6-3.2014年7月28日・2
問題は、神奈坂だった。
「『身体強化』の出力が足りない、か。……参ったわね」
渡り廊下からB棟へ移り、フロア二階に下りたところで本告さんは立ち止まった。深く大きなため息をついて戦術の破綻を嘆いている。当の神奈坂は僕の肩から降り、今はチバ先輩に肩を借りていた。青い顔には尋常でない量の汗が浮き上がっている。呼吸もひゅーひゅーとかすれ、細く、早い。
神奈坂はあきらかに失調していた。
攻撃の要は彼女の『身体強化』。
『超越』により引き上げた膂力。
金砕棒での直接殴打。
つい先刻までその予定だった。
だが、刺さった外殻弾の上から打っても外殻を壊せないのでは、金棒による打撃での破砕など到底期待できそうにない。別の手段を講じねばならない。
「私が『超越』と『識撃』で、さっき外殻に刺さった外殻弾を押しこみます。外殻を貫いて中身の肉まで弾を突き入れられれば、確実にダメージを与えられるはず」
決然と倖果が申し出る。
彼女の顔もまた蒼白で、異様なまでに汗で濡れていた。
「それしかないか……」
本告さんが受諾する。
その作戦は倖果にさらなる『超越』の反動を強いるものだ。しかし僕には対案がなかった。みんなとともに頷くしかない。
階段の前の廊下で待機していると、反対側の階段から[災禍]が姿を現した。
「……あれ?」
倖果が、事情を飲みこめないといったふうの声を出した。
僕も、本告さんも、チバ先輩も、みんなで揃ってきょとんとした。
つい先刻[災禍]の外殻に突き刺さっていた外殻弾が、きれいさっぱりなくなっていたのだ。刺さっていたはずの箇所を凝視しても傷跡一つ残っていない。まるで雪うさぎや雪玉が溶けて元の雪原に消えたかのように。
[災禍]は廊下奥から動かない。
その停止に僕は見覚えがあった。
「突進してきます! 全員下がって!!」
即座に全員が階段へと飛びこんだ。
僕はポケットから手榴弾を取り出し、安全ピンを引き抜いた。現在位置を意識。一瞬でイメージを焼きつけてから僕も階段へと走りこむ。
それと同時に[災禍]があたかも砲弾のように、はるか先の廊下から突っこんできた。[災禍]の体が靴の先にかすって、足首から先を吹き飛ばした。唇を結び『復旧』。完治。問題ない。すぐさま背後の[災禍]に振り向いた。
他のみんなはこちらに背を向けて階段を上っている最中。
今いきなり外殻弾をばらまかれたら本告さんの衝壁でもガードしきれるか。
だから、目くらましをする。視覚があるのかわからないけれど。
「『位置復旧』」
[災禍]の眼前に、この手の手榴弾の位置を戻すのだ。
すでにイメージはできている。
元の位置へと『戻す』――ちょうどその瞬間[災禍]がこちらに少し動いた。
「……あれ?」
すると、とても奇妙な現象が起きた。
レモン型の黒い手榴弾が、あの強固な[災禍]の外殻の表面に、頭を半分出した形で埋めこまれていた。砂浜に埋めたボールのように。
何秒かぽかんとしてしまい、その後凄まじい爆発が巻き起こる。
突然の光に瞳孔を焼かれた。手榴弾の破片が制服を破り腕と胴体に突き刺さる。『復旧』。完治。目も見える。背を向けて階段を上ろうとしたら外殻弾に撃たれて脇腹が破裂した。『復旧』。もう倒れもしない。
続く弾は衝壁により防がれた。
四階まで駆け上がってから廊下を突っ切って反対側の階段に移動。
「――っ、はあ」
そこで再び呼吸を整える。
全員で息を切らしている中、僕は先ほどの光景について考えていた。
『位置復旧』をかけた手榴弾の元の位置に、たまたま動き出した[災禍]の外殻が重なったのだ。けれど一度決めた戻す座標は変わらない。
そして、手榴弾は外殻に埋まった。
「『位置復旧』が、そこにある物体より優先された……?」
「……スミオ? 何を言ってるの?」
……そうか。
前の『高一の世界』で、神奈坂の腹に刺さった折れた棘が消滅したのと同じ理屈だ。
『復旧』する対象と空間においては、物理的な現実より僕の描くイメージが優先される。
現実をイメージで上書きしているのだから。
