6-4.克己
朝日が昇ってから帰宅した。
ぼろぼろになった僕と倖果を華乃さんは玄関から飛び出して出迎えた。まずは倖果を、次には僕を、痛いくらいの強さで抱きしめた。僕を抱く華乃さんの背中に倖果が抱きついて、何か、ごめんと謝りながら、顔をぐしゃぐしゃに崩して泣いていた。
華乃さんは一旦抱いた腕をほどいてから、まとめて両腕で僕らを包んだ。暑苦しい彼女の腕の中に二人の感情が渦巻いていて、うっかり僕も泣いてしまった。
翌日の夜、神奈坂の葬式が執り行われた。
天涯孤独の神奈坂の喪主は、チバ先輩が代理として務めた。
参列者は僕たち魔術部の四人を除いても十人以上はおり、中にはあのメイドさんの姿もあった。何人かは小さく嗚咽を漏らし、また何人かは静かに涙を拭いていた。
読経、焼香、通夜ぶるまい。
日が変わって読経、焼香、棺への花入れ。
親族でもなければ親しくもない僕は、出棺後のお骨あげには参加しなかった。
通夜から葬儀が終わるまで僕は、参列者はおろか葬儀社の職員からも責められているような錯覚を起こしていた。彼女を直接死に至らしめたのは『超越』の術式の反動だが、それを強いたのは[災禍]であり、[災禍]を呼び寄せたのは僕だった。
悲しみは、茫漠としていた。
彼女は僕と親しかった神奈坂坏子ではなく、出会って一週間も経っていない少女だったから。
けれど、間違いなく同一の人物でもある。
得体の知れないもやもやは、僕の心から湧き出している。
そして、あの[災禍]から五日後。
僕は本告さんの待つ司書室へと来ていた。
「夏休みも出勤とかわけがわからないわよねえ。蔵書整理ですって。ほっときなさいっつーのよこんな寂れた図書室」
「人で賑わうように蔵書を揃えるのが司書の仕事でしょう……」
職務怠慢もいいところな本告さんの発言に嘆息する。
埃っぽい空気はクーラーでキンキンに冷やされているが、窓から射す午後の日射しは強い。窓越しでもミンミンゼミはやかましい。八月の世界だった。
六人掛けテーブルの角席に座る。本告さんが紅茶を淹れたカップを出してくれたので、一言礼を伝え口をつけた。熟成した巨峰のような芳醇な香りが鼻腔、口腔から染み渡る。
絞り出すようにゆっくり息をつくと、ひどく落ち着いた心持ちになっていた。
本告さんは仕事机に座って、手に紅茶のカップを持ったまま、
「で。お話っていうのは、何かしら?」
デスクチェアをくるりと回して、彼女はこちらを向いて尋ねた。静かな表情を浮かべていた。何か覚悟している様子だった。
けれど、その件はまだ関係ない。
「僕が『高一の世界』に戻りたいって言ったら――戻れますか?」
なるべく平静を取り繕って言った。
本告さんがその左手から、ぽろり、とカップを取り落とした。
盛大な音を立ててカップが割れ、破片と紅茶が床に飛び散る。
「うわ何やってるんですか! あーあ……本告さん、雑巾どこでしたっけ?」
「……どうして、そんなことを訊くの……?」
何故か愕然としている本告さん。
ポット横の水道の管にかけられた雑巾を手に取り、僕は答えた。
「予定は未定です。できるのかできないのか、教えてください」
**
「まず、燃料となる魔力は足りているわ。『この世界』に来たあなたに対して私が与えた、前回の[災禍]の魔力の一部で十分賄える。基術式は燃費が良いからね」
それはそうだろう。実際に一年前であるこの世界まで『遡り』で来られたのだから、同量程度の魔力をくれたなら同じ分の時間は移動できるはず。
「五秒ルールの突破――出力の増加に関しては、今は綾佳が『超越』を持っているから、彼女と『接続』して『超越』を使わせてもらえば大丈夫」
――チバ先輩は、あの時神奈坂の死体から『超越』を『吸収』したらしい。
『吸収』――物理的な音波、光波の他、魔力、そして術式さえも奪える、チバ先輩の基術式。本告さんの『恵与』の真逆だ。全容は[災禍]の後で初めて教えてもらった。
術式を奪えると聞いた時、思い出したのは自己洗脳の話。
そんなに簡単に新しい魔術を使えるようになるものなのか、と葬式の前に質問してみたら、
「あたしは『吸収』した術式はなんでもできると思ってるよん」
