編込布片

はじめましての距離


「やぁリヒト」


「……あぁ、ええと……」


 反応までの僅かな間、相槌。


「お腹がすいただろう。何か食べたいものはあるかい?」


「いや……キミは、誰だ?」


「私の名前はアイハ。AI技術者さ。この名前に何か思うところはないかな」


「……申し訳ないが、何も思い出せないんだ」


「そうか。変なことを聞いて悪かったね」


「僕は……」


「そのままもう少し横になっていてくれ。君のためになるものを持ってくるから」



* * * *



「やぁリヒト」


「……あぁ、ええと……」


 反応まで1.2秒、相槌の言葉は固定、瞬き1回、こちらの次の言葉まで思考による沈黙。沈黙の時間によって次の行動は3通り。


「お腹がすいただろう。何か食べたいものはあるかい?」


「いや……キミは、誰だ?」


 私は、誰なんだろうね。あなたの知っていた私があなたの知らない私になったときに、もう“私たち”は失われてしまったのかもしれない。



* * * *



《『記憶』と『人格』を切り離して考えることになるとは思いもしなかった。これが人間での話ならば、この二つはもう少し密接に結び付いていてくれたのだろうか。私とリヒトがこの状態に陥ったのは記憶の方を綺麗に切り取ることができる悪魔の所業のせいに他ならない。アンドロイド『リヒト・カナウ』の記憶と人格は完全に分断され、記憶の方だけが奪われてしまった。記憶とは何で、人格とは何か。その話をもう以前のように明るい顔をして話すことが私にはできなくなってしまったが、人格の方については“単なる反射のようなもの”であるとここ最近は考えるようになった。「こんにちは」と私が言えばどんな表情で何と返答するか。笑顔で言えばどうか、怒ったように言えばどうか。それが「愛している」ならどうか。

 彼らが昔のリヒトの応答パターンを私個人の記録よりも圧倒的な情報量で保持していたのにはもはや溜め息しか出なかったが、リヒトが記憶を分断される前の応答パターンと今の彼の応答パターンが完全に一致することは間違いない。私の持つ全てのデータと彼らのデータは一致しているし、私が新たに生成した予測パターンも結果として彼らが先に提示した予測パターンと一致するのだ。》



「これが依頼者本人が残していた記録だね?」


『はい』


「全てのテキストデータを更新日付順で並べてみてくれ。テキストの長さも一緒に出してくれると有難い」


『承知しました。オプションを加味した検索結果は以下の通りです』


「……ふむ」


 モニタに示された内容は“藪医者”の想像通りだった。今彼が読んだテキストデータは“依頼者”が初期の頃に作成したのものだ。この後しばらくの期間テキストデータが作られていくが、その内容は次第に少なくなり、最後の方で一度荒れたように大容量のものが少数確認出来て、そしてごく短いテキストで記録は途絶える。藪医者の想定パターンとこの記録群の特徴は完全に一致していた。最終作成日とカレンダーの日付を見比べた藪医者は目を閉じた。その表情には微かな安堵と決意が表れる。


「私の情報が彼女に届いてよかった。ハイレンジ、3分後には面会できる。準備をしてくれ」


『承知しました。手配を行います』



* * * *



 低層居住区の奥まった区画に藪医者の拠点がひとつ設けてある。当然表向きには“サイバネ医”を謳うような看板は出していない。趣味でアンドロイド整備をやっている人間の工房だと通してあるが、その部分は入り口、カモフラージュだ。一つ下の階を複数まとめて買い取って造り上げた空間こそが“ヒトをアンドロイドに変える”手術を行う本当の設備になっている。


「はじめまして。アイハ・ローレンさんだね」


「どうも。私の依頼は承諾してもらえたと思っていいのかな」


 藪医者は依頼者の様子を注意深く観察した。黒いポロシャツにジーンズ、スニーカー。こんなところに着飾って現れる依頼者は中々いないが、綺麗に髪を整えることも化粧をすることももう彼女にとっては意味が無いのだろう。依頼者に覇気はなく少し窶れているように見える。しかし彼女の目は“先”を見ている。決意を経てこの場所に来たことは間違いないようだ。


