2.リバース
彼は何らかの複雑な事情で、基術式を完全には活性化されていなかった。
その事情とやらが関係しているのか、基草は魔術に関して親や家から放任されているようだった。
「見放された者同士グレようぜー。魔術の修行とかやめちゃえよー」
「結構です。だいたい、基草さんは元から素行良くないでしょう」
ため息をつく私は、機構と親に失望されてからも魔術の修行は続けていた。
どうしてこんなに苦しい思いをして、他人のために頑張るのだろう? 思わない夜がないわけではない。だが、他人のために生きようとするのが間違いであるはずもないのだ。それは何より尊い生き様だろう。
かつて焦がれた格好良い生き方を、私は未だに諦めきれない。
「人のこと言えねーだろ。もう遅い遅い、ちゃんとグレてる。うはは」
からから笑う基草に対して私は何も言い返せない。彼の頭上でコアラ耳が揺れる。
私たちは遊園地の行列に並んでいた。
頭にはコアラ耳のカチューシャ。無論、格好良くはない。
彼に無理やり付き合わされて、学校をサボってしまったのだ。休学した分品行方正であろうとする健全な努力を彼は猫っ被りだと笑う。生の私を剥き出していく。
「……もう。今回だけなんですからね」
飾らない自分なんて、本当のところはよくわからないけれど。
基草といると感情が先走っていく。
デートが終わって別れ際、今度は休日に遊びに行こうと注意する――私から誘う――と、彼は大喜びだった。後にメールで聞いたところでは、その日のうちにバイトのシフトを変更したらしい。
私はひとりの魔術師から、ひとりの人間になりつつあった。
学校で友達と話して、笑って。
休日は基草と出かけて、笑って。
魔術の痛みは体を苛んでいたけれど、自由で、幸せな毎日だった。
でも、どうして幸せは嘘っぽいのだろう?
日々は、幸せすぎて怖かった。
それは、今この瞬間に幸せが失われる光景をどうしても想像してしまうから。
状態は常に留まらず流れ、すべては変わらずにはいられない。この重苦しい世界の底には冷たいルールの網が敷き詰められていて、その上でどんな愛情や憎悪を張り巡らせてみても、いずれはすべて絡み取られる。朽ち果て、滅び、潰えてしまう。
理解していながらも私は、それを奥底に押し沈めた、
ある日、水族館でのデート中に基草が教えてくれた。
活性化してもらえなかった分の基術式を、道具を使って昨夜、こっそり自分で活性化してしまったと。
五秒間のタイムトラベルなんてどう使えってんだよな、とだらだら愚痴をこぼしている彼は、嬉しさを隠しきれていなかった。
完全に活性化していなかったこと自体がある種のコンプレックスだった――ひとしきりお喋りをし終えた後、彼はひっそりと打ち明けてくれた。
苦しいことでも話してくれる彼が、私は心底愛おしかった。
基草の基術式が完全に開いてから一週間後。
突然[災禍]は現れた。
**
夜の廃工場におびき寄せた[災禍]を、千葉兒一郎は蜂の巣にした。
[災禍]の丸い全身を撃ち貫いたのは現千葉家当主の基術式『蜂玉』。[災禍]の周囲、対射結界の内側に散らばせた外殻弾、建物の破片、自前の爆弾諸々を操り、分厚い外殻をこそぐように破壊し、中に詰まった肉を蹂躙した。
最後に基草が接近し、剥き出しの肉塊に銃を乱射する。
そうして[災禍]の動きは完全に停止し、消える火のように忽然と消滅した。
代償は千葉家当主の昏倒。そして、
「――ぅ――あぁぁあああっ!!」
私の損傷だった。
喉から勝手に悲鳴が轟き、私はばたりと仰向けに倒れた。
頭の中に雷が落ちていた。凄絶な、脳を焼き尽くす激痛がじゅわりと頭蓋の裏を駆け抜ける。
千葉兒一郎は私の『超越』を併用して[災禍]を屠る渾身の一撃を放った。
そして『超越』の反動は増加した出力に比例して重くなる。
結果私は、体の穴という穴から血液を流し出していた。
「あ――――ぁ――――」
腕も手の甲も腿もふくらはぎも、今にも血管が破裂しそうなほどにくっきりと浮き出ていて。
皮膚は細かくちぎられたように痺れて。