「これは――」
瞬間的に閃く。
一番近い空き教室に入り、アイデアを試すために必要なブツを探す。
「え、ちょっとスミオ?」
戸惑いながら教室に入ってくる倖果に、掃除ロッカーから取り出したそれを見せた。
「作戦がある。こいつを[災禍]に突き刺そう」
**
案の定、反対側の階段から[災禍]は現れた。
どうやら先の繰り返しみたいだ。廊下の最奥で[災禍]は静止している。
左にちらりと視線をやる。下り階段の踊り場には、本告さん、神奈坂、彼女に肩を貸すチバ先輩、先輩と手をつなぐ倖果が並んでいる。心配げな目で僕を見上げている。
僕はこちら側の階段前の廊下で、一人[災禍]と向かいあっている。
広げた両手に片手二本ずつ、計四本の長い箒を握って。
魔法使いの武器といえばやはり箒だろう。乗り物だった気もするが気にしない。長い長い直線の先の[災禍]の挙動を注視する。来ると同時か、それより早いタイミングで階段の角に入らねば、轢かれる。
大丈夫。もうこれを見るのも三度目だ。
……来る。
体は勝手に横っ跳び、廊下から階段の角の空間へ。
元いた立ち位置には[災禍]が到着し、無音の急ブレーキをかけていた。
思った通りだ。一定の距離が開いている際には突進をかましてくるらしい。存外単純な
「『位置復旧』――」
声を出してイメージを強固に。
四本の箒だけを元の座標へと『戻す』。
「――――っし!!」
階段の四人が息を飲むのが雰囲気だけでも伝わってきた。
四本のうち右手にあった二本が、一メートル近い柄の半分を深々と外殻に突き立てていた。側面部に水平に刺さった柄は確実に内部の肉まで届いている。
「倖果! 頼む!!」
[災禍]を目の前にして叫んだ。倖果は詠唱をもって答えた。
「『超越』――『識撃』!!」
水平に刺さった二本の箒に[災禍]の奥へ進む力が働く。柄は瞬時に[災禍]の肉の内部にずるっと勢い良く飲みこまれ、外殻に衝突した穂体は粉々に破砕し宙に散らばった。
肉を貫かれた[災禍]が、びくんと震えて停止する。
柄が入った位置の外殻には、直径分の小さな穴。
倖果が踊り場に倒れこむのが見えた。
本告さんは階段の途中に衝壁を展開している。
チバ先輩は神奈坂を支えている。
外殻には今、穴が空いている。
攻撃手は今、僕しかいない。
ホルスターから銃を引き抜いた。躊躇う暇などない。あの小さな穴に、ありったけの――いや、無限の銃弾を撃ちこむ――!
「ぅあああああああっ!!」
[災禍]との間合いは三メートル弱。
足元に絡みついてくる影を振り切るように踏み出した瞬間、左肩を鋭い突起で刺し貫かれた。
「――ッ!!」
構っていられない。『復旧』。同時に今度は右腿を撃たれた。一瞬カカシになって『復旧』。治した足で床を蹴りこむと前に突き出た心臓に杭が。『復旧』。左足に力をこめて
地獄の淵から這い寄る感じ。
彼我の距離はもうなかった。穴に銃口を突きつけて――
「あ」
――世界がスローモーションで映った。
顔の真っ正面の外殻から、細く鋭い棘が伸びてきていた。
ダメだ、死ぬ。これはぐさりといく。頭を狙った攻撃って今まであまりなかったから油断した。
「ぁ――――え?」
自分が死ぬのを理解した時、棘がなんでか遠のいた。
奥の[災禍]はもっと遠のいた。
「う――うぅぅうぅ」
遠く、獣じみた唸り声が聞こえる。
耳になじんだ彼女の声だ。色は焦熱と痛苦を帯びている。
倖果の『識撃』――この凄まじい威力は確実に『超越』も併用している――が、階段と反対側の壁に再び[災禍]を吹き飛ばしていた。
[災禍]は轟音を立てて壁に衝突し、めりこみ、旧校舎全体を揺らした。廊下に並んだガラス窓が一斉にヒビを立てて割れ落ちる。
それでもなお僕に伸びてきた棘は、微妙に先端の位置をずらして目元をかすめ、頬を血で濡らした。
「閑馬君! 戻りなさい!」
張り上げられた本告さんの声。
振り返り、無我夢中で階段を駆け下りた。
再び二階に下りて反対側の階段まで走り、一息ついた時。
