それでもこの冷えた手が


 四人掛けテーブルの斜めの位置に座って、母と娘が食事を終えようとしていた。小さなパンが二つだけ乗っていた大皿は空になり、二人の小皿に均等に分けられた塩茹で芋もなくなり、残りは娘の小皿に“奇麗に残った”干し肉だけになった。娘はフォークの背を上にしてナイフと共に小皿の端に置くと、そっと両手を合わせた。娘が目を開けるのを待って、母は理由を聞く。


「カーラ、干し肉は?」


「お姉ちゃんにあげて」


 カーラと呼ばれた少女は木の椅子を押しながら母の表情を見ずに返した。こう答えてしまうと母が複雑な顔をするのをカーラは知っている。でも母は正直な人だから、そう答えさえすれば自分の残した干し肉はちゃんと姉が食べてくれると理解していた。カーラは毛皮帽子を手に取って手早く頭を包むとドアの前の空間まで急ぎ足で向かった。冷えた外気と吹き込む雪を一度受け止められるようにドアの前の空間は昔より長くなっていて、そこに立てば仮壁に遮られて小さな家の中が見えなくなる。来るべきものに備えた改築だ。


「手袋は着けたの」


「はーい」


 仮壁の向こうから母の確認が入った。カーラは柔革の室内履きを脱いで椅子代わりの丸太に体重を預けると、壁に立てかけた自分の靴を引き寄せた。残りの二足は姉と母の分。紐を結びながら、姉の靴がまだ雪用に作り替えられていないことに気付いてしまう。


「また手袋だけ…ちゃんと着けてくよ」


 そう呟いて立ち上がった。爪先で床を数回叩いて、丸木材で組まれた分厚いドアに革手袋の両手を置く。


「ふっ」


 冷たい空気と寂しい山の景色カーラを迎えた。まだ降雪はない。澄んだ視界のあるうちに灰黒い岩肌の混じる山頂付近を睨む。白く一色に曇った空に見つけた光源の位置、日が昇りきるまでまだ時間がありそうだ。厚い革の靴が丸太を踏む。母屋から伸ばした木組みの足場を歩いている間に、山肌に見つけられた色は緑から薄い茶色に変わりかけている短い草の色だけ。小さな家の方を振り返って手入れを終えた雪かき道具を一瞥する。


 昔々、カーラが生まれるずっと前のこと。今では大半が雪に覆われたこの山地には緑の息吹が満ちていた。豊かな多くの生命に溢れていた。多様な造形美を見せる植物に支えられ、虫たち、獣たち、鳥たちがいた。それらを見守る存在がいた。いまよりもずっと穏やかな冬が訪れて、一度は身を隠す生命たち。やがて訪れる春には数刻おきに全てが塗り替えられるように命が芽吹く。草木の緑だけで幾つの色があるのだろう。花々の色、虫たちの色、空の色。――命の色。神秘とさえ言いたくなる美しい景色が山地を覆い、生き物たちの温度が、声が、気配が満ちる。人間たちは節度を守ってその山地に生きていた。彼らを見守る存在に感謝し、それを示すことを忘れなかった。

 だが、やがて冬は長さを伸ばし、厳しさを増していった。山頂から降りてくる雪の範囲は少しずつ広がっていき、気温は生活様式を変えなければならないほどに下がり始めた。全てを閉ざす冬。永遠に続く冬。死へと向かう冬。誰がそう言ったのか、変容した冬を形容する言葉はどれも恐ろしく、しかし今も現実に近付いている。

 気候変動の要因はカーラたち人間にある。母も、きっと父も、明言しないまでもそう話していた。信仰が与えてくれるものでは生きていけなくなったからと、先祖代々続いてきた山での暮らしを諦めて降りていった仲間たちが多くいた。先月、カーラの親友が一人この山を去った。



「カーラ」


 同じ防寒具に身を包んだ少女が遠くからカーラに声をかけた。岩に片足を乗せた彼女の名前はナータ、カーラの友人だ。カーラが返事をする間に軽快に坂を降りてきた。


「また水汲みやるの?」


「うん」


「手、見せて」


 カーラの答えを聞いたナータはすぐにそう言った。カーラに断る理由はない。手袋を外して左手を見せると、ナータは鋭い目を細めてカーラの手のひらを確認した。少し複雑な顔、母が見せた表情と似ているとカーラは思った。


