5-3.暗転
「本当に大丈夫? 顔色悪いよ? 今日は終業式だけだから、休んでも平気だと思うよ? プリントとかは持ってきてあげるよ?」
「いや、大丈夫だから。行くよ」
心配する倖果に返事をして、バターの塗られたトーストをかじった。
味がぼやけてよくわからない。一睡もできなかったからか、感覚が痺れてしまっていた。
華乃さんはすでに出勤している。早く朝食を食べ終えて、倖果と洗い物を済ませてから登校しなければならない。ならないのだが、いまいち食が進まない。
――昨夜、現れた[災禍]は何をすることもなく、暗い夜道に溶けて消えた。
街灯の下で完全に硬直して、放心してしまった僕に倖果はそっとデコピンをした。それでもぼーっとしているのを見かねて、再び彼女はこの手を取った。今度は指は絡めなかった。
リードを引っ張られる犬のようにして家に帰ってきて、先に入りなよと言われたので機械的に風呂に入って、寝間着に着替えてベッドに潜って。
それからずっと怯えていた。
次の瞬間、部屋の窓から[災禍]が姿を覗かせているかもしれない。
朝起きたら、倖果が部屋でキイチゴになっているかもしれない。
本当なら倖果の部屋に行って彼女を守らなければならないのに、四肢は恐怖に縛りつけられて、身じろぎひとつできずにいた。
足先に深淵が口を開いていて、横になっているのに延々と落ちていく感覚。
無理やり出した結論は幻覚。僕がすでに狂っているとすれば理に適う。あるいはトラウマ。PTSD。フラッシュバックみたいな。いずれにせよ、僕の心に起因して見えた映像に他ならない。そうでなければおかしいだろう。
現実をおかしくしないためには、僕がおかしくなっていなければならない。
残りのトーストを口に投げて、僕は食器を片付け始めた。
空はどんよりと曇っており、僕たちは言葉少なに登校している。
通学路を終えて校門を入り、校舎へと続くレンガ敷きのぐねぐね曲がった登り坂を上っていると、先に見覚えのある背中が見えた。
先で束ねた亜麻色の長髪。相反する印象のマニッシュなパンツスタイル。
「おはようございます」
倖果と一緒にその後ろ姿に声をかけた。本告さんだ。
この人にはまだ色々と言ってやりたい感情もあったが、遡る前の『高一の世界』の本告さんと、ここ『中三の世界』の本告さんは違う人だ。水に流さなければならない。
それに、昨夜の出来事を相談したい気持ちもあった。
「あら、おはよう倖果ちゃん、閑馬……君?」
振り返り、にっこりと柔らかい笑顔を浮かべて本告さんは挨拶を返して、
「――え?」
僕と目が合った瞬間、ぎょっとした顔をした。
化け物でも見るような目つきだった。
生まれて初めて浴びる畏怖の視線に僕は驚き、戸惑う。
「……どうかしましたか?」
「……それは、こっちの台詞よ。あなた、どういうこと?」
本告さんはキッと僕を、そして倖果まで睨みつけた。
僕たちは揃って困った顔になる。
どういうことと言われても、心当たりがない。
今の数秒のやりとりに、何かいけないことでもあっただろうか。
「今日は午前中で終わりよね? 閑馬君は放課後司書室に来なさい。必ず」
ぴしゃりと言い放ち、本告さんは足早に坂道を上っていってしまった。
得体の知れない怒りと焦りを、すらりとした背にたぎらせながら。
一喜一憂する中学三年生時代のクラスメートをよそに、良くも悪くもない通知表を鞄にしまいながら、僕は朝の本告さんの異様な態度について考えていた。
ひょっとして、僕が『遡り』で過去へと来たのがわかったのだろうか?
そんなはずはないと思う。僕は意識こそ高一から遡ってきたものの、肉体は間違いなく中学三年生の閑馬住生そのものなのだ。頭の中身が外見で判断できるわけがない。
なら本告さんは何に驚いた?
何に怒った?
だいたい、仮に遡ってきたのがわかったのだとしても、それはあんなに怒るようなことなのか?
