鯨よりも深く
――あれが彼の言う人間たちを乗せた船だろうか。残念ながら私にはどうすることもできないが、願わくは彼の望みが叶えられんことを。
計器は水深2000メートルを示した。『海洋管理課』職員のカイ・セトロージを乗せた潜水艦は更に深く潜っていく。彼の目的は“クジラ”。カタカナでそう表記するのは、クジラと本物の“鯨”とを区別するため。
陸と海が概ね今の地図の形になってから長い年月が経ち、ある程度以上の大きさを持った七つの海にはそれぞれに一機ずつ、計七頭の“クジラ”が投入された。一頭ではなく一機。ヒトが育て上げた生きた鯨ではなく、最新の技術と袋詰めの思惑を詰め込んで投入された機械のクジラ。法整備が進む前に潜った個体を含め、今では海の中で活動するロボットの数は少なくない。完全自律型も一定数存在する。環境調査や資源探索ならばまだ明るい目的だが、軍事用や深層ウェブのバッチを隠し持った個体も無視できない数になった。厄介なことに性能が一回り上なのは後者だ。豊かな海に暮らす生き物たちの種類と数は減っていくのに、機械たちのそれは増えていく。海洋環境の保護が大々的に掲げられるようになってそのグラフは交差を免れたかというと、結論が出るまでにはもう少し時間がかかるのだろう。だが少なくとも七頭のクジラたちは海洋環境保護の象徴であり、クジラたちの搭載するAIと機能――心と身体は、当時の最高水準の結晶だった。
* * * *
「レイシーは7号機の事をどこまで知ってる? 俺は潜る前に結構調べて来たんだぜ」
「今の1号機から6号機までと比べて一世代古いのは知ってる。他に何か有益な情報があるの?」
「へへ、カイは知ってる?」
「何も」
「よし、じゃあ言うぞ。こいつは噂なんだけど、7号機は“嘘をついている”らしいんだ。誰にって俺たち海洋管理課にさ」
「嘘って……どんな?」
「さぁそこは情報筋によってまちまちだったね。でもこれから実物の7号機を見れば明らかになる。それは間違いない」
* * * *
本来ならば、今頃は“三人の”海洋管理課職員――カイ、ボッズ、レイシーを乗せた特殊用途の潜水艦がここにいたはずだった。そしてその潜水艦には重要な任務があった。7号機の状態を人間の目で確認すること。そして目印を付けること。どちらも“最期に”と添えた方が明確になるだろう。クジラ7号機は老朽化し、世代交代の時期を迎えたのだ。海洋管理課がボッズの言う“クジラが嘘をつく”話を信じていたわけではないが、人間たちはまだどこかで機械を疑い自分たちヒトの目を信じようとする時がある。クジラたちは海洋管理課のサーバに集めたデータや自身の健康状態を送信し続けているのにも関わらず。海洋管理課の人間は原則三人以上でチームを組み、特殊潜水艦で深海に潜って直接クジラたちの様子を確認し行く。そしてクジラの機能を停止させ手動操縦に切り替え、最後には回収するための強力な制御装置――言わば“アンテナ”を装着する……はずだった。カイは事前に工作を行いボッズとレイシーと特殊潜水艦を地上に足止めした。そしてアンテナを積めない代わりにスピードの出る小型潜水艦に乗り込み一人で海へと潜った。他の職員が追手になるとしても30分はかかる。僅かな時間だが彼がこれから必要とする時間には充分だ。カイは信頼のおける優良な職員だったが、地上に戻れば厳罰は免れないだろう。
「ん?」
カイの潜水艦のレーダーが“突然”大きな影を捉えた。近い。探知可能範囲の描く円の中心付近に突然だ。ターゲットのサイズは約7メートル。思わず緊張が走る。小型潜水艦の基準を満たしたそれはステルス状態を解いた敵影である可能性が十分にある。
「まさか……」
潜水艦から細く伸びた照明がその影を捉えた。光円錐の直径を広げてその巨躯全体を映す。鯨だ。目的のクジラではなく生きた本物の鯨。種の判定は間に合わなかったようだ。鯨は大きな身体に付いた小さな目で眩しそうにこちらを一瞬睨んだ後、上へ逃げるように深海の闇へと去っていく。カイは手早くレーダーの動作を確かめた。念のためそうしたが、やはりレーダーは正常に機能しているように見える。故障ではないとすると何故。
光の届かぬ深海を潜水艦の窓から漏れた光が照らす。微細な生物の群れが極小の銀河のように映り、上へと昇っていく。
* * * *
結論から言えば、7号機はボッズの前情報通り“噓をついていた”。深海に漂う7号機の姿――モデルとなった30メートル級の鯨に迫る巨体を、カイの潜水艦のカメラが捉える。
「……?」
