3.神奈坂坏子と閑馬住生

 どんな手品を使ったのか。

 あの二体目の[災禍]は夜のうちに願さんによって討伐された。

 おかげで乳楢の死者は七百人程度に留まり、私や綾佳ちゃん――同年代なので、以後はチバと呼ぶようになる――、そして彼も、無事生き延びることができた。

 千葉の家に引き取られた私には、新しい戸籍と名前が用意されていた。

 神奈坂坏子。神奈坂るつきの妹。

 大火災で家族を、ついでに記憶も失った可哀想な女の子。という設定である。

 チバも願さんも、私にるつきとしての記憶が残っていないとすっかり思いこんでいる。二人とも先の設定通りに私を扱い、ごく自然に当たり前に接する。

 基草の『復旧』は対象を既知の状態にしか戻せない。

 見た目でわかる肉体は戻せても、そこに宿る私の意識までは、彼では戻すことができなかったのだ。人は他人の心などわからないから。

 個人的には、記憶が脳のみならず意識にも刻まれているのに驚かされた。意識の連続性というやつだろうか? そもそも、体と同時に脳も戻っているはずなのに、意識は十八歳の時のままだというのが私にはもっとも不思議なのだが。だから二人も勘違いしたのだろう。意識は脳とは切り離されている?


 とにかく。

 私こと神奈坂坏子は、神奈坂るつきの記憶を保持していた。


 しかし誰にもこのことは言わないでおこうと決めた。とくに願さんにばれたら何をされるか想像もつかない。

 私は坏子として新しい人生を歩み始めた。

 ほどなく小学校にも通った。学区が違ったおかげで彼とは一緒の学校にならずに済んだ。彼は咲麻の家にお世話になっているらしい。

 彼の方は私とは異なり、東城基草の記憶を失っているはずだ。自分の意識は既知なのだから。彼が意識の退行を望んだなら『復旧』で戻る対象に含まれる。

 別人として文字通り生まれ変わった彼と、新しく関係を構築し直す――そんな自信はありえなかった。だから、別の学校で本当に良かった。

 それに、私は小学四年生頃から学校に通うのが困難になっていった。

 魔術の修行を始めたからだ。


「二〇十五年の夏あたりかしら。この街に、再び[災禍]が現れるわ」


 ある日千葉の洋館を訪れた願さんが、私とチバ、そしてチバの父に告げた予言だ。

 どうして願さんがそれを予知できるのか、私にはてんで見当もつかなかった。けれど彼女のあまりにも真剣な様子に、私たちはその言葉を信じざるをえなかった。一度[災禍]を倒した者だからこそわかる何かがあるのかもしれない、と。

 それもあり、私とチバは本格的に魔術の修行を始めた。

 コーチにはそれぞれ、四肢を失い、精神に若干の異常をきたしたチバの父――千葉兒一郎が私に。彼が招いた神制機構の魔術師がチバの指導役についた。

 チバは天才だった。基術式の『吸収』を早々にものにし、すぐさま新しい術式の習得をはじめたのだ。何の術式かは教えてもらえなかったが、あまり変な術式でなければいいな、と修行しながらぼんやり考えた。