チバ先輩に肩を借りている神奈坂と同様、本告さんから肩を借りた倖果が、血の気の引いた顔を僕へと上げた。
表情は、怒り。
「何……やってるんだよ!」
怒鳴る倖果の目は血走っていて、呼吸のリズムもデタラメで小刻み。顔中に汗が流れ滴っている。過去見たことのない表情だった。
僕は最初、何を責められているのかわからなかった。
だが、すぐにさっきの突貫のことだと思い当たる。
「閑馬君の判断は適切よ。次まみえた時にはまた外殻が修復されているかもわからない。あそこで攻撃にいった彼を責めるのは――」
「先生は黙っててくださいっっ!!!」
激高する倖果。僕も、本告さんさえも戸惑う。
「待ってくれ、それは本告さんの言うとおりだろ。それに僕は即死でなければ死なないんだ。僕が突撃するのが一番――」
「さっき死んじゃいそうだったじゃんか!!」
「だって、僕は死んでもそんなに」
みんな悲しまない――
「失礼だと、思わないの?」
続く言葉は遮られた。目から心を読まれた気がした。
睨みつける倖果のその口から、失礼という、不思議な単語がこぼれる。
「私はっ――」
倖果はぐっと、何かをこらえるように下唇を噛みしめた。
そして鮮血を床へ吐き出した。吐き出すとともに言い放った。
「私はスミオが好きだよ!」
「…………え?」
僕は、本当にびっくりしてしまった。
「絶対に、死んでほしくなんかないんだよ! ずっと、一緒にいたかったんだよ!! 今だってそうだよ!!! いたいんだよ!!!」
顔を伏せた倖果の、強く瞑った目尻が光っている。
それはあまりにも新鮮な表情だった。
そこで僕は初めて気付いた。
僕という人間は八年間、倖果の泣き顔を一度も見たことがなかったのだ。
「……失礼……」
倖果の言葉を反芻する。
――前の『高一の世界』で、倖果は僕を守って死んだ。
僕は彼女と比べてあまりにも無価値だった。だから価値のある彼女を、この世界では守り抜きたいと思った。この命をなげうってでも。
倖果を差し置いて、僕などが生きていていいわけがないから。
「なのになんだよ! なんでそんな、ふざけた、わけわかんない戦い方するのさ!!?」
でも、そんな価値のある彼女が、今なお守ろうとしているのが閑馬住生で。
彼女の守りたいものの中には、嬉しいことに僕なんかも含まれていたみたいで。
その僕が積極的に命を捨てようとするのは、どんな理由があるにせよ、なるほど、とてつもない失礼のような――?
「倖果だって、おんなじじゃないか」
――けれど、その論理は彼女にも当てはまるのだ。
『超越』を併用して、反動に心身を軋ませながら戦う彼女にも。
自己犠牲そのものが間違いだというのなら、僕らはもう戦えない。
「私は、……私は、もう――」
わかんないんだよ、と。
かすれた声で小さくこぼして、倖果はボロボロ涙を流しはじめた。
急にしんと静まった夜の校舎に、子どもみたいに泣きじゃくる倖果の声だけが響いていた。
状況は予断を許さない。
時間は人を待ってくれない。
二本の箒の柄を肉に突き刺された[災禍]は、今なお弱った気配すら見せていなかった。箒の柄をあと何本か何十本か打ちこむ必要がある。
ただし、この方法だとたぶん倖果がもたない。
だから、本告さんの衝壁に守られながらでも僕が近接して、柄が開いた穴に銃弾をねじこむしかないだろう。けどその場合、恐らく僕は先ほどのように途中でミスって死ぬ。
[災禍]が来る前にどうするか決めなければならない――当然後者を選び、倖果を説き伏せようと口を開きかけた時、
「オマエらは、死んじゃダメだ」
チバ先輩の横から苦しそうな、しかしはっきりとした声が聞こえた。
神奈坂が面を上げていた。
チバ先輩の首に回した腕をほどいて、自分の足だけで床に立った。
それに呼応するかのように、ここと反対側の階段の角から[災禍]がぬっと顔を覗かせる。
またも廊下の最奥に、鈍色の球体が現れた。
打ち出される前の巨大なパチンコ玉じみた様相。
神奈坂は、支えられながら移動している間もずっと握りしめていた金棒をぐっと両手で握り直して、階段の角から廊下に出た。