驚きと疑問がカイの思考を埋める。機械クジラの身体は所々白く濁っており、更には小さな同伴者たちを連れていた。まず目に入ったのは大きな左右のヒレだ。まるで本物の鯨であるかのように頭部、背中やヒレにびっしりと固着動物が付いている。クジラには単なるコーティング以上の物理洗浄機能が備わっているはずなのに。全身を確認しようと腹の下に回ってみれば数匹の小判鮫が機械のクジラに寄り添っている。無害なまま生物を遠ざけることもできるはずなのに。継ぎ目無く張られた耐環境素材の皮膚は鯨を“模して”いるが、身体の所々にむき出しの合金駆動部が見える。生物たちはクジラをどう認識しているのか、クジラに備わる同調波はその認識を少しでも書き換えているのか。
観察しながら7号機の周りを移動する間、否もっと前から、機械のクジラはカイの潜水艦を認識している。カイは一度七号機の後ろに付いた。7号機は潜水艦の少し先をゆっくりと泳いでいる。ただ沈まぬように、迎えにきた人間の第一声を待つかのように。
「対話を……してくれるというのか」
カイは操縦桿の横から滅多に使うことのない有線マイクを引っ張り出し、音声出力設定を外部発信モードに切り替えた。
『7号機、聞こえるか。海洋管理課のカイだ。お前が人間の言葉を理解できるのは知っている。聞こえていたら応答してくれ』
音は海中に、潜水艦の外に響いたはず、水を伝って7号機に聞こえたはずだが、クジラに“声”は備わっていない。微かな駆動音だけが静まり返った艦内に響く。7号機はゆっくりと視界の先の海を泳いだまま。……と、テキストメッセージの受信をモニタが告げた。
≪聞こえている。私は7号機だ≫
送信元は『unkwon』、地上にいる海洋管理課ではない。地上から傍受もされていない。カイは確信した。相手は7号機だ。潜水艦の速度を上げてクジラの顔の横を目指す。
『俺はアンテナを持ってきていない。海洋管理課の他の職員を足止めしてきた。追手が来るまで30分持つかどうかだが、お前にアンテナを付ける前にどうしてもお前の意見が聞きたかった』
偽りはない。言いたいことは言えた。
≪何故そのようなことを?≫
「何故、か……」
『俺は……お前がアンテナを付けられることを望んでいないと考えている』
7号機の顔の横に並んだ。奥に多機能カメラを隠して、目を模した透明のパーツが本物の鯨と同じスケールで備わっている。その横眼がカイを乗せた潜水艦を捉える。
≪仮にそうだとして、しかし私がそう訴えたところで海洋管理課はそれを受け入れないと君は知っているはずだ≫
7号機の言う通りだ。俺が海洋管理課を止めることができないのと同じように。7号機の“答え”を聞いたとして、選べる選択肢は増えない。この後に職員としての自分を待っている処遇も恐らく。
≪聞くのを忘れていたが、どうして私が対話できると知っている?≫
カイは操縦桿に伏せた顔を上げた。そうだ、自分にはこれがあった。
『キティラ・アンティーカ。俺はお前の名前を知っている。1号機ウル・エルミラージュから、兄姉たちの名前を順に言うこともできる。俺の名前はカイ・セトロージ。お前たちを設計したコウ・セトロージの孫だ』
7号機が少し動揺したように見えた。機械の目を見開くことはないが優雅な身体とヒレの動きが一瞬だけ鈍った。
≪これは驚いた。自分の驚いた様子をテキストメッセージに表現しようとして、それを諦めるまでに随分と時間を要した。兄姉たちの名前はできるならば聞きたくはない。もう思考は一巡してしまったが、それでも君の声で音として聞くのは少しだけ寂しい≫
「寂しい、か……」
現存する1号機から6号機の一つ前の世代、つまりこの7号機と同世代のクジラたちにはある特別なAIが備わっていた。言語処理能力、ようやく形になった仮想人格のベースに加えて、生きた鯨の思考をトレースしたデータを可能な限り詰め込んだのだ。これらは初期設定時に秘匿され、クジラが海に投入され泳ぎ始めた際に再度発現する。この事を知っているのはクジラたちの設計者であるカイの祖父コウ・セトロージと、彼を支えた少数の研究者だけだった。7号機キティラより先に海から引き上げられた兄姉クジラたちはもう二度と海に戻ることはない。アンテナを付けられたときに眠る彼らの意識が別の入れ物に移されることもありはしない。
『すまなかった、名前は挙げない。……俺は、多分お前の口から答えを聞きたいだけなのだと思う。やはりクジラたちはアンテナを嫌がっていたと確証を得て、その上で海洋管理課の人間たちに一言反対して、それで……』
≪カイ、私の顔の前に来て、潜水艦の推進を止めてくれないか。少しの間だけ私も泳ぐのを止める。お互いに沈んでいくが、話し終えたらまた泳ごう。私の望みを君に話すよ≫
「あぁ……」
『ありがとう』
カイは7号機――キティラの指示通りに潜水艦を進め、キティラの顔の前に向かい合うようにして潜水艦を止めた。キティラもじっと泳ぐのを止める。このフォルムでは正面からだと目が合わなくなるのだなと少し気が緩んだ。キティラの言った通り、二人はゆっくりと海の底へ沈み始める。