硬直した筋繊維の一本一本が、くまなくホッチキスで留められたみたいに鋭く熱い痛みに灼かれ。
脳天から足の先端にかけ、見えない杭が何十本も打ちこまれている。
「――ぁ――――っ――――」
神経のすべてが小爆発を起こしていた。死にこの体を食い荒らされる。
ほどなくしてふたつの目が壊れた。視界がヘドロでいっぱいになる。
「るつき!」
私に駆け寄る基草の叫びに続いて、
「――え、嘘。二体、目?」
何か、驚愕する願さんの声。
直後、どしゃ、ぐちゃ、べきゃ、という、泥遊びの音と家具を壊すような音が入りまじって聞こえた。生臭くて生温かい空気がぷわんと鼻腔をくすぐった。魚を捌いたときでもこうはならない。
誰かに抱かれて移動している感覚があるが、何も見えないからわからない。
何分か、何十分か経っただろうか。
気も失っていたかもしれない。
視界は戻らない。暗闇の中で、基草と願さんが何か言い争っているのが聞こえる。
「――私が『超越』を使ってアレを倒す。彼女を寄越しなさい」
「バカ言わないでください! 反動でるつきが死んじまう……!」
「バカはあなたよ! どの道このままじゃ全員殺される。私と彼女の犠牲で、あなた一人でも救えるなら十分よ。彼女もそう思っているはず」
「勝手に何――ッ!!」
基草の言葉を遮って、頬を張る乾いた音が響いた。
黙る基草。願さんが続ける。
「魔術師は人のために生きて死ぬ。常識もないの?」
「……るつきには、それ以外の生き方は、認められないって言うんですか」
「元々彼女は増幅器。そのために生まれ、生きてきたはずでしょう? 万一この戦いが終わって生きていたなら、別の[災禍]の場所に駆り出されるわよ。欠陥品扱いされていた彼女の、有用性が実証されるのだから」
「な――別の、って」
基草が、絶望の色を含む声を出す。
……私の価値が認められる。それは、嬉しい。
「ええ。彼女は連日連夜、死ぬまで戦い続ける運命。それは彼女にとっても喜ばしいことでしょうね。他者への挺身こそが魔術師の極致――私たちの、完璧な在り方なのだから」
本当に嬉しいことのはずだ。
視界が戻った。感覚は戻らない。
ぱちぱち瞬く星空が見える。私はベンチに横たわっていた。
周囲は広く、固い地面と草木とベンチしかないようだった。恐らくここは運動公園だろう。
私の目蓋が開いたのに気付いて、基草と本告さんの視線が向けられる。首だけで仰向けの私は振り向く。彼らの後ろには綾佳ちゃんがいた。千葉家の跡取りの娘さんだ。
「聞こえていた?」
願さんが冷然と問う。
「はい」
「やってくれるわよね、神奈坂るつき」
はい、と答えようとする私を、夜より黒い瞳が引き止めた。
強い意志がこめられていた。基草ははっきりと告げた。
「お前は、世界の奴隷じゃないだろう」
世界の奴隷。
それは果たしてどういう意味だろう。
なんとなくニュアンスは伝わる。彼の願いも伝わる。
私は、冷静に混乱しはじめていた。
――私が生きる目的は、魔術で人を救うこと。
――私が生きていて楽しいのは、基草と一緒に笑うこと。
この二つは相反も矛盾もしない、ともに成立する事柄――そう、ずっと思いこんでいた。
違う。
そうであってほしかったから、勝手にそうだと決めつけていた。
「るつき」
基草が強い眼差しで、じっと私の目を見つめてくる。
私の奥から本体を引きずり出そうとする。
感情が、思考を上回ってしまいそうになる。
だから、先に思考を口にした。
「私は、奴隷ですよ。そうとしか、生きられません」
「泣いてんじゃねーかバカ。嫌なら嫌って言え」
え、と自分の目に手をやると、指が冷たい水滴で濡れた。
視界いっぱいの星々がにじみ、絵具みたいに夜空に混ざる。
私は顔を歪ませていた。
無意識のそれが、答えになってしまった。
決然とした面持ちで向き直った基草を、願さんは冷たい視線で突き刺す。
「彼女の意志に関わらず、世界は彼女を要請する。力を持つ者に自由意志はないのよ。神奈坂るつきは神奈坂るつきである以上、装置として機能するしかない」
「黙ってください。……今乳楢から、標的となる魔術師の魔力がなくなったら。[災禍]の標的は、街の住民に切り替わるんですよね?」
