心配してくれるのに?」

「うっせ、とにかく俺はお前が言うように優しくなんかねえ。百歩譲っても甘いだけだ」

「橋で、ご助言を頂きましたが、あれもわたくしを案じて……?」


 容赦も同情もするなと切りつけるように言い放ったロウハを、イスズは処刑人のように感じていたが、同僚の身を心配してのことだったとしたら……?


「認めぬと、苦しくなっていくだけだぞ」

「黙ってやがれクソッタレ!」


 図星のようである。情けと言わんばかりにイスズはそれ以上の追及を止めた。リュウモも同様である。


「やっとクソ鹿も動き出しやがったか、さっさと行くぞ」


 天からの助けがロウハを袋小路から救い出す。森鹿は、更なる奥地へと悠然と歩く。


「お口が悪いぞ、子供に移ったらどうする」

「やかましい、さっさと先導しろ」


 陣形を組み、再び前進する。樹木が立ち並ぶ空が覗く場所から、葉が覆い茂り陽の光を遮る地へと変わる。低木があるわけではなく、進行に支障はないのだが、とにかく薄暗い。とてもではないが日中とは思えなかった。


「肉食の『竜』がいるような地形を完璧に避けてる……なにかに、導かれてる?」


 小型の『竜』や動物の気配はするが、双角のように大型の『竜』はあらわれなかった。至極残念に思いながら、イスズは小さな背を追い続ける。


「ん、どうしたここが終点か」


 森鹿が止まる。その先には、まるで上から付け加えられたような傾斜になっていた。

 小山なのだろうが、山というには違和感があった。その正体がイスズには解明できなかった。


「あ、おい、どこ行きやがる!」


 夢から覚めたように森鹿はピョンっと跳ねて消えて行った。


「この先にいけってことなのかな……同じだ、あのときと」

「行くとしよう。この先に〈竜峰〉があるのならば、拍子抜けではあるがな。まだ一日と経っていない」


 体感ではあるが、入り口からそんなに離れていない。イスズはリュウモの様子を窺い、周囲の警戒に努めながら傾斜を登る。

 むわっとした空気が顎に当たる。じわり、じわりと汗が出る。さっきまで過ごしやすい気候が嘘のようだった。


「〈竜域〉とは、ここまで寒暖差があるものなのか」

「おい、〈竜域〉には入ったことあんだろ?」

「小さいものはな。規模が大きくなれば環境も変わる」

「――気をつけてください。こんなに気温が変わるところ、故郷にはありませんでした」


 完全な未知。少年の宣言にイスズは気を引き締める。

 上へと進んでいく。〈竜域〉の植生は外とは谷底のように隔たりがある。

 巨大樹が並んでいた景色が、半刻としない内に様変わりするのだ。

 小山には木がなく、草や苔などが生えている。動物も鳥類がいるのだが、他の種は気配さえしない。


(限りなく、生命はすくないはず。なのに、なぜこれほどまでにしているのでしょう)


 湿度の高さが汗を吹き出させ、雫となり地面に落ちる。


「たく、なんだよこの妙な暑さ。人がぎゅうぎゅう詰めになってるせまっ苦しい通路みたいなのは」

「熱が下から来ています。地熱だとしても、ここまで熱いのはおかしいですが……」


 ここは〈竜域〉だ。摩訶不思議なことがあったとしても、そういう場所だと片付けられてしまう。


「もうちょっとで頂上です。気をつけて」


 地面の傾きが終わった先には――なにもなかった。

 左手側に切り立った高い段差があるだけで、変わり映えのない森の景色がどこまでも続いている。


「どうなってんだ?」


 ロウハの呟きは、この場にいる全員の代弁であった。


「……この、地面」


 リュウモがなにかを見つけたのか、足元の土を掘り返す。少年が、ぎょっと目を見開いた。


「――! ここを離れないと、急いで!」

「ああ? まて坊主説明を」


 大地が、激しく蠕動するように、揺れた。建物が軽く倒壊するほどの地震。

 イスズは体の均衡を崩し、近くにあった段差に手を付いた。


「それから離れて!」


 リュウモが叫ぶ。――ぎょろりと、段差の色が変わった。その色は、青。

 縦に細長い黒色の巨大な線が、イスズを捉えて離さないように動く。


「め、目玉かありゃ!?」


 跳び退き、イスズはリュウモを守るように彼の前に立つ。揺れで転ばないようにしっかりと腰を落とす。


「この、小山……『竜』です! でっかい『竜』がとぐろを巻いてるんです!」

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