「私も付いていくよ。石碑に向かう道は両手が使えないだろ」


「ありがとう」


 カーラがこれから行う“水汲み”は昔から伝えられてきた儀式のひとつだ。山頂付近から流れる細い川は山のある場所で小さな湖をいくつか作っている。それを山頂に作られた石碑まで運んでいき、捧げる。儀式の約束事はひとつ。


――清き手で水を捧げること。


 この儀式はカーラたちの先祖が両手に貯めた水を石碑にかけたことが始まりと伝えられている。あるいは、湖とも言えないような小さな水場が石碑の近くにあったのかもしれない。あるいは、石碑がどこか別の場所にあったのかもしれない。ヒトの両手をどれだけ一生懸命両手をくっつけていても水は少しずつ零れてしまう。水を汲んで早足で歩いて、石碑の前にたどり着く頃には申し訳程度の量しか残らない。最後に両手に残った僅かな水に祈りを込めて、石碑にかける。それができなければ湿った手で石碑にそっと触れる。水が多ければ祈りが届くというものではないが、乾いた石碑全体を潤そうと何度も湖と石碑を往復する者もいた。

 これを伝え聞いたカーラたちの代は次のように解釈して水汲みの儀式を行っている。湖の水は器や袋に貯めて運ぶ。湖の水を運んでいる間、手は容器や袋に貯めた水に浸けたままにしておく。これには清き水を最後に石碑にかける時まで外気に自らの手を晒さず、また清き水と同じように保つ意味がある。石碑を前にして神聖な空気に包まれたとき初めてその手は水を捧げる役割を担い、改めて器や袋から水を汲み、祈りを込めて、石碑にかける。儀式はそうして守られてきた。……当時は、と補足しなければならない。奇しくも山が雪に覆われたことでこの儀式は絶望的な形式となった。両手を浸しておく湖の水は氷のように冷たい。山頂へ向かう道では下がった気温と相まってあっという間に体温を奪い、ただでさえ不安定な足元は雪で危険度を増してまともに歩けない。いつしか山頂の石碑が水を得ることはなくなった。この儀式を知ったカーラが初めてそれを再現するまで、このまま忘れ去られるものとさえ思われた。昔から続くしきたりを口伝えにしようにも、もうこの山地に残る人間は数えるほどとなった。



「こっちの方が湖に近いよ。この前道を確かめといた」


「いつの間に」


「まだ近道しても許されるよな、体力温存しないとさ」


 カーラはもう一度ナータにお礼を言った。彼女が水汲みの儀式を行う自分のことを否定していない、むしろ自分を心配してくれているのだと分かったから。


「あーでもちょっと待った」


 先導しようとしたナータが立ち止まった。


「見て。ミド鳥。こっちを見てる」


 上、ナータの指差す先には薄く青い翼で旋回するように飛ぶ影。妙に低く飛んでいる。ナータは素早く背中の矢筒を確かめてから腰のナイフの留め革を外した。猛禽類にしては小型のミド鳥が人を襲うことはない。少なくともこれまで見聞きした限りでは。


「待ってナータ、あれを食べようとしてるだけかもしれない」


 カーラは足元の岩場を指差した。種類は分からない、大きな甲虫の亡骸が鮮やかな緑色を保ったまま転がっている。眼の良いミド鳥ならば確かに捕捉できよう。虫の死因は別にあると思われるが、草木の減った今その体の色は保護色にならない。低温は彼らが土へ還るまでの時間を引き延ばしていた。ミド鳥の動きに注意しながら目を離さず少しずつ退く。カーラの思った通りミド鳥の狙いは甲虫のようだ。


「ナータ、ミド鳥を殺さないで。このまま私たちが離れよう」


 ミド鳥の肉は食べることができる。今カーラたちの食料事情は悲観的な状況にある。虫の死骸に矢を向けて弓を構えていればナータなら容易にミド鳥を射抜けるだろう。それでも。


「…分かった」


 カーラはナータを制した。ナータはそれを受け入れた。

 獣たちも私たちと同じ、変容していく冬を生きるのに必死なのだ。ナータがカーラに同行を申し出たのはきっとそのことが分かっているから。山頂に向かう道に現れるのは小型の肉食獣ジックくらいだが、ほかの獣が餌を求めて行動範囲を変えた可能性もある。餓えた獣は時として普段標的にしない人間にさえ襲いかかる。そういえば、今朝残した干し肉もジックの肉だったとカーラは思い出していた。