「ほぼ受けるつもりでいるよ。でも少しだけ確認させてほしい。目的と、意思をね。さぁ中に入って」


「ありがとう。もう隠すことはない。なんでも答えるよ」


 藪医者の扱う技術は簡単に言えば人間の記憶をアンドロイドに移し替える技術だ。この技術は多くの点において『違法』のラベルを貼られた技術であり、その大部分は『倫理』に基づくラベルだった。ヒトの脳をインターネットにほぼ直接繋げられる電脳化の処置を経て、まるで記録媒体を扱うかのように人間一人分の脳を“複製”してしまう。人格、記憶、そういった全てを丸ごと、しかも一度データとなった脳は技術の進歩によって“部分的に書き換える”ことさえ可能となっている。旧世代のメディアで言う「ビデオテープ」への「ダビング」のような処理を行うためか、当時この技術は「ゴーストダビング」と称されていた。さて、これがダビングであるならばまず誰もが思い付く問題は何か。


「記録元と複製先、同時に二人の私が存在できてしまう」


「その通りだ。では次に私が何と言うかご存じだね?」


「元の私はこの世界から消える。それで構わないよ」


 藪医者は施術前に依頼者と十分に会話するようにしていた。自分の技術が一体何を消して何を作るのか。相手がその概要を知っていたとしても、相手の知識レベルに合わせてより詳細に。意思の最終確認のためでもあるが、“まだ引き返せるならばここで止めるため”にそうしていた。

 青い小さな花を一輪だけ挿した白い花瓶が小さな四角いテーブルにそっと乗っている。椅子を向かい合わせより少し斜めに配置して、藪医者はアイハと向き合う。


「……一応説明させてもらうと、複製の際に電脳化した元の脳を破壊するような強力なトレース照射を行うからだ」


「他の患者にもそう説明しているのかい?」


「もちろん。事実だからね。ただ、僕は『患者』という言葉はあまり使わない。あなたも患者ではなく『依頼者』だよ」


「変わり者だな。本題に入ろう。アンドロイドになった私の代わりに元の私が“いなくなった”ことを確認する仕組みはこちらで考えてある。マイクロメモリに入れて持ってきたが見てくれるかい」


「流石に準備がいいね」


 アイハ・ローレンの目的は悲痛なものだった。彼女が思いを寄せていたアンドロイド『リヒト・カナウ』は“ある存在”によって記憶を奪われてしまった。いや、奪われたのならばまだ取り戻そうと奮起できる希望があった。記憶は完全に削除されたのだ。しかもあろうことか人格の部分を綺麗に残したまま。幸か不幸かAI技術者であったアイハは手を尽くして以前のリヒトを再び作り上げようとした。躊躇いはあったが、人格にあたる部分が残っているのならばと偽装記憶を作り上げて植え付けることだって試した。気の遠くなるような調整と試行の中でリヒトは以前のように笑ってくれることがあった。以前のように話してくれることもあった。でも、“当時の彼”ではなかった。アイハはリヒトの人格の側に一欠片でも残っているものを探した。再び『0』から始まったリヒトの記憶を何度も消した。あらゆるパターンを記録しては試した。実験室の記憶、一縷の望みで連れ出した外の世界の記憶。当時のアイハから連続する“今のアイハの記憶”。それらを蓄積させては消して、蓄積させては消して、リヒトの不安そうな様子を見て、何度も後悔して、それでも諦められずに。そのうちアイハは自分だけが彼を知っていることが申し訳なく思うようになった。そして思い至ったのだ。“自分も記憶を消してしまえばいいのではないか”と。アイハ本人からの事前情報では曖昧にしてあった部分も含め、これが彼女がここへ来た理由、目的、否、決意だった。


「人格の方を可能な限り残せるなら、私の記憶ベースは汎用アンドロイドのものでいい」


 彼と同じ条件になるから、とアイハは添えた。


「世間様の役に立ちそうな私の研究成果は全てコモンデータベースに移してある」


「それは……立派なことだ」


 藪医者にはアイハの依頼を断るだけの材料が見つからなかった。アイハは施術の対価として彼女の持つ資産、それから“ドクトル・モーゼ”の情報を全て差し出すと言った。資産の方は断った。ドクトル・モーゼは藪医者が最優先で探している存在だが、それがアイハの依頼を呑んだ理由ではない。藪医者にもこのやり方以外に彼女を救う方法が思い付かないからだ。