 一方で、私はるつきの時より才能が落ちているようにも感じられた。

 私が選んだ、基術式の他に学ぶ術式は『身体強化』。

 るつきの頃の『接続』で他者に負担を強いるスタイルは間違っていた。

 私は神奈坂坏子単独で[災禍]を滅ぼす兵器として存在が成立すべきと考えた。

 だから並の『身体強化』ではいけない。

 パズルのピースがはまるように『超越』の基術式と一体化し、反動を耐えきり、膂力のみで[災禍]の外殻を打ち壊せるレベルでなければ。



 それからの五年は記憶にない。

 地下室と、針と、炎と、血。黒と灰色と赤と光。

 それだけが五年間の空白に星屑みたいに散らばっている。

 合間には千葉家のお手伝いさんに色々良くしてもらった断片もあるが、確認したのは意識が鮮明になってからだ。

 学校には通わなかったが、中学三年生を終える頃にようやく明瞭な、一続きの意識を確認した。

 いつの間にか、コーチの千葉兒一郎はこの世を去っていた。

 どうしてか、春から中高一貫校の乳楢学園に入学するのが決まっていた。

 私は『身体強化』を、チバは秘密の術式をマスターしていた。



 **



 閑馬住生との再会、もとい出会いはさして劇的なものではなかった。

 人によっては劇的と呼ぶこともあるのかもしれないが、私としては彼の顔面を握り潰していると気付いた瞬間も感情はさほど動かなかった。

 閑馬は閑馬で基草は基草だ。風貌も似ているようでやはり違う。おとなしい犬といたずら犬といった印象差。性格も閑馬のほうが穏やかで真面目だった。……後に色々ふざけた部分を知り、ああ、根っこは同じだと納得もしたが。

 彼が夜の旧校舎に来訪したのは願さんの仕掛けだったらしい。その翌日には閑馬を魔術部にスカウトし、見事入部届を出させていた。

 願さんは、彼に八年前の責任を取らせるつもりなのかもしれない。

 それからの閑馬との日々も、やはり普通に知りあった人間同士の他愛ない付き合いに過ぎなかった。

 夜の模擬訓練で連携を確認したり。

 私から司書室に訪れて一緒に昼食を食べたり。

 咲麻にフラれた彼を慰めるため、チバも誘ってラーメン屋に行ったり。

 ラーメン屋で逃げない理由を訊かれて、設定に沿った嘘で答えたのは若干心苦しくもあったが、チバが隣に座っているのに真実を話すわけにもいかない。

 お返しにラーメン屋の帰り、川べりの橋の下で彼にも逃げない理由を訊いたら、


「必要とされているから、だと、思う」


 そんな、基草の対極ともいえるような返答がなされた。


「答えてくれてありがとう。でも、それは不健全だ」


 まともな人間なら他者のために死のうなんて考えるものじゃない。

 愛する咲麻のためと言うのならまだ多少理解できなくもないが、誰かに必要とされているからなんてぼんやりとした動機は、命を投げるにはあまりに弱い。

 世界の奴隷は私だけで十分だ。


「いや、不健全って……そっちはどうなのさ。神奈坂だって、お姉さんやご両親のこともあるけど、後から『私の基術式でしか倒せない』からって言ってたじゃないか」

「私は義務だからやるだけだ。私にしかできないから、私がやらなきゃいけないんだ」


 何故か吐き捨てるような物言いになってしまった。

 これが、私が逃げない本当の理由だった。結局本心を言ってしまった。

 それから無性にむしゃくしゃした私は、今度はみんなでラーメン屋に来ようと勝手に宣言して、閑馬と別れて家路に就いた。



 **



 七夕の夜の戦いで[災禍]に轢かれた私が目覚めたのは、旧校舎の保健室であった。

 窓から射しこむ斜めの光で、室内は夕の色に染まっている。

 ベッドの横に閑馬とチバが立っている。

 隣のベッドには願さんが寝転んでいる。


「反動なんて、っ……昔っから、慣れてるんですよ」


 閑馬がつらそうな表情で呟いた。

 彼の片手は私の鎖骨に伸ばされている。


「……閑馬?」


 声をかけた時、私は制服の下の外傷がなくなっていることに気付いた。そして体が石柱と化す。重く、動かず、背中についたベッドへと吸引されているよう。杭を打たれた臓腑がどくどく脈打っており、気持ち悪い。『超越』の反動だった。

