第31話 良心
「リュウモ、これを渡しておこう」
朝、宿の玄関前でガジンは唐突に言った。
彼は、首から紐で下げていた物を外して、リュウモへ手渡した。
麻で作られた入れ物の中には、堅い木材のような物が入っている。
「故郷から出るとき、兄から送られた物だ。これだけは、なぜか無事でな」
「そ、そんな大切な物、受け取れませんよ……」
ガジンが故郷を出ることになった理由を知った後では、余計に受け取れなかった。
「困難に立ち向かう者が、これを持つに相応しい。兄はそう言っていたのだ。お前が、今は持っていた方がいいだろう」
渡されたお守りの中にある木片は、ガジンの故郷にある大きな木の枝を削った物らしい。
ガジンは中身を説明すると、宿の玄関から出て行く。
リュウモは、お守りを首に掛けると、ガジンの後を追った。
皇国で最も巨大で、文化的価値があった場所とは思えない光景が広がっている。
川以外、なにもない。精々あるのは、強固な橋であった欠片、木片ぐらいのものだ。
穏やかな水流は、先日、大橋を押し流したなどと言われても信じられない。
橋が流された前日は雨が降っていたわけでもない、快晴だったと証言がある。
物理的にあり得ない、水位の上昇があり、しかも津波のような勢いの濁流は、漆黒の色をした大波だったらしい。
寝言は寝てから言え。ロウハはそう言ってやりたかったが、百以上の人間が同じことを言っている以上、信じる他はなかった。
岸辺に屈み、水面下にごろごろと転がっている石を観察する。石の色や、転がり方、沈み具合を見ると、どうやら証人たちの言葉に嘘はないようだ。加えて――。
(なんだ、この『气』は……)
川に手を入れて指先で触れる。接した面がぴりぴりと痛む。日焼け程度の痛みだ。活動に支障は出なさそうではある。恐ろしいのは未知の『气』だ。
石にこびりついているそれは、ロウハが見たことも、聞いたこともないものだった。
嫌な感覚がしたので、指の腹を擦り『气』を落とす。
自分が断崖絶壁の端に立っていて、谷底が見えない闇を垣間見ているかのような気分だった。おのれの制御できない本能の部分が、早く遠ざかれと警告してくる。
久しく、恐怖と縁がなかったロウハではあったが、素直に警告に従うことにする。
立ち上がって川縁から離れようとすると、イスズがじっと川底を見据えていた。
彼女に、〈影〉のひとりが陶酔しているかのように目を向けている。思案顔が絵になるような美女だ、見惚れるのも無理はあるまい。
残念ながら、ロウハの好みには合わないので、彼女が無意識に振り撒く色には、とんと無関心だ。少女の美貌よりも、今後のことの方が余程大事である。
「どうした、なにか気になることでもあったか」
「気にかかることがあり過ぎて、なにから言っていいやら、悩んでいるところです」
「そうか――。各人員は下流の川辺を捜査、どこかで岸に上がったなら痕跡があるはずだ、探し出せ。もう半分は下流にある町を徹底的に捜査しろ。濁流で必需品が駄目になっていれば、商店で補充をする、そこを集中的に調べ上げろ! 上手くいけば追い付ける。散れ!」
同行していた〈影〉は、音もなく動き始めた。目だけで自分たちがどこへ向かうのかを決め、声をあげることなく見事に人員を配分した。
指示に従い、蜘蛛の子を散らすように素早く野を駆けて行った。
「で、お前の気になってることってのは、人前じゃ言えないんだろ。人払いはしてやったんだ、おら吐け」
遠慮が無さすぎるロウハの言い方に、イスズは苦笑する。
「ご配慮、痛み入ります」
「前から言ってるがな、その畏まりすぎた態度はよせ。お前は同じ〈八竜槍〉だ。対等なんだぞ、俺たちは」
まるで貴族として扱われているようで心地が悪い。手が届かない箇所にかゆみがあるかのように落ち着かないのだ。
「これは以前、先生にもお伝えしましたが、お二方に敬意を払わずして、なにを敬いましょう。――平行線になるので、この話は後日に」
強引に会話を打ち切った。
(あ、こいつ結構、頑固だこりゃ)
しかも、師から受け継いだのではなく、生れつきらしい。面倒なことである。
「この異様な『气』、実は近年研究対象とされておりました」
