6-5.今夜の献立
本告さんとチバ先輩を司書室に残して。
僕は倖果と二人、無人の廊下に出てきていた。倖果はこれから何を言われるか、これから自分に何が訪れるか、すべて理解しているようだった。
「スミオは、元の世界に戻りたいの?」
何も説明していないのにぼそっと倖果が声をこぼした。相変わらずの勘の良さに感心する。
「倖果が勧めてくれたんじゃないか」
「あれは、私がもう死んじゃうと思ったからだよ。今は違うよ」
床に視線を落とした倖果がぽつぽつと言葉を紡いでいく。
倖果は僕と一緒にいたいと言う。それが僕には本当に嬉しくて、その分余計につらかった。
あの[災禍]から五日間、二人でどこかに出かけたりしなかったのは正解だった。
これ以上倖果と幸せになってしまったら、もう絶対にこの世界から離れられなくなりそうだったから、あえて二人で何かするのは避けたのだ。
「……それにさ、スミオ」
キッと顔を上げて、けれど困りきった顔つきの倖果がまくし立てる。
「戻ったら[災禍]がいるんでしょ? 死んじゃうかもしれないよ? 死ぬのは失礼だってこの前言ったよね?」
「いや、逆だ。あっちの僕は今『遡り』で意識を失っちゃっているんだよ。今の状態こそ失礼なんだ」
このままあそこで死んでいるのは、きっと倖果の言うように、みんなに失礼なことだから。
「僕は、生き返らなきゃいけないんだ」
彼女とは、離れなければならない。
「私はスミオと別れたくないよ」
「僕だって死ぬほど嫌だよ。でも僕が消えても、元々いた僕は残るから」
「スミオ――あなたと、この世界のスミオは違う人だよ、やっぱり」
「中三の僕に失礼だな」
「勿論どっちも好きだけど、だから失うのは嫌なんだよ。それに、私を助けてくれたのはあなたなんだから」
「……そりゃそうかもしれないけどさ、ここの僕が可哀想だよ。その理屈」
「命の話じゃないよ。わかんなくていい。これまでスミオと接していた私は嘘っぱちだったんだよ、それをあなたが――」
「倖果は倖果だろ」
嘘っぱち、という単語がいやにムカついたので割りこんだ。
「ウソもホントもあるもんか。仮に今までのが猫っ被りだったとしても、どっちも倖果だし、どっちも好きなんだから」
強く、はっきりと言い切ってやった。
倖果は、はっとした顔つきになっていた。
何かを思い出したような表情だった。
「……え、あれ?」
丸くて大きな両の瞳から、突如一筋の涙が流れ落ちる。
共に暮らし始めてから二度目に見る、幼なじみの泣く姿だった。
水筋はみるみる増えていった。僕が驚きを禁じ得ない以上に、倖果自身、自分が今泣いている事実に驚き、戸惑っているようだった。
どうしたものかと困っていると、
「……ごめん」
彼女は小さく謝って、制服の袖で目をこすり始めた。それでも止まらなかったらしく、何度かこすってみた後は何十秒か袖に目を押し当て、肩を震わせ、鼻をぐずぐずすすりながら、ゆっくり深呼吸を繰り返していた。
やがて腕を戻し、顔を上げた。
倖果は、もう泣いてはいなかった。
「スミオはわからずやだねー。アホだよやっぱ。アホ」
どころか、赤くした目を細めて、ふふんと僕を小馬鹿にするように笑った。
「……なんだとう!」
挑発には断固受けて立つ。ぐいと耳の三つ編みを引っ張った。
「ほぁあー!!」
武道家出身のアクションスターじみた怪鳥音を喉から上げつつ倖果はレバーブローを放った。内臓に嫌な衝撃が入り、呼吸が止まって膝が折れる。
「なんで引っ張るのさー、もー!!」
顔を真っ赤にした倖果が涙目で僕を叩き、わめく。
「その楽器でしか表現できないことがあるから」
なおもぽかぽか殴ってくる倖果をいなしながら、やっぱり三つ編みを引っ張るのは止めておけば良かったとも、やって良かったとも思っていた。
思い出が人を幸せにするかなんて、子どもの僕にはまだわからない。
それとも、夢のようなものだったと切り捨てるか。
手のひらに残る感触の意味をいつか幸せに感じられたなら、僕はその先も歩いていける。そんな、遠い日の未来を思った。
僕たちは唇を重ねてから司書室に戻った。
僕は六人掛けテーブルの真ん中の椅子に座っていた。本告さんは仕事机に座り、倖果はテーブルを挟んだ僕の対面で立ちつくしている。開いた両眼は充血しており、面持ちは淡い憂いをおびている。
僕の背後にはチバ先輩が立っている。その手がゆっくりと背中に触れた。
三度目の感覚。熱と侵食。
彼女が根を張り、僕も根を伸ばし、絡みあい、溶けあう。
「先輩」
後ろを向かずに声をかける。
「うん?」
「ごめんなさい」
「うん。いいよ。仕方ない」
僕の『遡り』は、神奈坂から一年の月日を奪った。
学校に行けていなかったという、本告さんの言葉を思い出す。
本来なら来年の春、高校一年生になる頃にでも、彼女は学園に入学していたのだろう。それなら[災禍]が現れるまでのひとときでも、彼女もみんなと学校に通えた。僕はそれを知っている。
その、あったはずの幸福な日々を、遡ってきた僕が奪った。
「『接続』――準備できたよ、スミー。つーか、ガンバレよマジで」
「はい」
僕の『遡り』は、チバ先輩から幼なじみを奪った。
先輩と神奈坂がともに過ごせる時間を、確実に一年間縮めた。
彼女は僕の親しい先輩とは間違いなく違う人間だけど、どうしようもなく同じ人物だ。恩を仇で返したも同然だった。