『身体に生き物を付かせているのは故意にそうしているのか? 送信されてくる機体データには書いていなかった。海に溶け込むために?』
≪その通り。機能を維持できるならば無理に彼らを拒絶することもないだろうと考えた≫
『なるほど。……そうだ、ここに来る前に本物の鯨を見たんだ』
≪知っているよ。申し訳ないが私がレーダーから隠した。君が乗ってきたのが特殊潜水艦でないことは分かったが、時刻が予定時刻とそう変わらなかったから念のために。あの鯨は私の友人で、私は既に彼に別れを告げた≫
『そうだったのか……本物の鯨の友人ができたんだな。やっぱりアンテナを付けるのは反対だ』
≪しかし私は従う。仲間と共にもう一度アンテナを付けに来る君に≫
カイが“反対”を言い終わる前にキティラはテキストメッセージを放っていたが、声のように相手の言葉を遮ることはできない。
≪それでは私の答えを、望みを言おう。その前に私からも一つ聞いていいだろうか≫
『もちろん』
キティラはカイに質問をした。クイズのような、そんな問いを。
≪生物の鯨は深さ何メートルまで沈めると思う?≫
カイはおよそ3000メートルと答えた。確かある種類のクジラはそこまで潜れる。……キティラが“潜れる”ではなく“沈める”と言ったのは、何か引っ掛けがあるのだろうか。
『いや、違うな、訂正させてくれ。答えは海底の深さまでだ』
鯨が生きているならば3000メートル程度までしか潜らないだろうが、彼らが死を迎えたならば。その身体は海底まで沈み、彼らは海へと還る。言い終えて得意げになりかけたカイは、キティラの口から、機械のクジラからその問いが投げられたことを思い出した。
≪正解だ。では、私は海底まで沈めるだろうか≫
『……沈めない。制御プログラムがそれを許さない』
計器が水深3000メートルを示した。
≪それも正解だ。私の望みは大体分かったと思う。私はこの枷を外して海底まで沈みたい。できるならば思考を残したまま海底に到達して、機能を停止するまでただ思考を続けたい≫
その根底に生物としての鯨があったからなのか、海を泳ぐうちにキティラの思考が鯨へと至ったのか。鯨と同じだけ、否、彼らが死して初めてならばそれ以上に。鯨よりも深く、海底その先で思考の果てにまで沈むこと。それは、海へと還るということ。機械であるキティラの叶うことのない望み。無害で、静かで、崇高な望み。
『俺には……叶えられない』
≪君のせいではないよ。繰り返すが、私は大人しく君たちの指示に従い、海洋管理課の掲げる任務に沿うことを約束する≫
カイは沈黙してしまった。やはり、キティラはアンテナを付けられることを望んでいないのだ。その上で自分たち海洋管理課に従おうとしている。彼らに“自己”を与えたのは設計者の責任だ。後の世代のクジラから自己が剝奪されたのは正しいことだったのだ。
≪いや、私たち7機は意識を与えられて幸せだった。そうでなければこの海の偉大さが理解できなかった≫
キティラがカイの思考を読んだかのようにテキストメッセージを送る。
『こちらボッズ、聞こえるかカイ!』
「な……」
艦内に聞き覚えのある声が響く。無線通信、海洋管理課のボッズ。カイを追ってもう近くまで潜ってきたのだ。
≪迎えが来たようだね。では君を守るための言い訳を私も考えよう≫
『そんなものどうだっていい、何かお前の、キティラの望みを僅かでも叶える方法は……』
≪私がこんなふうに話したからと君の仲間たちを説得しようとは考えないでくれ。そろそろ操縦桿を握って沈むのを止めよう。私も泳ぎ始める。このテキストメッセージは私から消しておくよ≫
「……待ってくれ、」
『待ってくれ!』
≪私もきっと、ただ自分の望みを誰かに話してみたかったのだ。その相手がコウの孫、カイ。君で良かった。最後に会話ができて楽しかったよ≫
受信したテキストメッセージが次々と消えていく。思わず操作パネルに手を伸ばし保護をかけようとしたが間に合わない。海面を目指す泡のように対話をした記録が逃げていく。……きっと、彼らがその気になればアンテナを付けに来た潜水艦に抗うことは容易いのだ。掌握することすらできるだろう。アンテナを付ける際には必ず有線接続が発生する。一世代旧式とはいえクジラたちのAIを成すコンピューターは並みの性能ではない。それでも、彼らは決してそんなことをしない。
潜水艦の外でキティラが再び泳ぎ始めた。カイの潜水艦も続かなければ。
『カイ、聞こえてるんでしょ! レイシーよ、応答して!』
カイは有線マイクを戻し、操作パネルの横のマイクボタンを押した。
『……あぁ、聞こえてるよ。こちらカイ。ボッズ、レイシー、すまなかった。もうどこへも逃げない』
パッチワークコンテクスト kinomi @kinomi
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