「研究対象? こいつがか。そいつはまたどうして」
シスイ家の者である彼女が言うのなら、研究されていた事実は確かだろう。
資金や人員、学問に関して一家言あるシスイだ。内情には詳しい。
「四十年前、国中で黒風邪と名付けられた病が大流行したのはご存知ですか」
「耳に蛸ができるぐらいには聞いた。高熱、錯乱、しかもやたらと好戦的になるっていう、あれだろ。当時がどうだったかは知らんが、爺様方は相当なトラウマになったらしいな」
黒風邪は国中に蔓延した。身分出自に関係なく猛威を振るった病の感染経路を調べあげると、ひとつの共通点が浮かんだ。
「黒色の風が通り過ぎた地域が酷い有様だったようです。皇都にまで被害が及び、対策を練ろうと薬師たちは躍起になりました」
「で、黒風邪にはこの妙な『气』が関わってたってとこか」
「はい。特効薬が開発され、事態は収束に向かいました。以降、研究が進められています。極秘に、ですが」
ロウハは、当時の対応におかしさを感じた。
「ああ? あんだけ国に被害を出したもんを、極秘に? なんだってこそこそする」
「わたくしも詳しい内容は伝えられておりません」
驚きに、つい眉があがる。
「お前の家が一言声をあげりゃ、すぐにでもわかるだろ」
イスズは首を横に振った。
「帝が直々にご指名なさった者のみを集め、研究を進めています。いくら我が家が長い歴史を持つといっても無理です」
「よくもまあ、内容がわかったもんだな……ははぁ、予想がついたぞ。妙な『气』、こいつぁ『竜』に関することか。だから、研究者も口を開いた」
帝の命を覆せるのは、帝しかいない。〈八竜槍〉に下された指令は、『竜』の暴走を止めることだ。だからこそ研究者たちもイスズに話したのだろう。
「〈禍ツ气〉と言うらしいです。物体に作用し、異常な現象を起こすと。黒風邪も、〈禍ツ気〉が引き金になった病だと彼らは結論づけた……」
「異常な現象ってのは、つまり『竜』にも起こり得る。今回の件は〈禍ツ气〉が関与している可能性が高い。そういうことか。……あ? じゃあ、もしかして黒い波も?」
「おそらくは……。上流付近に〈禍ツ气〉を発するなにかがあるのかと」
「はー……面倒なこった。まあいい、そっちは別の専門家、〈竜鎮め〉にでも任せりゃいいだろう。俺たちは、あの馬鹿を連れ戻す。当面はそれだけでいい」
ロウハとしては、目的は複雑よりも簡潔明瞭な方がいい。頭を動かすよりも、体を使っていた方が楽だ。
――そっちの方が、気も紛れる。
下手に考え出すと、失った親友の顔がちらつく。
「行くぞ。ここにもう用はねえ」
ロウハは、川に背を向け歩き出した。イスズが右隣を進む。
ごつごつした川縁から離れた時、浮かない顔をしている彼女が目に映った。
人形、能面女、などと揶揄される少女だが、観察してみると意外と表情豊かである。
左右に顔を並べて比較しないとわからないぐらいの変化ではあるが、同情や悲しんでいる時の表情などは、普段とは大きく違う。
今も、眉が僅かばかりか下がり、目を細めている。
「どうした。なにかまだあるのか」
「〈禍ノ民〉の少年について、考えておりました」
「そいつはまたどうして」
「少年は、たったひとり、外へ出て寂しくはないのでしょうか。聞けば、氏族の中で最後になってしまったと。そんな子供を、わたし達は」
「同情しているならそこまでにしておけ」
イスズの、人として湧く当然な温かみある感情を、ロウハは切って捨てた。
「なにがあろうと、我らは帝の槍。特定の誰かに加担することも、贔屓することも許されない。我らは槍であり国の中にある柱のひとつ。それがあっちらこっちら動き回れば、支えられている人間がどうなるか言わずともわかるだろう。敵は敵、それだけでいい」
「……はい、ロウハ様」
「だから、様付けは止めろってーのに」
――やっぱり人が良いな、おい。
ガジンが言っていた。人が良過ぎるのが彼女の欠点だと。
それが、いつかイスズに刃を向けないよう祈るしか、今のところロウハにできることはなかった。
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