チバ先輩には『高一の世界』でたくさんのものをもらっていた。
チケット。ラーメン。慰め。許し。
僕は先輩に作った借りを、まだ何一つ返していない。
「倖果」
僕は正面の倖果に話しかけた。
「何?」
答える声は平静としている。
「さよなら」
「……うん。さようなら」
その声を、表情を、瞳の光彩を、あらゆる形を心に刻みつけて。
少し強く、目を閉じた。
「『超越』――『遡り』」
僕はあの人たちを助けなければならない。
何もできないかもしれないけど、何かしなければならない。
基術式はこころのかたち、その人の在り方だという。
きっとその通りなのだろうけれど、僕は反逆したいと思う。
たとえ自分が何者であろうとも。このこころに何が刻まれていようとも。
自分を決めるのは自分だ。
過去でも
**
世界はフィルムになっていた。
四方は暗闇。この一週間の生活をびっしり写した長いフィルムが、絨毯みたいに先まで伸びている。闇に浮かぶフィルムの直線道を、僕の意識がひた走っていく。
明滅し流転する意識の最中で、そのシーンが切り取られる。
そこがフィルムの終わりであった。
僕は神社の裏手に座って、夜空に咲く大輪の花火を見ていた。
隣には倖果が座っていた。
冷たい石段についた僕の手の甲に、彼女の指先が触れていた。
ぬくもりと震えが感情を伝えてくる。
手を絡めたかった。
心を溶かしあいたかった。
彼女のことをもっと知りたかった。
「――――」
僕はそっと手を退けた。
湧き出た願いを、ぎゅっと拳を握って殺した。
これが、ここにいる僕の通ってきた世界だ。
途端、フィルムが別のものに切り替わった。
今度は早回し。長い長い、一年間分のフィルム。
その終着まで、駆け抜ける。
**
先行して意識が芽吹いた。
またしても脳がぶっちぎれている。
X軸とY軸とZ軸の三方向からデタラメにねじ切ったような、思考そのものを破壊する痛み。視界はグニャグニャとした虹色であきらかに現実が見えていない。
物音だけは耳に届いていた。ガタン、と椅子を動かすような音。
「住生!」
僕の十年ちょいの人生で、倖果と同じくらい耳に親しんだ声。
でもその呼び方で僕を呼ぶのは、今まで倖果だけのはずだった。
カメラがようやく正常に戻る。
見慣れた天井が見える。自室だ。僕はベッドに寝ているらしい。音のした右方向に視線を流す。
目に映ったのは綺麗な黒髪の、ショートカットの女性であった。
パッと見はあまり似てないのだけど、目元に少し倖果の面影があるのだ。
華乃さんは。
「住生――!!」
ゆっくり上体を起こした僕を、華乃さんは真横から抱きしめた。回された腕の力が痛い。首元に置かれた華乃さんの頭から、えずくような嗚咽が聞こえてくる。小柄な肩が痙攣していた。
胸に伝わるそのぬくもりは、なくしてしまったものに似ていた。
けれど違う。
しかし、確かな体温だった。
「……おはよう、華乃さん」
どうやら僕は本当に視野が狭かったらしい。倖果しか見えていなかった。その次に身近な人のことさえ目に映っていなかった。
この世界から僕が消えたら、この人は、ひとりぼっちになってしまっていたのだ。
「ところで、今っていつ?」
訊きながら、痛む頭を壁掛け時計に向ける。時計盤の中央にデジタルで日付けも表示されているのがナイスだ。七月九日午前一時十五分。
遡ってから約八時間が経過していた。とても長い、夢のような現実だった。
「……行くの?」
華乃さんが悲痛な表情で問う。
「行くよ」
決然と答えると、華乃さんはふっと顔を伏せた。止めたいのかもしれないが、今の僕としてはそうはいかない。
それが徒労に終わるとしても。
僕は置き去りにしたすべてに責任を取らなければならない。
ベッドから立ち上がる。まだ上下とも制服を着ていた。机の上に拳銃とホルスター、黒い手榴弾が置かれていたので、それらをささっと装備する。
軽く制服の埃を払って、僕は目の前の華乃さんに挨拶した。
「行ってきます。今晩は、とんかつが良いな」
華乃さんが再び面を上げたので、なるべく明るい笑顔を作った。
「……ええ。行ってらっしゃい」
涙声で華乃さんはかすかに笑った。
僕はこの家にも責任を取らねばならないのだ。だから死んでなどいられない。
後ろ手で自室のドアを閉めて、早足で木の階段を下りる。
履き慣れたスニーカーに足を入れて、夜闇の中へと飛び出した。
重苦しい夏の空気を切るようにしてひた走る。暑い。じめじめする。虫がジージーやかましい。けれども息苦しさはなかった。
しばらく走って住宅地を抜け、電車の線路沿いの歩道に差し掛かったところで、時間が気になりポケットの携帯を取り出した。
不在着信と未読メールがそれぞれ一件ずつ入っていた。
いずれも遠近沙代と表示されている。
『大丈夫ですか?』
メールを開くと、ただそれだけがぽんと表示された。シンプルきわまりない文面から、言葉を選び出すまでの遠近の長い思慮が伝わってくるみたいだった。彼女はいつでもそういう奴だ。なんだか胸がいっぱいになってしまった。
『大丈夫。ありがとう』
送信。
深夜なのに十五秒くらいで返信が返ってきた。
『何かあったら言ってくださいね』
苦笑して僕は携帯を閉じ、制服のポケットへと戻した。
踏み出す足に力をこめる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます