薔薇香る憂鬱
植物たちの濃い香り。力強く明日を夢見る生命の芳気。私には殆ど興味の無い匂い。
「イズミ、また顔色が悪くなったぞ」
「気のせいだよ。心配どうも」
白衣に穴が開いてるよ。背中のところ。
「いや、気のせいじゃない。俺の目は誤魔化せん」
「じゃあ朝だから低血圧のせいだな。悪いけど地下に降りるから」
ヒトの半身ほどもある大きな葉が狭い道に飛び出している。華奢な手でそれを押しのけて進む。所狭しと並んだ鉢、植木、樹木、それから花。根に幹に枝に葉に蔓に、そろそろ空間を埋め尽くすんじゃないだろうか。土と床と壁が見えない。この区画は彼が手入れしているが、彼は“放任主義”が第一で後から持ち前の技術で間引いて植物たちのバランスを取っている。気持ちは分かるが効率的ではない。シダ科の面影を僅かに残す葉を持ち上げて、白い壁に設けられた小さな四角い枠に手のひらを当てた。流石にまだ認証は通る。この身体でも。空気の抜ける音がしてドアが開き、下の階へ向かう昇降機が手招きする。私の区画はもっと下にある。
特殊照明が薄暗く青白い室内を作る。溶液の満ちた筒に浮かぶ種たちを横目に中央の操作盤へ。まずは偽装標本を出す。
『生体認証に成功しました。続けて指定の方法で簡易認証を行います』
小洒落た仕組みを、愚かな遊びを笑うといい。
「私だ。会わせてくれ」
声紋と言葉の並びを照合した管理システムが私を許可した。植物標本が並ぶ棚の一部が稼働、横に動いて床から別の標本が三つ出てくる。『灰青の補色』の花弁、『キカミライ』の完全葉、『ゼロライト光樹』の根。どれもそこそこの価値があると“皆知っている”種類の標本だ。つまりこれらは目くらましに過ぎない。
「よし…」
『灰青の補色』の下にだけ小さな収納スペースを作ってある。枠模様は他の二つにもあるから見た目では絶対に分からない。中には“もう一つ下の部屋”、誰にも知られていない研究室への鍵は入っている。
カメラに人影は無し、上から降りてくる人物もいない。あとは透過個室に鍵をかけてベッドで寝ている自分の映像を出力して、
「向かうだけだ」
環境に立ち向かうための種の改良。失われた形を再現するための種の交配。未だ見ぬ理想を作り出すための種の創造。
目的は違えど皆熱心に植物に向かっていた。研究対象として熱を注いでいた。友達として情を育んでいた。その中で、たとえ話として、亡き面影との約束を守ろうとするのは。変わり者で済むだろうか。処罰されるべき異端者の烙印を押されはしないだろうか。
芳醇な“薔薇”の香りが全身を包み込み出迎えてくれた。ドアを開ける時には必ず目を閉じる。彼女たちのあいさつを十分に聴いて、それから目を開ける。情熱の赤、抱擁の黄、相愛のピンク、…あらゆる色が花開く。ただ一色を除いたあらゆる色が。自動ドアが後ろで静かに閉じる。私たちの空間、私たちの時間だ。
「時間が空いたね。元気だったか。キミは少し水分が欲しそうだね」
整然と並んだ枠に身体を収めた彼女たちは、それでも得意げに花を見せて何かを訴える。弱った個体が無いかどうか余すところなく調べながら奥の制御室へと向かう。この空間の脳であり心臓である端末が入ったその個室、薄い強化ガラスで仕切られているだけなのに一度立ち止まってしまう。妙に心苦しい。美しく、儚く、やはり重く、そして、愛おしい。
* * * * *
ヒトの目に見える色は実に鮮やかで、名前の付いた色と色の間も良く見えている。けれども機械的に、あるいは電子的に、名前の付いた色を分解していくと、どこまでも微細なグラデーションの世界が広がる。ヒト認識能力では途中で区別が付かなくなる。例えばR-4423とR-4424を並べて見ても、やはりこの目では違う色には見えないのだ。遠い昔、青系統の色味を持った薔薇は生み出せないと思われたことがあったらしい。素敵な話だ。
ついでに少し詩的な話をしよう。
海があって、砂浜があって。今まさに太陽が落ちるという時に見せる夕日の色。ある男とある女がこの色を覚えていた。お互いに覚えていた。厳密に彼らの見た色を彼らの認識の向こうで照合すればズレる部分はあるだろう。でもどちらも最高の色味を得た。言葉にすれば同じ色だ。それで、二人には充分だ。やがて記憶はすべてを補完し美化していく。
