図書館暮らし。
ドアが閉じる短い間に外の音が途切れて、代わりにパタ、パタと足音が聞こえてきた。古真鍮ドアノブから私の手を離して振り返る、その僅かな間に室内の空気が私を包む。適度な温度と湿度、匂いはしない。受付らしき位置に一人の女性が立った。ベージュ色の壁が四角くくりぬかれていて、年月を経たウォールナット調の一辺から緑色セーターの上半身を覗かせるようにして柔らかく微笑む。
「いらっしゃいませ」
と一言、それから目を閉じて頭を下げた。ふわりと内側に癖の付いた髪が揺れる。身のこなし、声色、佇まい、何より姿形は限りなく人間のそれに思えるが、事前の情報が確かなら彼女は人間ではない。
自分のことをじっと睨んで動かない客に全く嫌な顔をしない彼女は「ご利用は初めてでしょうか」と問う。私が肯定すると、「外は寒かったでしょうからどうぞ中へ入ってください」と告げた。靴を脱いで一段だけステップを上ると木の軋む小さな音が聞こえて、それから素材の分からない灰色の床に乗った。2ペアだけ並んだベージュのスリッパを一つ手に取って履く。私が視線を上げるのに合わせて、女性は部屋の奥へと歩き出した。彼女は受付役を兼ねていたのだろう。内装全体はスリッパの色より更に薄いベージュの壁紙を選んである。
奥の部屋空間には木漏れ日が差しているように見えた。それから、小さな何かが置いてある。女性に導かれてて通路を少し進むと視界が開けた。
一面の本棚が並んでいた。広い半円空間の壁を全て埋め尽くすように。やはりウォールナット調の本棚たちは私の背の高さの倍くらいはあって、三つだけ設けられた窓のような四角い図形から淡い光だけが差している。太い柱を傾けたような三本の光は背もたれ付きの椅子と、何もない床の一部と、それから床に固定されたロボットのような装置を包んでいる。入り口から見えていたのはこれだったのか。木組みの梯子が一つ目に入ったが、空間が余白を埋めきれないでいるような気がする。
本棚のほぼ全てには“本の映像”が投影されていた。これは私にだけそう見えるのではなく、この場所を訪れる全ての人間と機械にもそう見えるはずだ。本の“匂い”を造らないのは意図的にそうしているのだろうか。
それから、両手で“チョキ”を作って二本の指同士を重ねる。いびつな四角い穴を覗くようにしてから、もう一度パノラマの本棚を見渡す。これは私にだけ許された視界。
とても寂しい視界が待っていた。変わったのは一点だけ、だがその本の映像さえも失った本棚の群れは物悲しそうに沈黙し、広い半円空間の“何もなさ”が嫌でも強調される。余白は気のせいではないのだ。本の映像は思いやりの演出に他ならない。その経緯を語ろうなどとは思っていない。『図書館』の定義を叫ぶために、残ったのは誰か。何か。
もう一度、傍から見れば少し奇妙かもしれない手順で視界を元に戻した。広い空間の入り口には衣裳掛けと荷物置き場となるような小さな机がある。防寒具と一緒に、ここまでの経緯をそこへ置いた。
「改めて、ようこそお越しくださいました」
三つ目の光が差している位置に女性が立った。空いているように見えたのは彼女の定位置だったようだ。
「そこにいるのが、イヴちゃんという名前の、この図書館の全てです」
不意に、収斂の一言が現れる。その紹介には何のマイナス感情も掛けられていないはずなのに、私は重くのしかかる一片を感じ取ってしまう。
