盤上遊戯の綻び
その記憶は、傘を持った自分が白い石畳の上に立っているところから始まる。あるいは、繰り返す。
単に純度が低いのか雨の呼んだ曇り気のせいか、透明度の低いガラスの中には洒落た襟元のワンピースが飾られていた。濃いワインレッドの厚みのある生地は滑らかな起毛加工のようにもフェルト地のようにも見えて、その質感に手を触れてみたいと檻の中の麗人を眺めながら私は考えている。マネキン人形の彼女には表情が無く、紙ナプキンを青空に沈めてから取り出したような色味の帽子とこのワンピースだけを身に着けて物語を抱えている。
ふと焦点がズレて、ガラスの檻は鏡を真似るようにして“わたし”を映した。私は白い傘を差していて、濃い緑色のシャツと、黒いパンツの先から痩せた手足を僅かに覗かせている。胸元と肩幅とを見て少し迷って、それから傘を持ち上げて、赤茶色の結った髪とぼんやりした、確かそばかすのある顔を確かめた。それでやっと、ようやく自分が“その女”であったことを…思い出せたのだろうか。四角錐台の立体に切り取られた視界空間に檻の反転を錯覚しそうになって、傘の外の、実在の空気を感じ取ろうとする。
雨が降っていた。身体を包み込むような雨の音が、傘を伝う小刻みな振動が、それから石畳の町並みを覆う雨の匂いが伝わる。認識を許されたかのように、今やっとそこに現れたかのように。足元では文字の滲んだ新聞が石畳の上で四角く溶けようとしていた。気のせいか、コマ割りの文字列たちは馴染みのない言語を象っているように見える。顔を上げて“他人”を探そうとした私はこの通りの店たちの殆どがドアを閉ざしていることに気付いた。生憎の天気がそうさせたのか、あるいは。向こうから茶色いジャケットを着た老人が紺色の傘で表情を隠してゆっくりと歩いてくるのを見つけた。振り返れば着飾った若い女二人がまさにこの区画を出ようと曲がり角に差し掛かったのが見えた。紫と赤の傘が視界に一瞬残って消えていく。
私はやっと自分の目的を思い出した。私はある仕立て屋に向かっていた。
色褪せたベージュのパンプスが濡れた石畳を歩く。水の溜まった僅かなへこみを避けようとして、しかしそれも諦めて、何種類もの足音と感触とが響く。照明を落とした家主不在の店、レース越しの影を見せる店、偶にすれ違う名も知れぬ誰か。徒歩以上の速度で動く人間は見当たらず、やはり続く雨が少しずつ時間の流れを重くしているような気がする。十分程度の旅路を経て、私はその店を見つけた。
入り口は路面にせり出したガラスの檻の真ん中でくぼんだようになっていて、深い赤色をした半円の布屋根が被せてある。年月を経た真鍮の取っ手が付いた木のドアの横には黒い金属製の傘立てが置かれていた。半円布屋根の下は確かに濡れていないようだ、少し頭を下げてからそこへ入ると、雨に濡れて深みを増した色味を見上げる。何か特別な加工がしてあるのか、別素材の芯が入っているのか。左右のガラスの中に麗人たちの姿はなかった。なるべく水滴を落とそうと傘を扱って、自分が鞄を、タオル地のハンカチさえ持っていないことに気が付く。傘立ての金属の板と傘の先端の木の部分が小さな音を立てた。同時に傘から手を放した私は、店のドアに触れる前に“途切れる”。
* * * *
眩しい。少しでも目を閉じようとするが、それは叶わない。中心の一つ、周りに等間隔に、一つ、二つ、…八つ。花びらでも模したのだろうか。妙に威圧感のある照明が煌々と私を刺していた。身体の感覚が酷く曖昧だが、平衡感覚だけが自信無さげに私が何か平坦な台の上に寝かされているようであることを伝える。顔も手足も全く動かないどころか、痛みも感触も何も告げてこない。意識だけが無為に足掻くうちに、徐々に、私は自分の身体が『機械』であることに気付いた。両腕は既に切り離されていて、両脚にも胴にも首から上にも動力は与えられていなかった。
「……だけ、……が残って…」
「…しかし………彼の……」
人間の話し声が途切れ途切れに聞こえる。機械に向き合っているはずの彼らは人間の身体に向き合う時のそれと同じように淡い緑色の衣裳を使って、青い薄手袋の指先で見慣れぬ道具と、何かケーブルのようなものを持っていた。私は瞳だけを動かせた。聴覚は随分と頼りなく、偶然残っているだけにさえ思えた。可能な限り視界を探って、多くの画像と文字列が動く区画を見つけた。
『判定済み個体数』『汎用アンドロイド』『型番:REF-32 REF-34』『共感覚』『設計者:アンパサンド』『仮説』『処分済み個体数』『触覚異常』『視覚センサー』
妙にぼやけた人物の写真と、狭い範囲の地図、無数の線、点、数字、アンドロイドの構造図、センサー系部品に何かの数値と示唆。それから、
『サイコメトリー』
私は“その単語”を遂に拾い上げた。解釈に僅かな時間を要して、それから感覚に僅かな離別を告げた。