僕は神奈坂が何をしようとしているのか悟った。
「神奈――」
止めようと思った時には[災禍]の丸い体はこちらへと。
神奈坂は[災禍]へと撃ち放たれ――廊下の中心で、激突した。
**
その地点から、雷鳴じみた爆音。
耳を
「神、奈坂――」
[災禍]の状態を確認する前に、映った血肉が飛んでいった右方、廊下の突き当りへと踏み出す。
神奈坂の体が真っ赤な壁に叩きつけられていた。
潰れた蜘蛛めいたシルエット。体前面はどす黒いジャージと赤黒い肉で何がなんだかわからない。
思考を介さず駆け寄った。表面の挽き肉に触れる。
「『復旧』」
神奈坂は元通りの、ガラスの彫刻のような美しい姿に戻った。目は閉じたまま。呼吸がない。生気がなくて死体みたいだった。
膝裏と背中に腕を回して抱え上げ、階段前に戻ろうと踵を返した。
正面の廊下の[災禍]が目に入った。
廊下の中心地点で止まった[災禍]の、分厚い外殻の前部が崩れ落ちている。マンホールほどの大きさの四角い穴が外殻に開いていた。脈打つ肉の赤い繊維が剥き出しになっていた。
相手の推進力も利用した、彼女の決死の一撃の戦果。
「チバ先輩、お願いします。本告さんは援護を」
階段前の先輩に神奈坂を引き渡し、僕は教室三つ分離れた[災禍]へと駆け出した。銃を抜く。今ならば殺せる。殺す。殺してやる――
「え――あれ?」
すると、服の後ろ襟をぐいっと引っ張られたような感覚。
僕の体に『識撃』?
おや、と思ったその瞬間には、体は勝手に後方へと飛び退いていて。
すれ違いで、目の前を倖果と本告さんが通り過ぎて行った。
「……は? 倖果、戻れッ!」
床に叫んだ瞬間、二人の先で衝壁が弾けた。跳弾が壁に跳ね、破片が僕の額をかすめる。すでに[災禍]は行動を再開し、外殻弾を放ち始めていた。
「『識撃』なら近づかなくてもできるだろ!!」
先刻、外殻弾を外殻に突き刺した時はそうしたはずだ。
「スミオは下がってて! 弾に触れて『識撃』しないと威力が足りな――つあっ――!!」
倖果と本告さんの胴体を、丸い外殻から伸びた無数の棘が貫いた。衝壁も貫通されている。ばっと血が宙に飛び散った。ふたりが背中から針山を生やした。そんな光景にぞっとする。
まずい――立ち上がって地を蹴ったと同時に、外殻弾が胸に直撃した。
『復旧』。だが運動エネルギーは殺せていない。神奈坂が磔にされた廊下の突き当りに、無傷の体で吹き飛ばされた。
『位置復旧』。対象は自身。弾を食らった場所まで『戻る』。再び駆け寄ろうとした瞬間、また外殻弾。
『復旧』。運動エネルギー。完治した体が飛ばされる。
先のシーンの繰り返し再生。
まずい。彼女たちが傷ついてから、もう五秒が過ぎる。
『超越』と『復旧』の併用なら五秒以上過ぎた傷でも元に戻せるが、死体を生き返らせるのが可能かなんて試してないからわからない。
棘に束縛された状態のまま、白衣を血の色に染めた本告さんが手のひらから衝弾を撃つ。すぐさま[災禍]の周囲に光の膜。弾かれた。まだ対射結界の外側なのだ。
今一度立ち、踏み出そうとした瞬間、誰かに肩を掴まれた。
「引っこめ!」
チバ先輩だった。力ずくで僕を階段の角に引きずりこむ。
先輩の背後には、神奈坂が倒れている。
「あんたは回復役だろ! ちったあ願さんや倖果を信じろ!!」
「信じるって――ふざけるな!! 死ぬんだぞ!!」
あの二人を無傷に戻せる五秒はとうに過ぎた。
それでも体は勝手に、怒鳴る先輩を振り切っていた。
再び廊下に出て、二人と[災禍]に目をやる。
二人は[災禍]にさらに接近していた。
外殻から伸びた棘はすべて折られている。ただしその先端部は変わらず二人の体を貫いたままだ。棘が針に姿を変えただけ。
おびただしい量の血液が二人の足下に広がっている。
そして倖果の血だまりの上には、鉄屑の山ができていた。
「『識――――――』」
廊下中に刺さった外殻弾が、まるで死骸に群がる巨大な蟻のように、彼女の下に引き寄せられ、集まっていく。