「逃げるなら殺すわ」
願さんの様相が一変した。手がぼうっと青く光っている。
明確な殺意が夜の静寂を支配する。
じり、と基草は数歩下がり、私の寝るベンチの前まで来た。
彼は、そっと後ろ手で私の肩に触れた。
「るつき。ごめんな」
感情はもはや論理ではなかった。
お互い、よるべはすでに破綻していた。
「『超越』――『復旧』」
瞬間。
あらゆる夜より暗い世界に、私は心身を叩き落とされた。
強すぎる酒を一気に流しこまれたように、体が熱く、気怠い。
全身の神経がしゅるしゅると巻き戻されていく。
それは何時間にも渡る刹那。
気がつけば私は、童話の姫のように基草に持ち上げられていた。
「……あなた、何、やってるの?」
愕然とする本告さんは、声のみならず全身が軽く震えている。
彼の腕に抱かれる私もまた、呆然としていた。
膝裏と背中に回された彼の腕をやたらと大きく感じる。逆に、その腕にかかっている自身の体重はいやに軽い感じがする。
まるで縮んでしまったかのような――否。
私はたしかに縮んでいた。
彼は一体、何を?
「さっき殺した[災禍]の魔力を燃料に、るつきを八歳くらいまで戻しました。基術式がまだ活性化していない、魔力も表に出ていない状態です」
「…………」
「まあ、二体目の[災禍]はあれですね」
「……あ、」
「たった今、標的の魔術師を一人、見失っちゃったんじゃないですか?」
るつきは今いなくなったんだから、と基草はこぼす。
その目は恐ろしく昏い。
「あな、た――――」
「逃げたら殺すって言ったっけな、あんた」
基草が言い終わると同時に、視界の端に鈍色の球体が映った。
公園の入り口を、数分前まで私たちを標的にしていた[災禍]が素通りしていった。
「やれるもんならやってみろ」
「貴様それでも魔術師かああぁあぁあッ!!!!!」
願さんの咆哮が轟くこの街は、今の時刻をもって地獄と化す。
彼女の振りかざした腕が伸ばされ、こちらに青白い閃光を放つ。
同時に、
「『超越』『位置復旧』」
私たちは、まったく別の場所にいた。
**
小学生の頃一緒に遊んだ、あの小さな公園の隅にいる。
まったく体が動かない私をそっとベンチに横たわらせて、基草はその前で膝をついた。呼吸が荒く、青い顔にはおびただしい汗が噴き出している。二度咳きこみ、彼は喀血した。
互いの体の至る箇所を『超越』の反動がめった刺しにしていた。
「お前は……いや、君は、もう、自由だ」
声と血を交互に吐き出す彼は、今にも息絶えてしまいそうだった。
私の片手を両手で握りながら、彼は懸命に一言ずつ紡ぐ。
「生き直すのは、自分のためにしろよ。俺は、どうなるかわかんないけどさ」
私は何か答えたかったが、口も含めて全身が針で縫いつけられたみたいに動かなかった。
ただ彼を眺めていることしかできなかった。
この男は、乳楢の市民を犠牲に、私を生かした。
増幅器の役割から私を解き放つために、勝手に幼い形にまで戻した。
「[災禍]の原因、なんとなく見当ついてんだ。だから、俺も戻る。じゃあな」
真正のエゴイストだと思う。
けれど、その引き金となったのは、私の感情の発露なのだ。
「『超越』『復旧』」
鼻から抜けるような声と同時に、ふっと彼の姿がかき消えた。
握られていた手の感触も消えた。
「…………」
視線だけを傍の地面に落とす。
小さな基草が転がっていた。
とても懐かしい姿であった。子どもの姿。服装まであの頃と同じ。
「…………」
体は金縛りのままなのに、両目から涙があふれ出した。
遠くの夜空が、祭り提灯みたいなオレンジ色に灯っている。立ち上る黒煙がみるみる夜を濡らしていって、空から星の粒を奪っていく。
乳楢の街が燃えている。
公園に誰かが入ってきた。
綾佳ちゃんだった。
私の感情は間違っていた。
傲慢で利己的で、腐臭をまき散らすただれた願い。
幸せになりたいだなんて――なんてひどい自己憐憫。
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