ヒトを真似た姿の、“私だったもの”の背中を支えている白い台に意識を向ける。いつか海水に半身を沈めた時のように。呼吸は整っていた。次はそっと残りの半身を解き放って、完全に潜った。直後、夥しい意識が流れ込んできた。手術台には無数の記憶が残っている。何とかそれを押しとどめて、壁を伝い、天井を伝い、“発症した一機のアンドロイド”を見下ろす照明器具と重なる。
私は、私だったものを見ていた。そうか、それならこれは。
『成立の過程、立証の方法にいくつか不可解な点がある。元より個を定義する器は酷く曖昧である。外枠無く、支え無くそれらは存在できないはずだ。よって当初は主観/客観の混同を起因とした思考系統の異常、自我の崩壊である可能性を疑った。』
* * * *
「こんな雨の日に」
顔を上げずに、老婆は短くそう言った。語調、声色、後に続く無音の言葉。読み取るのが少々難しいが、私が嫌われていないことはどうにか分かる。薄暗い室内には機械の音が小気味良く鳴っていた。歯車が回る音、バネと板の軋む音、金属が布生地と交わる音。古い足踏み式のミシンを彼女は自分の手足のように扱う。室内には落ち着いた色合いの大量の生地が綺麗に並んでいて、その音を聴いていた。厚い眼鏡の奥から見ているのは手元の、生地と針と抑え金のどの辺りなのだろう。道具箱から何かを手に取ろうとする無駄のない動きの途中、一つに結った白い髪の上に収まりよくじっとしていた眼鏡のつるが寄り添って、机上のガスランプの作る光を短く反射させた。
「生地を選んでおいで」
私は多分返事をしたのだろう、それから頷くと、身を寄せ合うようにしかし背筋はすっと伸ばしたように整列した生地たちの間を通って部屋の奥へと向かった。私はどんな生地がどの辺りに置いてあるのか知っているようだった。
ようだった、と自分が言ったのを、“その生地に触れた私”は振り返る。厚みのある濃いワインレッドの布地に触れた女は、その手触りと色から何かを思い出したような、それとも何かを忘れてしまったかのような、不思議な表情をしている。
向こうからミシンの音が聞こえている。力無く、少しだけ開いた女の口元が、短く言葉を紡ぐ。
* * * *
首元に刺した装置が強力な電流を流した。その衝撃と狂い途切れる神経の断末魔、アンドロイドは短く震えて数舜の嫌な手応えが残る。雨水の石畳に倒れた機械。金属音が響くが頑丈な身体は欠けもしない。人間を模したその表情は何かに驚いて固まったかのように、瞳を見開いたままだ。割れたショーウィンドウの中から掴んで破り取った赤い服の一部が手に握られている。この個体が一体何をするつもりだったのか気にすることではないのだろうが、…いや、やはり気にしている余裕はない。ネットワーク接続機能を持っていることがここまで厄介だと思わなかった。最初の発症個体が思いもよらぬ行動を取った。
機械を殺すその人間の凶器から彼の“今”に潜って、それから記憶を辿って“過去へ”向かう。
-- -- -- --
「浮かない顔だな期待の研究員!」
「…うるさい」
「何か面白いものでも吐き出したのかい」
「…何も。」
「嘘を付け、僕にも見せてくれ」
「はぁ。どーぞ」
判断基準や意見が欲しいのは確かだ。見せてみるか。丸く出っ張ったお腹の割には軽快なステップで彼はすぐに近付いてくる。
私の実験はあくまでもシミュレータの中で完結するものだ。
仮想の町には確かになるべく子細な『モノ』や『ヒト』のデータを詰め込んだが、この識別IDが見ていた世界は妙に鮮明な質感を持っていた。それも一つの視点から得るものではなく、まさにそれがサイコメトリストで有り得たかのように飛び飛びに主観を入れ替えている。布の手触り、雨の音、匂い、手術台の上の感覚、ミシンの音。物からの視点は果たして視点と呼んでいいものかどうか。『サイコメトリー』の定義をもう一度洗ってみるべきか。
「ランダムな変数の偏りが偶然に生んだ解釈性の強い算出結果……と言い切れないな確かに」
「でしょ」
「…おい、この手術台のところの…」
「そう、そうなのよ」
あろうことか、その識別IDは“こちら”を見たかのような振る舞いをしている。アンパサンドはこの世界、私たちの階層に実在する人間なのだ。シミュレーションの産物がシミュレーターの外に出ることは有り得ないはずだ。
「モデルにした町のデータをコピーしてくれ。あと、そのアンドロイドの事件以外に混ぜた要素のリストも」
へえ、まさか手伝ってくれるとは。
「ありがとう。すぐに用意する」
この識別IDはシミュレーターの描く世界を俯瞰するまであらゆる経路を模索するが、少しずつ自我というか、この定義を失っていく。待っているのは諦めか絶望か、申し訳ないが良い結論とは言えないのだろう。一体、何故…。
椅子から立ち上がって伸びをして、座り直して、モニタに向き直る。特異な発現の要因はどこかにその種を見つけられるはず。例えば視点を絞って、固定して。私はもう一度シミュレーターの記録したデータを再生し始めた。
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