コップの中の漣
食器が鳴く音が聞こえる。カタカタと。それから本棚や壁と天井が軋む音、キシ、キシ、と。…湿った海風の…大きな手。やっと風と雨の声が聞こえてくる。
目を開けて急いで身体を起こした。間違いない、空と海が荒れている。使い古した薄い布切れをそっと除けてベッドを出て、急いで食器棚の奥を目指す。傷んだ木板繕いの床が苦しそうな音を返した。ごめんね強く踏んでしまった。
二枚だけの陶器のお皿、取っ手の欠けたカップの奥に、大切な道具がある。
「…」
自由になった水滴を先っぽだけ切り取ったような柔らかな丸い形のコップ。薄いガラスが青色にも時折虹色にも見えるそれには3分の1くらいだけ海の水が入れてある。コップの中の空と海は、“本物の空と海と繋がっている”。今まさに風雨と荒波が丸いコップの中で大暴れしていた。
「…リュウジ」
鼓動が早まり、たまらずコップを両手で包んで外へ出る。
重い扉を両手両足でどうにか開けると、すぐに豪雨が顔に当たり暴風が私を押し返そうとしてきた。轟音が鳴り止まない。どうにか薄目を開けて灯台を見て、光が海へ橋を架けているのを確認する。白くて背の高い友人はやはり脚に力を入れ懸命に耐えて、海の向こうに祈っている。あっという間に水浸しになった全身を引きずって私も少しでも海に近付く。
「…っ」
海も空も狂ったように叫んでいた。短い丈の雑草たちまで横倒しに苦悶の表情、ずっと下に見えていたいつもの海面は大きく手を伸ばして何度も何度も岸の上に爪痕を作っている。遠くに雷鳴の群れが踊るのが小さく見えた。振り返ればボロボロの私の小屋はやけに頼りなく映る。
空読みの人はこんな予想をくれなかった、リュウジを乗せた船はまだ航路途中の…
「ナギちゃん」
驚いて振り返ると、ベッコさんが私の横に立っていた。海に沈む直前の太陽にリンゴと黄金の粉を混ぜたような不思議な色の瞳で荒れた海を見つめて、それから茫然とする私に向き直る。
「私も波が気になってね。危ないから一旦小屋に戻ろうか。…潮風はあんまり髪に良くないかもよ? そうだ、果物をあげるから後で私のところに来てちょうだいな」
「はい…、でも…」
「リュウジくんのことか、ちょっとコップを貸してくれる?」
すがる思いでコップを渡す。このコップを作ったベッコさんは、偉大な魔法使いは、両手で包んだコップに淡い光を込めた。
赤子が泣き止むように、波と風と雨雲が静まっていく。
小さな円形の空と海はやがて静かに寝入り、それから、大きな大きな本当の空と海がそれに同調し始めた。
「リュウジくんに聞こえるかもしれない、ひとつナギちゃんからの伝言でも作ってみようか」
少し恥ずかしそうにする私は、既に安心し始めていた。
* * * * *
「ありがとうございました!」
「いーのいーの、またいらっしゃい」
リュウジくんと仲良くね。
ナギに果物をたくさん入れた籠を渡して、ベッコは静かになった部屋の奥へと戻ってきた。
指先で宙に文様を描くと、浮かんだ図形が読みかけていた古書のページにするりと乗って居心地良さそうに染み込む。深紫の表紙が挨拶をして本棚に舞い戻った。机が退屈そうに天板を見せるので、次の作業を予告する。
棚に並んだコップを一つ手に取った。やっと穏やかになった海を映す魔法細工のコップ。
「こっちは時間で、こっちは重力。それから星々も」
簡素な木製の机に同じ形の4つの丸いコップを並べた。どれも空から地面までの旅を愉しむ水滴を“ある比率”で切り取った形に作ってある。
「向こうの私がストームグラスを基に気象干渉レンズを作ったって言うから、張り合って作ったんだっけ」
――高度に発達した科学は魔法と区別がつかない
「私の場合は逆か。行動に発達した魔法は科学と、だね」
少し深い呼吸をひとつ待って、4つのコップを順に扱う。まずは、左手前の世界から。
母なる海は未だその時を待っていた
渦巻く時は既にその時を終えていた
貫く重力は故にその時に触れていた
輝く星々は遍くその時を描いていた
穏やかな漣をしばらく眺めて、複雑な螺旋を描く時間模様をコップの表面をなぞるように確かめて。重力が手を伸ばして引き連れてきた色味を少し慎重に取り出して羊皮紙に記録し、それから星団の配置を型取りして予言の図形に重ねた。
ベッコの口元が僅かに緩む。
「向こうのベッコはもうあと二年以内に“超あめ理論”を組み上げるはず。私も後に残す方の名前を考えておかないとなあ。ベッコ・アメリアートとか、どうかなあ」
* * * * *
『次元超越装置』に至ったものたちはその何例かに解釈可能な経緯が確認されているが、中には極めて人間的な存在を感じさせるものもある。何とも子どもらしい好奇心がその根底にあるような、例えば、
「空から、雨じゃなくてカラフルな飴が降ったらいいな。なんて。」
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