「イヴちゃんからお読みになりたい本を選んでください。ご自身でお読みいただくこともできますが、ご希望であれば私が読み聞かせをさせていただきます」
イヴなる白いロボットには丸い目だけ二つが付いた角丸の頭部と、胸の辺りに大きなモニタが付いていた。五本の指がある両腕は持っているが、下半身は大きな三角スカート状の部品を床に固定しているだけだ。表情を作れないイヴは頭を上げて私を認識するような仕草をした。両手をそっと広げて、自分の体に埋め込まれた大きなモニタに私の注意を向ける。手を触れてみれば何ということはなく、タイトルやジャンルで本を探し出せる仕組みが備わっていた。イヴのお腹の辺りからは、薄くて軽い板一枚が取り出せた。
少し板に触ってみて、それから尋ねると女性は答えた。
「はい、私から本の『あらすじ』や『見どころ』を伝えることができます」
イヴは声を発することはできないらしい。代わりに女性が補佐をしてくれる。
「分かりました、それでは…」
物語の扉をそっと開くような、綺麗な声、絶妙な速度、繊細な息遣い。それらが造りものであったとしても、女性は私の選んだいくつかの本を丁寧に説いてくれた。薄くて軽い板はいくつかの本を立派に代替した。
「…でした、でも…」
――灰に埋もれた世界の青い差し色は確かに受け取られていた。
「…というのも、この物語の人間たちが…」
――植物に造詣が深いことで偶然に繋いだもの。不運幸運を自己定義する前に因果に飛び込んだ。
「…のです。全く別の作家さんなのですが、…」
――好奇指針が描く航路に科学も魔法も本当は追い付いていなかったのだ。絶えることのない虹色の雨はやがて黒い海に打ち勝った。
「…そして深海に臨むと、…」
――時間軸を手で掴んだのは。流転する“物語”は遂に次元の回転を始める。時を巻き取る装置が地平線の向こうを見る。
「…かっこいいんです、それから、…」
――全ての生物、機械さえ消えた跡地に歌が聞こえる。先でも前でも奥でも横でも構わない。境界と階層が見えるなら、線はきっと重なる。
「ありがとう。一冊だけ流し読みさせて。それから、あなたに読んで欲しい」
読み聞かせは我ながら上手なのだと、彼女は嬉しそうに言った。
* * * *
目を開けて、座り心地の良い椅子から身体を起こす。がらんとしたこの場所では存在感があり過ぎるような気もしたが、本を読む人間のことを優先したのだろう。彼女の読み聞かせはとても素敵だった。内言に寄り添い溶け込むようにそっと物語世界へ導いてくれて、かと思えばすぐに透明に消えて、あらゆる情景感情を巧みに描写しながら五感を造り、時に外套となり靴となり、橋となり翼となった。彼女のそれは理想的な調整なのだという。光と歩けなくなった人の手を握るため、本の次に選んだものだという。
「イヴちゃんを撫でてくれているのでしょうか。ありがとうございます」
イヴは立った私よりも背が低い。私の手が見えているかのように頭部を少し動かす機械に、そっと手を触れた。プラスチックのような質感の奥を読み取ろうとする。
「あなたのことを、聞いてもいいかな」
女性はイヴではなく自分のことであると理解し、一瞬の間を置いて答えた。
「もちろん構いません。けれど私は、イヴちゃんの一部でしかありません」
その答えは聞いていた通りの現在を肯定してしまう。少し困ったように彼女は言う。悲しそうには言わないようにしているのかもしれない。“自分”など存在しないかのような、それはどうして?