考えているうちに一学期を〆るホームルームが終わり、僕はクラスメートへの別れの挨拶もそこそこに、三階の図書室へと向かった。
扉を開くと、人の少ない図書室には見慣れた顔があった。
「やあ、遠近」
ひょいと片手をあげ、貸出カウンターの前にいる彼女に挨拶すると、
「……え? あ、はい。こんにちは」
遠近はさながら野良猫みたいな、驚き半分警戒半分といった面持ちで返事をした。少し腰が引けていて、胸にはハードカバーの本をぎゅっと抱きしめている。
彼女の胸元にはいつもの青色のではなく、中学二年生用の緑色のリボンが結ばれていた。
「……あ」
そこで気付いた。
僕はまだこの『中三の世界』では、彼女に出会っていないのだ。遠近と知りあうのは彼女が三年生になり、図書委員となる来年の四月のことだ。
初対面の後輩となる遠近沙代はぺこりと小さく会釈をして、馴れ馴れしい先輩の横をすり抜け、そそくさと図書室を出て行ってしまった。
「……悪いことしたな」
一人ぼやくと、唐突にあの幼い日の感情が思い起こされた。
世界に疎外される感覚。自分だけ水に浮いた油玉になったような孤独。
意味不明のノスタルジアを振り払う。
少しばかり寂しさもあるが、まあ来年度になればまた会えるだろう。できればそれまでに今の一幕は忘れておいてくれ――心の中で呟いて、僕は無人の貸出カウンターの横を通り過ぎ、目の前の司書室のドアをノックした。
「どうぞ」
無機質な声がドア越しに返ってきて、僕は部屋の内部へと入った。
入ってすぐに本告さんは仕事机から立ち上がり、
「閉館するからちょっと待ってなさい」
「閉館って……学期末最後の貸出日ですよ? いいんですか、昼の閉館なんて」
「学内放送聞いてなかったの? 今日は朝からそのつもりよ。貸出希望者は休み時間にたくさん来てくれたわ」
だからカウンターが無人だったのか。というか、ひょっとして遠近はセルフで借りたのか。置かれている生徒名簿と本に貼られたバーコードをそれぞれリーダで読み取るだけだが、委員以外はやったらNGである。さすが遠近、ちょいワル。
閉館作業を手伝おうとしたが「待ってなさい」と断られ、僕はいつも昼食を食べていた六人掛けテーブルに掛けてじっと作業終了を待った。
司書室の内装は『高一の世界』でもこの世界でも変わっていない。自分の部屋でさえ多少の変化があったので、棚の本の増減以外何も変わっていないこの場所は、少し心が落ち着いた。
ほどなくして本告さんが戻ってきた。
司書室のドアを閉めた本告さんは、僕の位置から斜め向かいの自分の仕事机に座り、恐ろしく冷たく、鋭い目で僕を見下ろした。
「で。……なんで活性化してるのよ、あなた」
「はい?」
「なんで今いきなり魔術師になってんのかって訊いてんのよバカッッ!!!」
仕事机に握った拳を叩きつけ、空間を裂くように本告さんが叫んだ。
「…………っ!?」
反射的に椅子ごと後ろに下がっていた。空気がビリビリと痺れて、寒くもないのに全身に鳥肌が立つ。ここまでの怒気を孕んだ本告さんを見るのは出会ってから初めてのことだった。
「華乃がやったの!? まさか綾佳!? ……ああもう、まだ坏子も出来上がってないっていうのに!!」
立ち上がり、つかつかと歩み寄ってくる本告さんに、僕はますます後ろに下がる。
「ちょ、ちょっと待ってください。活性化ってなんですか。それはその、向こうの僕であってここの僕ではないというか――」
「しらばっくれてんじゃないわよ! あんた先週と魔力の出方が全然違うじゃない! 倖果なんかにはわからなかったかもしれないけどねえ、頭がピカピカ光ってんのよ!! 使えるんでしょう、『遡り』が――」
僕の胸ぐらに手を伸ばした本告さんは、そこではっと、何か致命的な過ちに気付いたような顔つきをした。