と返された。そこまで含めて彼女の基術式らしい。やってできないことはない、という魔術の適当な格言は、どうやら彼女にマッチしているらしい。
本告さんは淹れ直した紅茶を口に含み、湯気の立つカップを仕事机に置いた。
「燃料と出力は大丈夫。次に、手段となる術式――『遡り』の方だけど。あなたの『復旧』は、対象をあなた自身が知っている状態にしか戻せないのよね?」
首肯すると、本告さんは先を続ける。
「言い換えれば、知っている状態になら戻せるわけ。そしてその特性は『遡り』にも適用できる。根は同じ基術式だもの」
「どういうことですか?」
「あなたはこの過去の世界を知っているから戻って来られた。なら、すでに知っている未来にも跳べるはず。あなたは、既知の時間の軸上なら、どうとでも辿れるはずなのよ」
「知っている未来――」
僕が元いた『高一の世界』のことだ。
「まず、この時間軸に枝分かれする分岐点――つまり、あなたが遡ってきた一週間前の時点に戻る。そこから、本来のあなたが過ごした既知の一年間――中学三年の夏から高校一年の夏までを、記憶に沿って跳んでいけばいい」。
宙に指で縦長のチェックマークを描きながら本告さんは説明する。
「でも、跳ぶ方向が違いますよね? 過去へ跳ぶのは文字通り『遡り』ですけど、未来に跳ぶのは――」
「“それができると信じてみれば、やってできないことはない”」
目を伏せながら告げる本告さんの言葉は、さっき思い出したばかりのものだ。
「魔術とは確信だと説いた、昔の人の格言よ。まあ、真面目に考えれば、あなたの思考や精神に未来への指向性が必要になると思うけど……」
本告さんは顔を上げて、僕の目を覗きこんだ。
「もう備わっているみたいね」
そしてどうしてか、悲しそうに微笑んだ。
椅子に掛け直して、本告さんは再びカップに手を伸ばしたが、口に運ぶ前に机へと戻した。僕は落ち着かず、自分の紅茶を口に含んだ。
沈黙を、セミの鳴き声が包みこむ。
僕はもう一つ訊かなければならないことがあった。こちらの方が重要だった。
「僕が消えたら、ここの――『中三の世界』の僕はどうなりますか」
問うと、本告さんは淡々と答えた。
「あなたは今、この時間軸の――中学三年生の閑馬住生の肉体を、いわば乗っ取った状態にある。三年生の閑馬住生の意識は、頭の奥底に追いやられているわ」
そうだと思った。『遡り』をしてきた時、暗い水底に沈んでいった声は、この『中三の世界』の閑馬住生の意識だったのだ。
「あなたの意識が消えれば、その体には再び、沈んでいた中学三年生の閑馬住生の意識が表出する」
「つまり『中三の世界』の僕……違うか、彼は、この体にまた蘇るんですね」
「ええ」
それを聞いて安心した。
僕が消えても、ちゃんとこの時間軸の閑馬住生は生きていくのだ。
そして、なおのこと戻らなければならないとも思った。
僕は、この時間軸の僕――彼に、倖果を、世界を返すべきだと感じていた。
「良かった」
思考と感情がぶつかりあっている。
僕の頭は、どうしてこんなにもつらいことをしようと考えているのだろう?
僕は倖果を助けたかった。倖果のいる世界で幸せに暮らすためにわざわざ過去へと遡ってきた。
そしてそんなお願いは現在、完璧に叶っているはずなのに。
「……閑馬君。一つだけ訊かせて」
「どうぞ」
色んな人の声と姿が、脳裏をぐるぐる廻るのだ。
「何故、戻ろうとしているの?」
心底理解できない、といった感じの表情を浮かべて、本告さんが僕に問う。
駄々をこねる子どものような、湿り気をおびた声だった。
「あなたは咲麻倖果と死に別れて。今度は、生き別れようというの?」
本告さんが、根幹をえぐる。
その言葉に、未だかつてないほどの反感を覚えた。
覚えた理由は明白だった。
嫌でもやらねばならないことだからだ。
「僕がここにいるのは『高一の世界』にも『中三の世界』にも、失礼なことだからです」
ああ言えばこう言う僕の、それが答えだった。
閑馬住生の意識そのものに罰が刻まれているのなら。
この身が超克すべき仇敵は、己が願いに他ならない。
本告さんは、目を見開いていた。
「倖果とチバ先輩を呼びます。いいですよね?」
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