 幹と枝だけになって望めぬ季節を待つ木々の向こうに、少し開けた平らな場所がある。真ん中に薄い青色に空を反射した湖があった。カーラの小さな家が四個分ほどは沈められそうな大きさの湖には何処かから湧き出た細い流れが注がれ、湖の反対側に小さな流れを作って出ていく。静かな場所だ。僅かに聞こえる水の音に、時折生き物たちが現れては喉を潤していく気配が微かに混ざる。


「凍ってないな」


「流れてるからね」


 夜に水の凍る温度まで低下する気温はこれから真昼に向けて少しだけ上がる。すたすたと湖に近付くカーラを見て周囲を確かめていたナータは諦めたような顔で駆け寄った。


「綺麗な水」


「うん。もう少し深いと青色が濃くなるのかな」


「ナータ掘ってみたら?」


「無理無理」


 木をくり抜いて作ったお椀と同じように緩やかに半円を描いた湖底。この湖がどうやってできたのか、この山の地形に関する細かいことは二人には分からなかった。恐らく氷点下の水の中に魚や虫の類はいない。それどころか、周りの木々がかつて落としたはずの枝葉さえひとつも落ちていなかった。ただ灰色の岩肌だけが薄青く水底で揺れている。


「今日も袋?」


「うん」


 カーラが向こうの大きな岩の方を見たのでナータもつられて目をやった。岩の傍に、木をくりぬいて作った器が三つほど転がっている。ちょうどこの湖と似た形で革紐が三箇所に付けてある。カーラは服と身体の間に隠して持ってきた大きな革袋を取り出した。これにも革紐が通してあり、首から提げて手を入れることで体の前に固定できるようになっている。よく見ると同じ格好をした革袋が岩の近くの痩せた木に括り付けてある。そう、あれらは先人たちの水汲みの跡なのだ。器に備えられた革紐は安定して水を運ぶためのもの。


「あれ、ナータも水汲みするの?」


 手袋を外した両手を水面に近づけたカーラはナータが自分と同じことをしているのに気付く。


「カーラだけ冷たい思いをするのが申し訳なくてさ」


「私は好きでやってるだけだからいいよ」


「私も好きでやるだけ。まあ私は最後まで行けるとは思ってないし、途中で飲んじゃうよ」


「飲むの!?」


「行けるところはまでは行くけどね」


「…袋は?」


「あー…借りてくる」


 笑って何かを誤魔化すナータを見てカーラもつられて笑った。


 湖に左手を近づける。薬指の先、指の腹からゆっくりと水面に、感覚を、手応えを確かめながらそっと触れる。冷たさは痛みによく似ていた。そのまま小指と中指を、左手を沈める。


「冷たっ」


 ナータが耐え切れずに声を上げた。カーラは続けて右手を入れる。握らず、力を入れずに沈めた両手に氷点下の温度が染み込んでいく。


「黙ってできるのすごいな」


 少し経って、カーラは両手の指を水の中で組んだ。このような手順は教わっていない。“清き手”のためか。真剣な様子のカーラを見てナータも口を結ぶ。カーラは手を解いて、上を向けて少し丸めた手のひら同士をぴったりと合わせて“器”を作った。ゆっくりと、水面から器が一つ持ち上がる。零れた水が湖面に還る音が辺りに響いて、細く続くその音さえも溶け込むようにして。静寂がふわりとまた二人を包む。


「喋っていいよ」


「ふぅ……」


 ナータもカーラの真似をして、二個目の器が湖の水を汲み上げた。両の手でどれだけ器の形を真似ようとも水は零れていく。やがて器が空になって、二人足元に置いていた革袋を手に取った。首から革袋を提げて両膝を地面に付けてなるべく水面に近付く。両手を革袋の中へ入れ、そのまま革袋を湖へ沈める。上体を起こすようにして一杯の水を汲み上げ、歩きやすい塩梅を考えて適度に湖に還す。