「……あなた、まさか」
わなわなと唇が震えている。
「遡って、きたの?」
呆然と訊く本告さんに、僕は黙って頷いた。
本告さんは驚愕と絶望を織り交ぜた、あたかもこの世の終わりに直面する人類みたいな表情を浮かべて、ふらふらと仕事机に戻り、どさっと椅子に腰を下ろした。
死んだ目で僕をじろっと見つめてくる。疲れきった声で彼女はこぼした。
「とにかく。何があったのか話しなさい。包み隠さずに、すべてを」
**
僕はそれらを話した。
『高一の世界』で本告さんに勧誘されて魔術部に入り、七月に現れる[災禍]と戦う訓練に加わったこと。
入部して一週間後に、八年前倒した[災禍]の魔力の一部を本告さんにもらい受けたこと。
その時に、肉体に刻まれた術式『復旧』を活性化したこと。
続いて[災禍]の一週間前には、意識に刻まれた術式『遡り』も活性化したこと。
七夕の夜[災禍]が現れて、倖果が撃たれて殺されたこと。
絶望した僕にチバ先輩が『接続』の存在を教えてくれて、『超越』と『遡り』を併用して、一年前であるこの『中三の世界』へ遡ってきたこと。
ただの幻覚かもしれないが、昨夜、夏祭りの帰り道で[災禍]の姿を見たこと。
「綾佳の奴――」
『接続』について話すと、本告さんはここでもチバ先輩への怨嗟をあらわにした。
先輩自身も最初は絶対に秘密だと言っていた術式が『接続』だ。それが僕にばれることで本告さんに何か不都合があったのか。
もしくは、こうして『超越』『接続』『遡り』を組み合わせること自体が、その不都合そのものなのか――『高一の世界』の本告さんが僕を止めようとしたのは、回復役の逃亡阻止以外の何らかの理由があったのか。
「僕が話せることは、これで全部です」
過去の想起、本告さんとのやりとり、そして昨夜のあってはならない光景を通して。
僕の中である恐ろしい予感が、確実に脳を、心を占める領域を増大させはじめていた。
「隠しても仕方ないからはっきりと言うわ」
そしてそれが現実となる、残酷な言葉が告げられる。
「六日後――二〇十四年七月二十八日午前零時。[災禍]がこの乳楢に現れる。私たち魔術師を殺しにね」
本告さんが言い終えた瞬間、世界が停止した気がした。
意識を乗せたカメラがすぅっと後頭部の方に抜けて、自分自身の体を斜め後ろから俯瞰している。
理解したくなかった。
何十秒か何分か過ぎて、
「……なん、で?」
喉から絞り出された疑問符は、かすれていてどうにもぎこちない。
ようやく意識が体に戻る。そして背筋に氷柱が走る。あってはならないことが起こってしまっている。感じられるおぞましさを抑えることができない。
僕が中学三年生の時に[災禍]が出たなんて話は『高一の世界』では聞いていない。
そんな事実はなかったはずだ。
[災禍]の発生は二〇十五年七月。
入部した時からずっと聞いていることだ。
その予定が、唐突に、何の脈絡もなく、丸一年早まった。
何故?
どうして?
どんな理由で?
この『中三の世界』と、記憶の中の中学三年の頃と。
いったい世界の何が違う――?
「…………」
本告さんが睨んでいる。僕の目の奥の意識を通して、心を射抜いて糾弾している。まるで僕がとんでもなく悪いことをした罪人であるかのように。
……本当は、なんとなく気付いている。
気付かないふりをしているだけだ。
何故ならそれは、原因と結果の結びつきがあまりにも理解不可能だから。
「……僕が、遡ってきたから?」
僕の『遡り』が、[災禍]の出現を、早めた?
本告さんは沈黙している。
エメラルドグリーンの瞳だけが宿す光を強くしている。
無言の肯定。視線の圧力。僕は理解してしまった。理解せざるを得なかった。
僕が[災禍]を呼び起こした。
だから、なんで?
