Sumio-1
1-1.幼なじみとアイアンクロー
僕はスニーカーを履き直して夜闇の中へと飛び出した。携帯の時計はゼロイチゼロゼロ、丁度夜中の一時を示している。学校ではいっぱしの優等生で通しているクセにこんな時間に外をふらつくとは、彼女も春の陽気につられたか。とんだ非行少女っぷりである。育てた親の顔が見てみたい。まあ僕と同じなのだけど。
女手ひとつで僕と倖果の二人を育ててくれた華乃さんに文句をいう道理などありえない。ただひたすらに倖果が悪い。高校生の深夜徘徊は補導の対象であり、お巡りさんのお世話になる前に彼女を発見、保護しなければならない。
――五月にしては妙に高い気温のせいか、昼休みに学校の司書室で本告さんに飲まされた怪しい輸入物のお茶のせいか。寝床に就いてもついと眠れず、久しぶりに深夜ランニングでもして疲労の力を借りて寝ようと思い、こっそり玄関まで出て靴を履いて。
履いたところで、普段はきちんと揃えてある倖果の靴がなくなっていることに気付いたのだ。
一旦二階の廊下に戻り、自室の向かいのドアにノックすること四回。
「失礼しまーす」と漢気の一声、倖果の部屋に夜這いスレスレの侵入を敢行しベッドがもぬけのからになっているのを発見したのがつい先刻のこと。
そうして僕は、さっきとは別の目的意識もプラスして夜の街を駆けている。
「――はっ――はっ――――」
夏の気配さえ感じられる、生温くて湿り気をおびた空気。肌に重たくまとわりつくのを肩で切るようにしてひた走る。住宅地の道路の両脇、等間隔に立てられた街灯が一定の速度で景色の後ろに白く尾を引いて流れていった。夜の海を泳ぐ魚にでもなった気分だ。
ほどなくしてジャージの内側にいっそう温かい空気が満ちていく。玉の汗が浮かび上がるのが伝わり、上着を着て出てきたことを後悔した。
静かな夜の路上。
足音と呼吸と、ジージーという虫の鳴き声しか聞こえない。
「くっそ、暑い……水……アイス……アイス? アイス!!」
この時間に外に出る目的として考えられるのは精々二つ。単に夜の空気を吸うためか、二十四時間営業の何かしらのお店に用があるかのどちらかだ。前者の場合はどこをほっつき歩いているか見当もつかないので考えないことにする。後者に絞れば、この近辺には通学路の途中にある一軒のコンビニエンスストアしか営業している店はない。大方アイスでも買いに行ったのだろう。倖果は結構な甘党である。当たりをつけて脚を前へ、前へ。
住宅地から坂道を下り、電車の線路沿いの道路に出てしばらく。
僕は暗がりに煌々と浮かぶ夜のコンビニに辿り着いた。ピロリロ自動ドアが開いたので入店してお店をひとまわり。金髪のお兄さんが週刊誌を読んでいる。レジの店員があくびを噛み殺している。他には誰もいないようだった。
アイス片手にコンビニを出て、しばし考えこみ、
「……んー」
このまま通学路を進むことに決めた。
学校を通り過ぎた先にもコンビニが一軒あるし、宿題か何かを忘れて校舎に忍びこんだ可能性も小指の先ほど考えられる。どちらも相当無茶のある話だが、ここから学校まで数分とかからないし、来た道をとんぼ返りするのもなんだか癪に障る話だった。どうせならキリのいいところまで走ってから帰りたいのもあった。
通い慣れた通学路を突き進み、麗しの我が高等学校の正門前に到着したところで、
「…………」
なんだか奇妙な違和感を覚えた。
まったく音がしないのだ。
空気が吹き溜まりになったかのようにどろどろと宙で淀んでいて、先まで吹いていたかすかな風が今は微塵も感じられない。かさりとも言わない常緑樹の葉が置物みたいで気持ち悪かった。早まった自分の呼吸の音だけが、じぃんと耳の奥で響いている。
「……倖果ー」
校門の向こう、曲がりくねった坂の上に建つ校舎に向かって名前を呼んでみる。辺りはしんと静まり返ったまま。
さて、いったい何を血迷っているのか。
僕の体は冷たく閉じた校門の鉄柵に手をかけていた。力いっぱいよじ登っていた。奥の校舎に吸い寄せられるよう。自分の意識の外側から体をぐいぐい動かされている。ラジコンじみた行動を自覚し、しかし恐怖も感じられない。