「君が謝ることじゃないさ。君は私の最後の頼みを聞いてくれる存在だよ」


「すまない……施術後のキミのことは責任をもって監視する」


「それは少々恥ずかしいね。こう言えるのは今の私だけだから言っておくけれど」



* * * *



 低層居住区を抜け出た藪医者は中層にあるお気に入りの場所へ来ていた。造られた年代と溢れた密度によって穴だらけの地層のようになった低層全体と、まだ空を見上げる余地が多く残された中層の様子がよく見える場所だ。


『悲しそうな表情をされています』


 柵の上に乗せていた手首のデバイスの小さなカメラから藪医者の顔を見たのか、藪医者の助手が彼に声をかける。


「あぁ、自分の無力さを痛感する依頼の後はそうなってしまうね」


『商用アンドロイド <識別名 リヒト・カナウ> 及び、公用アンドロイド <識別名 アイハ・ローレン> は問題なく捕捉しています。登録情報へのアクセスログ、改竄監視ログについてもアラートは0件です』


「ありがとうハイレンジ。情報屋にも感謝しないとな」


『他にどのような情報が必要でしょうか』


 藪医者が欲しいのは情報ではなく、ちっぽけな自尊心なのかもしれない。あるいは、


「それじゃあハイレンジ、少し話をしようか」


『はい』


「キミには、ヒトの魂には波形のようなものがあると思うかい?」


『“魂”とは、データ化された脳の情報のことでしょうか。“波形”とはデータに見られる特徴のことでしょうか』


「わざと意地悪なこと言うが、キミの思う定義で考えていいよ」


『それならば、そのようなものがあると思います』


「そうか……ありがとう」


 人格よりももっと深い階層に、たとえ記憶が失われても。そのようなものがあると藪医者は信じたかった。事実、電脳化を経て人工脳に移植された“その人”は、完全な状態であれば電脳化の時点で開けられた個人専用の南京錠――『ゴーストパドロック』を開けられる。では、そこから記憶だけを欠落させたら? 人格だけを欠落させたら? 何を以って“その人”は定義され、ゴーストパドロックが開けられることとその定義は同義に成り得るのか。藪医者はその答えを持ち合わせていないが、それは彼の時代の技術にとってももう少し先の問答となる。倫理だの法整備だのの前に技術が先行してしまった。人工知能、電脳化、そして人工頭脳学と、シンギュラリティ後のこれらの分野の躍進はヒトの順応も答えの議論も待たずに突き進んだ。他でもない好奇心を下地に生まれた流れをAI自身が補強してしまったからだ。



* * * *



「店員さん、少しいいかな」


「はい、何かお困りでしょうか」


 中層の商業施設にある喫茶店にて、店員として勤務する商用アンドロイドに公用アンドロイドが声をかけた。


「私がアンドロイドなのは見ての通りで、コーヒーは飲めない。で私は今ロールオフモード、つまりお休み中だ。お仕事のところすまないね」


「お客様の相手も大事な仕事ですので、少しの時間でしたら構いませんよ」


 商用アンドロイドは男性型、公用アンドロイドは女性型だ。公用の方はここのところこの喫茶店によく訪れていた。もっとも、人間たちと違ってアンドロイドが喫茶店で受けられるサービスは知れている。


「じゃあ甘えよう。はじめましてだよね?」


「はい、私の記録にもお客様との会話履歴はございません」


「そうだよねえ。キミ、名前はあるのかい?」


「リヒトと申します」


「私はアイハ。最初にこの店に来た時にさ、」


 商用・公用問わず決められた役割をこなす場合にもある程度の“個性”がアンドロイドには与えられる。多様性・揺らぎの保障とやらだ。女性型アンドロイドの方は妙に個性が強いように見えるが、いわゆる「オフ」の場合にはこれらの個性は多少なりとも自由に発揮される。その意味では、ヒトとアンドロイドの混じる生活空間において、無関係のアンドロイド同士の多少の会話は異常事態には成り得ない。


 その“魂の波形”同士に、合う合わないが仮にでもあるとしよう。お互いに『0』から歩み寄るのだとして、距離を縮めるのが少しだけ早い波形同士があるとしよう。ハイレンジが『一目惚れ』という言葉を見つけたと言って話してくれたリヒトとアイハの様子は、再びドクトル・モーゼのことを探り始めた藪医者の心を少しだけ軽くしてくれた。

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