「[災禍]はあなたを狙っている。……あなたの『遡り』が活性化した時[災禍]は起動する。起動してから一週間後[災禍]は活動を開始し、魔術師を殺戮する」
ちょっと意味がわからない。
[災禍]は前触れのない、予測できないものだって、倖果もチバ先輩も言っていたじゃないか。そういう前提を崩されるのは困る。
努力とか諦観とか決意とか、そういったこれまでの思考の基軸が根こそぎ覆されていくじゃないか。
……もういい。
もう、いい。
とにかくこの世界もダメになったのはわかった。もういい。もうたくさんだ。
「――うん、そうだ。この世界にも出ちゃったんなら、もう一度遡って――」
そうだ。この世界もイカれてしまったのなら、またどこかに行けばいい。
中二でも中一でも小六でも小五でも、倖果と初めて出会った八歳の頃でもいい。
ダメになったなら捨てちまえばいい。それが可能な術式が、ちからが、僕には――
「話を聞いていなかったの?」
「……どういう意味ですか」
「あなたの意識に刻まれた『遡り』の術式が[災禍]を呼び寄せているのよ?」
「それがなんだっていうんですか」
この人はいつも僕の否定ばかりする。嫌いだ。
本告さんは冷徹に後を続ける。
「どの時点に何度遡ったって、[災禍]は必ずあなたの前に現れる」
「なんで」
「遡るあなたの意識に[災禍]の起動トリガーとなっている『遡り』の術式が刻まれているからよ」
だからそれが理解できない。
したくない。
「いついかなる時に遡行しようとも、意識に刻まれた『遡り』は付いてまわるわ」
「…………」
「『遡り』の術式自体を、活性化前の閉じた状態に『復旧』してから遡れば大丈夫なのだろうけれど――羽化する前に戻した青虫が、空を飛べる道理もないわよね」
そもそも、遡る燃料になる魔力も今のあなたには渡してないしね、と続けて。
彼女は言葉を切った。
――どこへ逃げようとしたって、人は、自分自身からは逃れられない。
『高一の世界』の本告さん……本告願の言葉を、僕は今、完全に理解した。
この女は、僕がこうなるのを、わかっていた。
そして、僕の『遡り』を――意識の術式を活性化させたのも、この女。
[災禍]が七夕の夜に来ると正確に予想できたのは、つまり――
「――――あんた」
僕は本告願の胸ぐらを掴んで、仕事机から目の前に立ち上がらせていた。
「あんたは――何が目的なんだ」
「答える義務はないわ」
「あるだろぉッッッ!!!」
殴りかかった右の拳は、頬の手前で受け止められた。その本告さんの手のひらに『復旧』。強制的に元のだらんと垂れ下がった状態・位置へと『戻す』。こめかみが軋む。視界が弾ける。遮るものがなくなった。ので、そのまま固く握った拳を彼女の頬に叩きつけた。
本告願はいい音を立てて横向きにぶっ倒れた。
本棚に頭を衝突させた。
文庫本がバサバサ音を立てて彼女の体に降ってくる。
「答えろ――僕の『遡り』を活性化させて――[災禍]を呼び寄せて!! 何がしたいんだよ、ええッ!?」
切れた口元の血を手で拭いながら、本告願は小さく吐き捨てた。
「……それをしたのは……私じゃないわ」
「……あ?」
「『あなたの世界』の……本告願よ。私は……知らない」
言葉の意味を噛み砕いた瞬間、カっと頭が燃えたのがわかった。まだ上る血が体内に残っていたことに驚く。感情が煮えたぎる。固めた拳が破裂しそうになる。
倒れた彼女の上半身に馬乗りになって、再度顔面に拳を叩きこもうとした瞬間、
「――――ぐぅっ!!」
腹部にえぐられる痛みを感じた。
よく知る衝撃。今度は僕が吹っ飛ばされた。司書室のドアに背中から叩きつけられ、肺から空気が強制的に吐き出される。
青く光る手を床について、立ち上がった本告願は僕を見下ろして冷然と告げた。
「どんな人間相手でもね。人は、誰かを殴る権利なんてないのよ」
「……[災禍]って、なんだよ……」
湧いた感情がそのままこぼれた。
[災禍]とは、なんだ。
「このままいけば、来週[災禍]に私たちは殺される。あなたの身勝手な『遡り』は、咲麻倖果の命を一年間縮めるだけだった」
「……黙れ」
引き起こした張本人が、僕を断罪できるのか。
「帰りなさい。私はあの子たちに、このことを連絡しなければならないの。あなたのようなエゴイストに、もう用はない」
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