 鎖骨に触れた閑馬の手からは、懐かしい魔術の感触があった。

 体中に伸びる術式の根。他者とこころを溶かしあう恍惚。

 かつて私が学んだ術式――『接続』だった。ああ、チバはこの術式を選んだのかと、内心で嘆息してしまった。

 彼はチバと協力し『超越』『復旧』で、私とみんなの体を復元したのだろう。

 閑馬は私の声に振り向いて、


「……神奈坂」


 すぐにまた目をそらした。

 けれど、彼の心は根っこと一緒に私の内に入ってきている。


「ごめん」


 床に目を落とす彼がこれから何をしようとしているのか、そのたった一言だけで悟れた。


「ああ――うん」


 当然の帰結だと思った。

 基術式は変わらない。

『復旧』『遡り』を刻まれた彼のこころが、それに従うのは自然の摂理だ。

 手段は異なるが、かつて彼は、今と同じ選択をしたのだ。


「――――」


 目を閉じた彼が、おもむろに後ろへと倒れる。

 虚脱した彼の体を、チバが抱いて受け止める。

 私も、チバも、願さんも、何も言葉を発せなかった。

 窓越しの虫の声だけが、生ぬるい部屋の空気を揺らす。世界は湿った赤みを増していく。血と火に包まれ消えるようだった。

 自分の視界がにじんでいる事実に、しばらくしてから気がついた。


 私は閑馬住生という少年に、東城基草以外の何かを期待してしまっていたのだ。



 **



 時が流れて、世界が変わって、人の心がうつろっても。

 力の役目は変わらない。

 力を持つ者に自由意志はない。かつて願さんはそう言った。違いない。仮にそんなものがあったならば、この世界はきっと私たちにとって生き苦しくて仕方なかっただろう。

 人間は、与えられた個々の役割に殉じて、責任を全うするべきなのだ。


「……ふう」


 頭から目に流れてくる血を制服の袖で拭い、一息つく。

 血みどろの左腕はすでに感覚を失っていた。制服の脇腹は肉ごとこそげてしまい、ちょろりとはみ出た赤い物体がじんと痺れを伝えてくる。肢体は重みをいや増していて、気を抜けば膝が折れてしまいそう。

 二夜目の[災禍]が現れてから、何時間が過ぎただろうか。

 昨日砕いた箇所の外殻は、きれいさっぱり修復されていた。私たちも無傷に戻っていたが、閑馬と咲麻を欠いたスタート。気付けばチバも願さんもどこかにいなくなってしまっている。

 旧校舎、A棟とB棟を結ぶ渡り廊下で、私と[災禍]は対峙していた。

 窓に四角く切り取られた月明かりが、渡り廊下をしんしんと照らす。

[災禍]は破裂寸前の爆弾のような空気を纏い、離れたA棟側で静止している。昨夜私と願さんを轢いた、あの突進をかましてくるのは明白だ。


「――――」


 かわすつもりはない。

 真正面からぶつかって外殻ごと叩き潰してやる。

 腰を沈め、膝を開く。金棒を両手で背中側に立てる。防御も回避もない、ただ突撃して振り下ろすだけに特化した構え。右手は短く持ち、左手はグリップエンドに添えるのみ。


 ――この身はバネ仕掛けの兵器。

 ――意志は基術式しきに組みこまれた役柄。

 

 まっすぐ、死へと向かえば良い。


 私の周囲の足下には、乾いた血痕が飛び散っている。

 ここは咲麻が殺された場所だった。

 彼女は死ぬべき人ではなかった。

 咲麻倖果は優しい少女だった。魔術師になどならなければ幸福を築いていけるはずの人間だった。なってしまえば、担わされる責務から逃れられはしないのに。

 奴隷の私が死ぬべきだった。

 せめて今、それを果たさなければならなかった。

 目の前の[災禍]を道連れに。

 六百八十九人と咲麻と閑馬と、彼らを想っていたすべての人に報いる。

 静寂だった。足をずらす。

 建物の破片が、じゃり、と音を立てた。

 元より、ここで死ねれば本望だった。そのために神奈坂坏子は生きてきた。


 そうだ、私は本当は。

 生き延びて、より多くの[災禍]を滅ぼすより。

 私はたった一体と相討ち、至極あっさりと死にたかったのだ。


「――いくぞ」


 声をあげ、より深く膝を沈めた。

 たった一つだけ不思議だったのが。

 この[災禍]で死ぬつもりだった私は、どうしてあの時、彼とラーメンを食べに行こうなんて約束してしまったのか――



 ぽんぽん。



「……は?」


 空気が変わる。

 肩を。誰かが、叩いた。

 振り向く。


「やっ」


 まるで待ち合わせの相手を見つけたように、ひょいっと軽く手をあげて。

 閑馬住生が、そこにいた。

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