郷愁入門


 泥濘んだ足下には背の高い雑草が見境無く繁り、踏み込む脚を容赦なく飲み込もうとする。どうにか見つけた僅か数十センチ四方の足場、“人工物”の足場が酷く親しく安全なものに思えてしまう。

 いや、それはどこまでも美しい自然算出値に従った繁茂であり、抗おうとする人知の跡は紛れもなく巨大だ。私をここまで導いた1メートル程度の川幅には断面を見せる特大円筒の縁から絶え間なく水が注がれていた。川幅はそこで増している。円筒は見上げる高さの残骸から覗く。崩れた外壁、物言わぬ造形、夥しい文明の跡、そして、途絶えた時間。

 私は廃墟に辿り着いた。脚が頼りなく震え始めたような気がしたが直後、纏わり付く湿った空気が生む強烈な不快感や消耗した体力がどこかへ潜む。あり得た時間の流れ、自然の強大さ、無言の虚空が有象無象の概念をありもしない自分の底から呼び起こす。

 注ぎ込まれる水の音は何を語る? 川の流れへと還元された時、合流は自然へと許しを請う? 廃墟は今、



「……さん、……葉柱さん」


「おぉ、キョウカ女史。ごめんちょっと入り込んでいてね」


「すみませんお邪魔してしまいましたね。ジャックイン、というようには見えませんでしたが……」


「その通り、電子的な階層越えはしていない」


 古ぼけたフォルムのデバイスを差し出した。手に持てばズシリと重いオーパーツ、いや、技術的には解明されきって何ら謎は無い、ただの“携帯ゲーム機”なる装置だ。表示される映像世界はデバイスに備えられたキーを使って操作することができる。今見ているのは視点が一人称のタイプで、シミュレーターの起源とでも言えよう。


「映っているのは、何やら綺麗な景色ですね。見せていただけますか? あら、すんなりと」


「キョウカ女史が俺の骨董趣味を変わり者扱いしないのは知っているつもりだよ」


 屈んだキョウカ女史は興味深そうにゲーム機に顔を近づけた。装置の放つ青白い光が白い肌をなぞる。


「これは“廃墟”らしい。仮想装置と同じように昔の人間は空想の世界をこんなデバイスに閉じ込めていた」


 小さな四角が切り取った世界は紛れもなく“ある類いの雰囲気”に練達の感覚が耳を澄ます。


「辿っていないはずの“if”、ですね。……もしかして」


「そう。糺さんの専門領域だとは思うが、こいつは『不確かな郷愁』に通じている。……ような気がする」


「私も彼女の知見には遠く及びませんが、この小さな再現世界から何か不思議な感覚を呼び起こされるのは間違いありません。……葉柱さん、もしよろしければ本当に入り込んでみませんか」


「補完して疑似構築か、なるほど考えもしなかった。……とは言っても、俺が勝手に何か期待しているだけで何もありはしないかもしれないぞ」


「好きなことをする時の私たちの感性は往々にして正しいと、世話好きな誰かさんに説かれたのは私だけではないはず。直感と言えば伊佐間さんですが、葉柱さんの感覚にも私は光るものを感じます」


「無駄骨だったら紅茶でも一杯ご馳走させてくれ」


「どちらであっても嬉しいですね」


 キョウカ女史は視覚拡張レンズを取り出して手を添えた。知的な女性には眼鏡というデバイスが良く似合うか、あるいはもう寄り添っていて華を添えるらしい。眼鏡を外すという所作も、その逆のそれも、何やら特別な瞬間を持ちうるそうで。まあ今この場では拡張ダイブの補助を雄弁に務める装置だ。



 私たちは廃墟に辿り着いた。廃墟は今、不安定に放り出された時間の片隅でやはり何かを語ろうとしている。人の想像力が辿らなかった歴史を描く時に現れるのは電子的な“ブレ”だけではない。もっと根源的な、故に神秘的な、世界の欠片。

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