灰に埋もれた都市を彷徨った無数の青い色は、数値上の正解を持っていた。
「問題無い、とても順調だね」
望んだ種を得るための過程は極めて単純だ。バラツキの出る中である特徴を持った個体だけを選び交配を繰り返す。大きくしたい、この色にしたい、病気への耐性が欲しい。願望に沿って“それ以外”を切り捨てる。伸ばしにくい特徴はもちろんあって、二つの願いを同時に叶えるとなればそれだけ時間がかかった。過去の偉人たちが造り上げた成長促進剤とシミュレーションシステムがこれを助ける。
「ナビゲータ、聞こえるかい。栄養剤のバランスはこのままでいい。No.17とNo.43は見込みが薄いとのことだが色味が気に入らない、捨てていい」
『承知しました。No.17, No.43の木構造を破棄します。メインの系統は現状を維持します』
メインの他は遊びだ。私の作品にも既に答えが出ていた。私の命が尽きる日よりも前に、完成する。
* * * * *
ある日、研究員の一人が施設内で亡くなった。野太い大声を上げて泣く男がひたすらに悔やんでいた。彼の白衣には背中のところに穴が開いている。棘にでも引っ掛けたのだろうか。誰も亡くなった研究員が秘密裏に行っていた交配を知らなかった。知らなかったが、何が生まれたのかは用意に解析することができた。その研究員の死因も含めてだ。植物の組成を調べ尽くした前後にはヒトの構造解析がある。ヒトと植物の融合に話が進むまで、医学と科学の垣根は押し下げられ双方のメスは未知を切り開いた。
その研究員はある青系の色値を持った薔薇を生み出そうしていた。色以外にもう二つ、薔薇には特殊な毒素が含まれるように計算してあった。それから市販の廉価な“香水”によく似た香りを発するように。そして、その作品は完成した。研究員は発症例の少ない不治の病だった。研究員は自覚していたようだが、厄介なことに外からでは症状が分かりにくい。毒素には安楽死と、病の無害化をする役割があった。その不治の病には検体の死後、稀に遺体を苗床にして“次”を目指そうとするような反応をみせることがある。それを殺した。菌でさえ本能は繁栄だ。植物たちも昔はそうだったらしい。今や私たちの手の中で着飾るのみだ。香水に似た香りは男性が好んで使う品番のもので、薔薇の成分を分析した上での結論だが、意味付けは無価値と後回しにされた。
膨大な交配回数がどうしても重ねてしまう時間は研究員の生命のリミットを僅かに下回った。地下区画に高級シミュレーターが一機丸ごと隠してあったことは皆驚きだったが、それが先に演算結果を研究員に示した。「最短経路はこれだ、どうにか間に合う」と。そこだけを切り出せば幸運と言えるだろう、予告通り間に合って、選んで、死を迎えた。
大きな容器には灌木となった完成品の姿があり、同じ青色をしたいくつかの花弁を開いている。特に不快ではないが狭い部屋に何とも言えない香水の香りが満ちる。ガラス一枚外には見事な薔薇らしい香りが満ちた空間があるのに。奥にはその薔薇うち一つを切り取って、完全透明の保存液に浸けたものがある。多重の強化ガラスで厳重に護られた薔薇一輪は厳かに押し黙っていた。
口数の少ないその研究員はやはり少ない文字数で、しかし多くのテキスト群を残していた。短いお礼、短い別れ、短い想い。誰に向けられたものか分からない遺言のうち、まるで空想世界の話のような一説があった。
『この青い薔薇の色は、灰に埋もれた世界を見ていた青い瞳が見つけた色だ』
“この青い薔薇”とは研究員が完成させたそれのことだと思われるが、“灰に埋もれた世界”と“青い瞳”については誰もが首を傾げた程度だ。ともかく、無害化された研究員の遺体には与えられる選択肢がいくつか増えることになる。薔薇たちに寄り添う形式を選んで欲しいと遺言には書き残されていた。
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