Box_506_IceBox

 低気温。それもヒト基準の下限をとうに超えた世界の。この防護服は一体いつまで何を保証してくれるのだろう、特に、人間ひとりの命という点に関して。

 厚い化学素材の手袋越しに視界を丸く縁取るガラスを拭く。傷の目立つ表面にはすぐに内側の呼気と外側の雪が貼り付き、思考の鈍化よりずっと短い間隔で視界を奪ってしまう。呼吸器系の基本構造は外気の濾過か、精々人の形を捨てていない防護服にたいそうな機械のバックアップは無いようだ。やはりそう長くは…。


 声を掛けられた。張り上げるような大声、青年の声。ここが無人ではないことが安堵に繋がらない。何故なら彼が味方かどうか分からないから。


「お前はどこの人間だ? それに…その、左手に持っているそれをよく見せてくれ」


 私がどこの人間でもない以上、正直に話すしかなかった。それでこちらにも情報が貰えるならば安いもの、持っているものは…これは始めから握っていた。金属片にしか見えない。


*****


 彼――フリッジと名乗った青年に連れられて歩く。防護服越しでは彼の声しかわからないが、精悍な顔をしているのだろうと想像する。

 始めに「雪」と言ったこれは私の知る雪とはどうも異なるようだ。踏みしめる度に妙な負荷を脚に返す。宙から地に着いた直後には溶け入り固まる。ただ無尽蔵に積もっていることや経年故かもしれないが、確かに漂う明確な匂いはこう形容するしかない。まるで、


「な……」


 私は絶句した。樹木か? とてつもなく巨大な…。視線を天へと上げていった。氷漬けになったその重厚な機構が重く重く何かを訴えかけるように視界を覆った。


「かつての文明の跡だ。最後まで温度に勝てなかった人々の慣れの果てだよ」


 フリッジは睨むように降り続く微小な結晶を捉えるが、空から無限発生するそれらは視線さえ散乱させた。


「お前の言う雪は美しいのだろうね。だが、自然光のない世界でこれは美しくもなんともない。鋭く死を象るだけ。少し待ってやるからよく見ておけ、樹氷という名前も同じなんだろ」


 温度の低下は活動停止に直結する。あらゆるもの例外なく。樹氷という名前がこの果てしなく巨大な住居機構建造物群に与えられたのは一体どのタイミングなのだろう。

 そうだ、ここの雪は死の匂いがする、そう言いかけた。


*****


「こっちだ、来い」


 フリッジから引き剥がされるようにしてこのオーブという女に連れてこられた私は、ただただ混乱の中にいた。フリッジは無効化されたかのような勢いで彼女に押さえつけられ、それ以上の迫力で私は強制された。私が最初から手にしていた金属片に込められた強烈な因果の全容はまるで見えないが、ギザギザの半円形のこれは僅かに発光している。そして私から離れると光が消える。一体これは…?


「脱げ、地下に入る」


 重いハッチを開けて効率的最低限に組まれた鉄鋼階段の空間を下へ下へと降りていく。細身だが鍛えられた身体をしたオーブの後をついて歩く。思えばここへ来て初めて生身の人の姿を見た。フリッジの同胞たちは皆やはり防護服に身を包んでいたからだ。途中、先に歩く彼女の横顔が照らされていて気付いた、地下には『明かり』がある。


*****


「なるほど、日、それから火、そして灯か。美しい」


 黒い油で錆びた壁に小さく文字を書いた。手の感覚は死の雪に覆われた地上よりもずっと“マシ”だ。彼女は教養なんぞ自分に備わるはずもなく、生きるために、残された資源で温度に抗うために暮らしてきたと言った。オーブと名乗った彼女の瞳が私の持っていたこの鉄片を見てから妙な光方をしている。これは『鍵』であると、彼女はそう言った。


「私たちの言う幻想はこれだよ」


『日』の字を指さすオーブ。


「日の戻った世界は願いであり幻想だった。だけどな、」


 もうじきそれが再び叶う。彼女はそう言った。


*****


「フリッジ、良いのか」


「あいつ泣いてたんだよ」


「ずっと前からだろ」


「いや、そうじゃない、今回はそうじゃないんだよ」


 フリッジは親友である彼にだけ告げた。わずかに残った同胞たちに伝える時間はまだある、そうしたければそうしろと添えて。


「…オーブのやることは今言った通りだ。もうすぐ日が戻る。地上にいれば絶景が見えるぞ。灰になってそれすら燃え尽きるのとどっちが速いか分からないけどな」


 ひとつだけ追加で告げた。フリッジは地上に残る。ひとつだけ告げなかった。人造太陽の寿命についてだ。


*****


 長い長い罵詈雑言があった。重く重く虐げられた。技術者マイクロウェーブが深い深い地下に作り上げた装置。それは世界の雪を溶かせると娘にだけ伝えてあった。けれどもそのカギは厳重な暗号と複雑な因果で揃うことはなかった。罪のない来訪者がどうして最後の一欠片を持っていたのか、それは誰にも分からない。無限に降り続く雪の重さに耐えかねる前に、夢を託されて尚氷漬けの世界で絶望の淵にあった者の願いが届いたのかも知れない。だが、その瞳の揺らめきは、純粋な幻想を映していなかった。


*****


 起動音と共に膨大な機械は命を吹き返した。底の見えない空間まで張り巡らされた機構に電気と熱を模した疑似生命が流れ込んで行く。悲鳴にも似た歓喜あるいは狂気の駆動音。これは、世界に熱を戻す装置。


『やった…』


 地上に出るまでの時間など端から考えられていないのは分かっていた。だがオーブは信じている、彼女は勝者の後継者であり、幻想を現実にしたその光景を見られることを。


*****


 呼称樹氷群に覆われた世界に砲塔に似た機構が出現した。瞬く間に仮初めの日が灯った。距離、熱量は氷を溶かすためだけに造られていた。生命への影響など度外視で幻想を手に入れる機構だった。


*****


 あらゆる言葉を持ってしても形容できないような美しい光景を、フリッジの防護服の横でただ眺めていた。氷の解けた世界は限りなく美しく、そして有限だった。樹氷群が溶けて本来の文明痕が姿を見せている。それにあれは…。

 人造太陽は幻想を溶いたのか、幻想が溶けないことを明らかにしたのか。来訪者風情に鍵が与えられたのは恐らく…。


 一片の結晶が視界に入った。

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