5-4.闘技場の老兵

 建設を命じた王の名を取り、「リグラス闘技場」と呼ばれている建築物は、巨大な円柱型をしていた。諸国にも多く見られる円形闘技場だが、この国ほど大きなものは珍しい。

 試合用のフィールドを中心として、坩堝型に観客席が周りを囲んでいる。フィールドに一番近い場所には、国内外から集められた来賓用の席が用意されており、それ以外は国民達が個別に席を購入して観戦出来るようになっていた。

 中心に近づくほど、席の値段は二倍三倍と跳ね上がっていくが、毎年会場は満席で、どうしても入れなかった者達が会場の外で耳を澄ましているような状態だった。


「全く、久々に来るとうるさくてかなわん」


 白髪の老人が不満そうに言いながら来賓席を通り過ぎて、玉座の方へ向かう。

 前方を歩く執事は、涼しい表情でそれに応じた。


「かつては此処で、その煩さの原因を作っていた身でしょう」

「昔は昔だ。老兵はただ去るのみ。昔のことを自慢して振り回すようでは、剣士としておしまいだ」

「貴方は昔からそういう人でしたね。正直、来ていただけるとは思いませんでした」

「ふん」


 老人は厳めしい顔を歪める。年こそ取っているが、背筋は伸びて肌のツヤも良く、実年齢よりも遥かに若々しい。

 かつて騎士団長であったベルストンは、剣を置いた今も、昔と変わらぬ眼光を秘めていた。


「姫様が呼ぶのだから行かねば損だろう。お前がちゃんと先王のいいつけ通り働いているかも気になったしな」

「心配されるような仕事はしません。ご安心を」


 ルーティは玉座に向かう途中、フィールドを挟んで反対側を見た。

 仮設置の小さなテントの下には、箱の中に厳重に保管された賞金と短剣がある。

 その傍らに控えているのは、メイド姿のティア一人だけだった。

 殺し屋である彼女が、天使の関わらないこの日を見逃すはずがない。絶対に何か仕掛けてくるはずだった。


「ところでルーティ。天使様は何処だ」


 老人に問われて、ルーティは我に返る。

 自然な仕草で視線をティアから外し、首だけで相手に振り返った。


「今日は会えませんよ。別の人間の元にいますので」

「なんだと?」


 老人は雷に打たれたかのように、ショックを受けた顔になった。


「それはないだろう、ルーティ。天使様のお髪を三つ編みにしたい一心で、ここまで来たのに」

「姫に呼ばれたから来た、というのは何処に消えたのですか」

「それも嘘ではないが、十年ぶりに天使様の髪の毛で遊ぶほうが楽しみだったのだ」

「心底嫌がってましたよ」


 ウナがベルストンを苦手とするのは、まるで人間の幼女を相手にするかのような扱いをするせいだった。

 本人なりにウナへの敬意は払っているし、危害を加えるわけでもなかったから、天罰を食らうまでには至っていない。それでもウナにしたら、自分のたかだか百分の一しか生きていないような人間に、子供みたいな扱いを受けるのは耐え難い。


「別の人間とは? まさかガーセルではないだろうな」

「姫の婚約者候補である、隣国の王子のユスラン様です」

「……あぁ、あの馬好きの変わり者王子か」

「伯父上には言われたくないと思いますが。まぁ姫もあの方には同じ感想を持っているようですけれど」


 石段を少し昇った先にある玉座の前では、騎士装束のシャルハが待っていた。

 国王が身に着けるビロードのマントが、風に少しはためいている。即位してから三ヶ月、段々と王らしくなってきたシャルハだが、まだそのマントは持て余している様子だった。


「師匠」

「姫殿下、いえ女王陛下。本日はお招きいただいて光栄です」

「こちらこそ挨拶にも行かず申し訳なかった。今日は存分に楽しんでいって欲しい。師匠の好きなワインも用意している」

「師匠などと。この老いぼれ、剣は置いて久しうございます」

「さぁ、此処に。ルーティ、お前は持ち場へ入れ」

「はい」


 ルーティがその場を去った後、シャルハはベルストンを用意した席に座らせた。玉座には劣るが立派な装飾を施した椅子は、本来は王族が座るようなものだった。


「こんな椅子に座って良いものか……」

「何を仰いますか。ガーセル騎士団長の前任たる貴方を、一介の騎士の席と同等にしてしまえば、彼の名も下がるというものです」

「それでは遠慮なく。ガーセル卿は?」

「騎士団長は今日は何かと忙しい。後でご挨拶に伺うとは言っていましたが」

「ふむ。確かに武闘大会は騎士には大事ですからな」


 それにしても、とベルストンはシャルハの顔を改めて確認して、何度か頷いた。


「あの小さかった姫殿下が立派な国王になられて。先王もお喜びでしょう」

「まだウナには認められていないがな」

「天使様に愛を示せていないからですかな」


 老人の言葉に、シャルハは困ったような表情で頷いた。


「愛を示せと言われても、ボクはまだ方法がわからないんだ」

「女王は、どうして天使様が愛を求めるかは知っていますか?」

「それがウナの力となるからだろう」

「そう、その通り。愛情は天使様が最も必要とする力です。それが失われれば、天使様は死んでしまう」

「それは」


 どういう意味かとシャルハが聞き返そうとした時、開幕を知らせるラッパの音が高らかに響いた。

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