抉るような行為になってしまう懸念は消えない。“未来”を生み出すと約束はできない。でも対峙しなければ。私の言葉、あなたの言葉で向かい合わなければ。彼女たちの“過去”に私は踏み込んだ。
* * * *
絵本も雑誌も図鑑も含めて、紙の本が全て消える瞬間はいつか訪れるのだろうか。長い目で見て広い意味で言えば「YES」。だがその前に、現存する全ての本以上のものがデータとして存在する瞬間が訪れる。紙の本の価値は一部のコレクターに跳ね上げられた後で公的な機関によって緩やかに蛇行しながら維持されるが、紙の本である必要性は『0』に近付いて行く。仮想化技術がある程度進めばそれでいい、その時間軸の図書館は床面積が必要最小限になり、質感があって手でページを捲れる本が「出力」できた。オプションで長い年月を経た本の日焼け具合や匂いを「付与」することもできた。
従来の図書館はもはや不要である。書籍は全てデータに変える。辺鄙な場所にある萎びた図書館でも稀に珍しい古書を持っているから、それらは余すところなく吸収する。データにすれば維持費用が大幅に抑えられる上に管理もしやすくなる。紙の本を残したい? 火事や洪水に見舞われたらどうする? 経年劣化にいつまでどう抗う? データを用いた本の再現は今可能な全ての体験を内包している。知識情報の集約集積は必然であり人類の悲願である。さあ、あなたたちの全てを買い取らせてくれ。
イヴが生まれたのは、その過渡期だった。
稀に、条件が揃えばとせめて添えよう、生身の人間が持つパーソナルデータ、その中でも最上の類である実体と権限を“譲渡する”ことができた。その図書館を一番愛していた誰かは、最後に残った有志の善意全てと自分の資産全てを合わせても“足りない”ことを理解し、迷わず“自分の存在”を上乗せした。その図書館は所有していた全ての本をデータにして公的な機関に提供した。同時に、その場で用意したメモリに本のデータをコピーすることを許された。紙の本は間もなく破棄された。図書館にはそれなりの容量のメモリを持った不格好なロボットだけが残っていた。それなりのメモリはそこそこの分量の本のデータで一杯になっており、最低値の優先度を設定して書き込まれようとした個人の記憶は入りきらなかった。
* * * *
「私は、この子がよく読んでいた本を寄せ集めて造られたんです。この子が失ったものを再現しよう、って。それがこの子に似ていた誰かなのか、この子が好んだ誰かなのか私には分かりません。イヴという名前は私が付けました。引継ぎをしてくれた方が『アーカイヴ』って呼んでいたので、もうちょっと可愛い名前にしてあげようって。だから私はイヴちゃんの一部で、私は一人前の機械でも、ましてや人間でなどなくて、本体はこっちの、イヴちゃんなんです」
読み聞かせの能力はイヴだった誰かが優先して残したものだ。この図書館にはイヴと彼女を長く支えるだけの電力が約束されている。だが図書館に新たな本が増えることは無く、最新鋭の装置が備わることもあり得ない。図書館を気に入った者が渡そうとする一切の資金をイヴと彼女は受け取らなかった。
「図書館は誰もが本を読めるところです。お金をいただくことはできません」
普段柔らかな性格を見せる彼女は強く断るという。他にこの図書館自体に関するいくつかのことについても。それはイヴだった誰かが残した特別な遺言、命令、思想の一つなのかもしれない。
だから、図書館は時の流れに耐えるだけなのだ。本来諸々を供給する公的な存在とは既に決裂した。ある意味では完結した。イヴと彼女はここで細々と暮らすだけ、図書館であり続けるために。本であったデータを誰かに提供するために。高度に読書体験を再現する施設に比べれば薄くて軽い板は数段遅れている。椅子も上等だが最上ではない。この場所の立地もお世辞にも良いとは言えない。訪れる人が減っているのだとしても、いなくなるのだとしても、それでも。
* * * *
一度外に出た。またチョキを重ねるようにして四角い枠を作り、建物の外観を見る。正常な感覚で全て言ってしまうならば寒くて薄暗くて荒れた僻地にある少し大きな建物は、穏やかな郊外に立つ図書館だった。適度に穏やかに人が出入りする、優しい雰囲気に満ちた場所だった。“レンズ越し”にはそうとしか見えなかった。
建物の姿を現実のそれに戻した私は模索し始める。偽善かもしれない。ここでは私が間違っているのかもしれない。なるべくしてそうなったのかもしれない。イヴと彼女はこれでいいのかもしれない。でも、それでも。…そうだ、彼女は“引継ぎ”と言っていた、イヴと彼女を引き合わせた者は? イヴに残された本以外の僅かな全てを全部確かめた? まだどこかに何かがあるはず。この図書館がしがみつくのならば私もそうする。きっと線を重ねる。だって“その物語”を、あなたたちは持っていたのだから。
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