「行ける?」


「うん」


 陽は真上に近付いていた。雪の降る気配も今のところは無いが、こればかりは読むのが難しい。カーラの知る最年長の民にとっても今迫っている冬の様相はこれまでにないものだった。



* * * *



 山頂への道は湖への道と比べて険しいものになる。湖がカーラたちの家がある場所と変わらない高度にあるのに対し、山頂はほぼ真上に位置し、その道は可能な限り上へ上へと登っていくからだ。山頂に近付くにつれて山肌に残る土は僅かになり岩の質感が目立ち始める。


「細いねここ」


「危ないと思ったら左手も出してよ?」


「うー」


 背を岩に付けて足の幅ほどしかない狭い道を進む。ナータは既に片手の水汲みになったが、カーラは重心を前へ向けるため上半身を捻って両手を入れた袋を進行方向へ向けなければならない。水の重みと慣れぬ姿勢は確実に体力を奪っていく。通ってきた道を見下ろすような危険な道をやっとのことで抜けると、今度は階段代わりに積まれた岩が待っていた。溶け残った雪が小さな氷となって張り付いている。


「前を歩いて。もし滑ったら受け止める」


「ありがとう」


 雪も氷も山頂に近付くほどに危険なものとして映る。すり減った注意力を惜しまず使わなければ足を滑らせ転落しかねないからだ。しかしそんな時、縄を通した鉄の杭がカーラたちの目に入る。切り立つ崖や大きな岩が並ぶような足場の悪い箇所に必ず残されているこれこそが水汲みの儀式を繰り返した先人たちの証だった。水を運んで両手が使えない間は心の支えにしかならない区画もあるが、足を引っかけることで、もしくは引っかかることで免れた死はあろう。


「カーラ、大丈夫?」


「大丈夫だよ」


 水汲みの儀式の終盤に差し掛かった者たちは山頂に巣食う何らかの意思を感じ取ることになる。袋や器に貯めた水は本来なら手から伝わる体温で少しずつ温くなり、やがて冷たさを感じなくなるはずだった。ところが、まるで何かが宿ったように水は冷たさを維持し、両手から体温を奪い続けるのだ。気温と水量、防寒服の下から得られる体感温度や水の体積に対する感覚から少し外れたようなその不自然さは、もしかしたら迫り来る冬そのものの悪意なのではないかと思われた。草木が減り、生き物の姿が減り、やがて死へと向かう山脈。本来なら循環するはずの生命が陥った何かと似た、恐れるべき気配だった。


 石段を登って視界が開けた。大きな岩をたくさん敷き詰めたような場所、岩の間に雪が詰まっている。


「カーラ、私の後ろに回って」


「え?」


「私の水汲みはここまで」


 少し声を落として喋るナータは左手を革袋から出した。清き手ではなくなった左手から湖の水が滴る。

 足下に最大限の注意を払うカーラの代わりに周囲を警戒していたナータ。一歩遅れて岩場に上がった彼女の目が狩人のそれになったことをカーラは理解した。二人の背の高さほどある遠くの岩陰、ナータが睨む場所に獣の頭らしき部位が隠れた。


「ジックだ。大人の個体」


 ナータは一度留め直したナイフの留め革を再び外し、素早く背中の矢筒から矢を三本取り出して二本を腰紐に通した。残った一本を木弓につがえてじっと岩陰を睨む。弓柄は濡れた左手で握っているが、ナイフも扱う右手は既に温度を取り戻している。ジックは岩と同じ灰色の体毛をした肉食獣だ。良く効く鼻とぴんと立てた三角形の耳で山に住む小動物を探し、しなやかな四本の足で山地を駆け、時には音を消して近付き捕食する。人間の目が利かなくなる時間帯にもっと低い標高にある塒から出て獲物探しを始めるはずで、主な狩場はもう少し標高の低い岩場のはず。大きな個体でも大人の腰の高さは超えないが、彼らの肉を貴重な食料とするカーラたちは捕食される側となったジックが鋭い牙を人間に向けることを知っている。何より獲物の減ったこの山で生き残っている個体は飢えた歴戦の個体だ。