二十をゆうに越える弾数――[災禍]の体積に匹敵する量のそれらに、倖果は屈んで両手で触れて、
「『――――――撃』」
塊じみた血を吐きながら、流星群のように撃ち放った。
**
口に無理やり大量の物を詰めこまれたみたいだ。
先ほどまで赤い肉を見せていた[災禍]外殻の穴に、ラグビーボールのような楕円形状の鉄屑がぎっしりと突き刺さっていた。表面に出ているのは内部に入りきらなかった分。
倖果の放った数多の外殻弾。
そのほとんどを中身の肉に叩きこまれた[災禍]が、常に三十センチ程度浮いていた[災禍]が、ふいに脱力したように床へ落ちた。
ズシン、と腹に響く音。校舎の揺れ。
[災禍]は、まるで死んだみたいだった。停止している。動き出す気配もない。
「…………」
何秒か経ち、その鈍色の禍々しい球体は、現れた時と同様に忽然と消滅した。まるでまばたきの間にいなくなったかのようだった。
二人に刺さっていた外殻の針も、今や影も形もなかった。
代わりにそこからどっと赤い血がボロボロのジャージと白衣に染みだして、二人の全身をより赤黒く浸食し塗り潰していく。
倖果、本告さんの順番で床に倒れた。
勝利の余韻など感じている暇はなかった。
「倖果――!」
とっさに走り寄っていた。
倒れた姿はあまりにどす黒くて、赤くて、生温かい鉄のにおいが立ちこめていて。
血だまりは広がっていくばかりで。辺りに死の気配が充満していて。
僕は半ば条件反射で彼女に触れ『復旧』をかけていた。
戻る姿は赤黒い状態。傷はひとつも塞がらない。
もう取り返しはつかなかった。
「そうだ、神奈坂は――」
彼女とチバ先輩がいれば『超越』と接続できる。
二人を五秒以上前の状態に戻せる。回復できる。
後ろを振り返ると、一人歩いてきたチバ先輩がぽつりと告げた。
「死んだ」
「……は?」
「『超越』と『身体強化』の反動で、死んだ」
意味がわからなかった。
死んだ。死。反動による死。
魔術の反動は『戻』せない。それは、えっと、つまり。
「……あはは。そっか。ダメ、かあ」
か細い声に再び振り向く。
薄く開いた目で僕の目を見つめる、倖果の表情があった。
頬も額も口元もべっとりと血にまみれていて、一瞬目を背けたくなった。けれど彼女の薄い笑顔からは決して逃げてはならないと思った。
「私は、自分の気持ちも、わからなかった」
倖果はあえぐように一言一言を重ねていく。
手を取ろうとした。できなかった。彼女に触れることもできなかった。触れた瞬間に死んでしまう気がしていた。ただ、倖果、倖果と、震えの止まらない口を動かして小さく何度も繰り返していた。
真っ白だった。
そんな僕を細い目で見ながら、倖果は仕方ないなあ、というふうに、いつものようにたおやかに微笑んでいる。
「スミオはね、……元の、世界に。戻る、べきだと。……思う」
「……え?」
そして倖果が、また塊みたいな血を吐いた。咳きこむ。どばっと広がった鮮血が、床についた彼女の頬と栗色の髪をますます濡らした。
「倖果!」
叫んだ僕の背中に、誰かの手のひらが置かれた。
チバ先輩の温度だった。振り向かなくてもわかった。
途端、目から熱いのか冷たいのかわからない水が流れ出した。視界がぼやけるのを袖で拭う。ますます出る。これじゃあ、倖果の顔を見られない。
「大丈夫。……あたしが、増幅器になったから」
先輩の、よくわからない声が聞こえた。
直後、背にふれている手のひらが急激に熱をおびる。
そこから、何か異物が刺しこまれた。
僕の全身に瞬く間に広がるのは、植物の根。
「…………?」
この感覚には覚えがあった。『接続』だ。
でも、なんで今さら――現実と魔術に朦朧とする頭で考えた時、僕はそれに気付いた。
あの根っこが広がっている。
太く雄々しく力強い、青白く光る、死んだはずの彼女の根っこが。
「……え?」
『超越』が、チバ先輩の手のひらから伸ばされている。
「スミー、二人に『復旧』を」
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