ほどなくひょいっと柵を飛び越え、レンガ敷きのうねる登り坂を見えない糸に引かれ駆け上がる。
校舎の建つ高台の平地に灯りはなく、満月だけが無人の敷地を薄暗く照らし出している。ひとまず入口を探して歩くが、
「開いてるわけないよなあ」
当たり前だが、校舎の扉はどの棟もすべて施錠されていた。もちろん周囲には誰の気配も感じられず、また相変わらず音もしない。
やっぱり帰ろうと思う傍らで、足は奥へと進んでいる。
敷地の奥、体育館の脇を抜けてさらに奥。フェンスで囲われた木造の旧校舎が見えた時、それまで静謐に包まれていた空間に突然物音が鳴り響いた。
防音設備を施されたホールに入った瞬間のような、唐突で急激な変化だった。
音は旧校舎から複数。床を踏み鳴らず騒々しい音だ。
――電気もついていない立入禁止の旧校舎の中を、複数の人間が走っている。
「……いや、いやいやいや、やばいでしょう」
粟立った腕をかき抱いていた。
この時間に、この場所で、この物音はあってはならない。見るまでもなくそこは異常であり、危険、物騒、赤信号である。一刻も早くここから離れて警察にでも通報すべきだ。
さっさと踵を返そうとした時、見慣れた横顔が目についた。
月明かりだけが頼りの暗い視界でも、フェンス越しの遠目でも、けっして見間違いようがない顔。
旧校舎の窓ガラスの中に、八年間一緒に暮らしてきた、栗色の髪の女の子がいた。
気がつけば僕は目の前のフェンスにおサルのように飛びついていた。ひし形の網目に手をかけ足をかけ、必死になって這い上る。かしゃんかしゃんと鳴る金属音と揺れが余計に心を焦らせた。元体育会系・現文化系の十六歳男子の肉体はこれまでの道中でだいぶ疲弊していたが、休むのも怒るのも倖果をあの旧校舎の中から引っ張り出してからだと、身体はきちんと理解していた。
フェンス上に張られていた鉄条網を強引にまたぎ、飛び降りて土の地面に着地。足裏の痛みを
「誰だ」
一瞬、心地のいい浮遊感。
両方の足が地面から離れ、体はふわりと宙に浮かんでいた。
視界が手のひらで覆われている。すぐさまこめかみを稲妻が貫いた。
「ッ、――っっッ!!?」
力点は頭。そして顔面。顔と頭部が潰れそうに痛い。
目の前の、冷たい声をした見えない誰かが僕を片手で吊り上げているのだ。熟れたトマトでも潰すかのように万力で僕の頭を握り、めきめきと力強く締めつけている。歯軋りめいた不協和音が頭蓋の裏で反響していた。
相手の腕を引きはがそうと両手で掴んでもがいてみたが、いくら揺らしてもびくともしない。筋肉は固く引き締まっていて強い弾力で押し返してくる。太さは僕と同程度か、若干細いくらいだというのに。
「――――」
手のひらの腹で口を塞がれ、悲鳴をあげることさえもできない。
やがて痛みに意識が遠のいていく。割れんばかりの激痛が走る頭の片隅で、これが噂のアイアンクローかと僕は感心してしまった。格闘ゲームかプロレスでしか見ない大技をまさか自身で味わう機会があろうとは。こめかみを挟みこむ親指と中指の力強さにUFOキャッチャーの景品を連想。彼らは毎日幾度となくこんな気持ちを味わっているのだろうか。哀れでならない。勝手にぷらぷら揺れる両足の重みを意識してしまいながら、たぶんすごくコミカルな格好になっている僕はこの世の無常を噛みしめた。今度からはあんな残酷なゲームをプレイするのはやめようと決めて、それより倖果はどうなったのかと今一度の正念場、気合いで足を振り上げたその瞬間、
「……え、
目の前の僕を掴んでいる相手、どうやら女の子らしいその子が凛とした声で僕の名前を呼び、
「スミオ!?」
追って遠くから倖果の叫ぶ声、こちらへ駆けてくる足音も聞こえて、
「あらあら閑馬君?」
何故か本告さんの、どこか白々しい声が遠く聞こえたところで気を失った。
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