「大声を出せば逃げてくれるかもしれない。それでも向かってくるなら狩るよ。……カーラ」


「ごめん、分かった」


「ミド鳥と何が違うのかだろ」


 黒い丸目が一つ、岩陰に光った。


「私はミド鳥にやられるとは思っていなかった。あいつは私たちを噛み殺せる。それだけだよ」


 ナータが息を吸う。


「来るなッ!」


 威嚇の叫び声。ジックは片目は閉じて怯んだかに見えたが、ついに岩陰から出た獣の両目がこちらを睨んだ。そのまま音もなく岩陰から歩み出る。低くした頭を持ち上げた。大きな個体だ。ただでさえ冷えた空気が凍っていくように感じた。虫でも鳥でもいい、鳴いて欲しい。ナータはつがえた矢を引いた。


「あと一回だけ威す」


 一矢目が静寂を切った。鏃がジックの足元の岩で甲高い音を立てる。少し怯えた? 身を引いたようだが、速度、精度、殺傷能力。弓矢がどれほどのものかこの個体は知っているのだろうか。


「カーラ、ゆっくり階段まで下がれるか。そのまま降りていいから」


 ナータが二本目の矢をつがえた。


「次は命を狙う」


 カーラも狩りの経験がないわけではない。後方、上がってきた石段の位置を確認し、ジックの気配をじっと窺った。……変わらない、ジックは引き下がらない。ナータには既にそれが分かっていたが、一本目の矢でジックに経験値が入ることを知ったうえで威嚇をもう一度行った。


「革袋を投げるから、ジックが気を取られた瞬間に撃って」


「でもせっかくここまで」


「また運べばいい」


 カーラの手も“清き手”であることをやめた。ジックに悟られないように、刺激を与えないように後ろを向いて袋を隠しながら水を適量だけ零す。岩に落ちた清らかであるはずの音がどこか不純に響く。革紐を解いて投石器の容量で狩りのための道具を作り上げる。


「よし、いつでも」


「私が睨んでたから向こうも動いてない」


「投げるよ」


「うん」


 ナータが弓を引き絞る。ナータがジックを狙う視界にちょうど入るように、しかし邪魔しないようにやや斜めに角度をつけて。

 敵意が伝わった。ジックが咆哮する。カーラが宙に放った革袋に獣が焦点を合わせた瞬間、頭部と胴体を同時に狙った矢が一直線に命を射る。


「浅い、カーラ!」


 左後ろ脚に刺さった矢、しかし崩れた姿勢で走り来るジック。三射目は避けられた。獣の間合い。ナイフの射程。ジックがナータに飛び掛かる。大きく身体を捻って屈み爪を躱したナータがジックの横腹にナイフを突き刺した。



* * * *



――お母さんとお姉ちゃんと、ナータたちがお腹いっぱい食べられるだけの食べ物をください。全ての生き物が満たされることが難しいなら、私たちは山を下りるべきなのでしょうか。


 石碑の前にたどり着いたカーラは、革袋の中で両手を器の形にした。湖の水から、清き手を以て、改めて水を汲み上げる。

 膝の高さもない小さな淡い灰色の石碑に水がかけられる。深い色味を取り戻した石碑に、清き両の手がそっと触れる。その間だけ、石碑は水汲みを行った者の声を聴くことができる。


――大人たちは既に祈ることをやめてしまった。祈りが返してくれるもの、与えてくれるものの“限界”を知っているから。子供たちはまだ夢を見ることができる。自分たちは……自分たちも、もう知っている。それでも、それを見ないことにして続ける祈りに、一体誰が、何が答えてくれるというの。


 この少女とよく似た格好をした“カルラ”と名乗る少女も、水を汲んで石碑の前にやってきた。彼女だけではない。何人もの人間がそうやって石碑に祈りを捧げた。

 

 目を開けたカーラは、山頂から見下ろす真っ白な景色を見渡すようにゆっくりと眺めた。それから別の峰の頂上を見据えた。水汲みを終えた手が澄み切った冷たい空気に少し痛む。お母さんもナータも自分の手を心配してくれていたのだ。手袋を付ける前に、指先を軽く揉むようにしてからそっと両手を前に伸ばす。その瞬間に、厚い雲の隙間を縫ってカーラの背中から淡い光が差した。光に透けた指先を、再び光が陰るまで、じっと見ていた。


――私は、冬があなたたちの意思だとは思っていません。その昔、“竜の渓谷”と呼ばれていたこの場所に、本当に私たちの及ばぬ何かが眠っているのなら、


「どうか、応えて」

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