1-2.カエルの日

 幼い頃の夢を見た。

 僕はさびれた公園の隅っこにしゃがみこんで、敷地と住宅の境に無数に伸びたタンポポの茎をちぎっている。綿毛になったタンポポの花は白くて薄くて透き通っていて、煙みたいにぼやけた輪郭に遠く自分を重ねていた。

 その頃僕は世界に疎外されていた。何故そう感じていたのかは今になってもはっきりとしない。ただ、いつも見慣れたこの公園がまるで何年も経ったかのようにひどく色褪せて映ったり、生まれ育ったこの街の空気が変に吸い慣れない、臭くて汚らしい排気ガスまみれのものに感じられて、どこにいても息が詰まるような気がしていた。大火災から間もなかったので、血と灰と二酸化炭素と焼けた化学物質のにおいが肺に染みついていたのかもしれない。

 

 ――お前はここにいるべき人間ではない。

 ――お前にここにいる資格はない。


 誰に言われたわけでもないのに、心のどこかがそんな妄想を抱えていて。

 そんなの嫌に決まっているのに、僕はあの時両親とともに火災で焼け死んでいたほうが良かったのでは、今生きているのは何らかの致命的な間違いなのでは――そんなことばかり考えながら毎日小学校に通い、平穏な日々を過ごしていた。

 ちぎった茎の断面から指先に汁がつたう。草のにおいがした。

 十本ほど集めたタンポポを握って、ランドセルを置いたベンチに戻って腰掛ける。ポケットから孤児院でくすねたライターを取り出し、丸っこい金属に親指をかけ、押しこんだ。

 シュポっと最小の火力で火が灯る。

 空いた左手でタンポポを一本持って、先端の綿毛にそっとライターを押し当てた。火は瞬く間に燃え広がり、綿毛は輝く光の玉となって焦げたにおいを鼻に送り届ける。

 白かった毛先が黒く染まっていく。一瞬広がる橙の火焔が僕にはすごく魅力的に思えて、間近で見られることが嬉しくて。夢中になって火の奥に目を凝らしていた。

 やがてタンポポが最後の一本になる。

 それを手に取って燃やす前に、空の左手を広げてみた。

 今日はなんだか気分が良い。

 だから「ちから」が使えると思った。

 最後の綿毛に火を灯す。ぶわっと燃える。尽きる――尽きた。


『戻す』。


 するとそこには黒い消し炭となった綿毛は存在せず。

 燃える前の白いふわふわの綿毛が、風になびいて揺れていた。

 満足した僕は再び火をつけ、燃やしてはまた『戻す』行為を、日が暮れて心身ともに疲れきるまで飽くることなく繰り返していた。


 ――この不思議なちからに『復旧』というわかりやすい名前がついたのは、ちからに気付いてからしばらく後日、本告さんと出会った日のことだ。いつできるようになったのか、どうしてこんなことができるのかはわからない。ただ気がついたらできていた。テーブルの上の醤油さしを取るのと同じくらいごく自然に。

 とにかく僕は触れているモノの時間を、五秒くらいまでの間なら自由に戻すことができた。

 このちからで僕は色々なことを試した。

 かじったリンゴを戻してまたかじったり、カッターナイフで手に傷をつけては戻して傷を塞いだり。すぐにお腹いっぱいになってしまったり、切ったらやっぱり痛かったりしたので、ほどなくどちらもやらなくなる。タンポポを燃やす使い方が一番きれいで、大好きだった。

 ある日の下校途中、いつものように公園に立ち寄る。


「……ん?」


 ベンチの上に緑の物体――カエルがひょっこりと座っていた。

 目が合うとゲコゲコと鳴き始める。席の領有権を主張しているのか。

 特に追い払う気も起きないので、僕はカエルの隣に座った。ランドセルをおろし、手を伸ばしてみる。なんとあっさりと捕まえられた。手の中で暴れ回りもしない。野性を失っているのかなコイツ、と白くて柔らかそうなお腹をまじまじと眺め続けているうち、恐ろしい考えにとらわれた。

 空いている右手でランドセルを開き、筆箱を出す。カッターナイフを取り出す。キチキチキチ、と刃を伸ばしていると、なんだか背筋がゾクゾクする。

 刃をカエルの腹に当てて、すっと手前に引いてみた。

 切れ目からどろっと命があふれ出す。


「うわっ」


 生き物の劇的な躍動に驚き、手を離す直前大慌てで『戻す』。

 カエルは何事もなかったかのようにけろっとした顔でベンチに着地。不思議そうな目で僕を見ている。


「何してるの?」


 幼い女の子の声音が、いやにはっきりと公園に響いた。

 どきりとして声のほうを振り向く。

 公園の入り口の前に、僕と同じくらいの背丈の子が、怯えた顔をして立っていた。


 幼なじみの女の子――咲麻倖果さくまゆきかと出会ったのは、そんな困った日のことだった。



 **



 カーンカーンカーンカーン……闘いの終わりを告げるゴングが聞こえる。


「朝だよー! おはよー! 起きよー! こらぁー!」

「おうよー」


 答えた僕は布団を深くかぶり直し、太陽の光とけたたましい金属音から全力で身を守ることに決めた。熱帯夜かと思った昨晩は帰宅してみればそう暑くもなく、しかしそれとは別の理由で結局全然寝つけなかった。

 握り潰されかけた痛みが抜けてくれない頭を横にし、旧校舎での出来事についてベッドで色々考えてしまい、カーテン越しにうっすらと朝の陽光が通る頃合いになってようやく意識に疲労が染み出て、失せた思考と入れ替わりにすぅっと眠りに落ちた矢先に毎朝恒例、フライパンとお玉が打ち鳴らすノックアウトの鐘の音である。いつにもまして頭蓋骨に反響する音に僕はうっかり死にそうになる。


「早くしないと朝ごはん冷めちゃいますよー! ほらー!!」


 攻防の末、力ずくで布団をはぎ取られた。

 制服のブレザーにエプロンをかけた倖果が、大根でも引き抜くかのように僕の腕を引っ張り上げている。肩が抜けそうである。至極痛い。

 上半身だけ起き上がった僕の顔にぺしっ! と何かがぶつかった。

 倖果の耳の前に垂らされた長い三つ編みの先端部分が、彼女が僕の腕を引くたびに生き物みたいにぴょこぴょこと跳ねて、頬をぺしぺしと叩いてくるのだ。ぐったり低血圧気味の脳みそにこのジャブは非常にうざったい。右、左、右、左、右が届かず左、左。


「……」

「ん? ちょ、ちょっとスミオ何持ってるのさ」


 うざったいので掴んでみる。

 そいでもって引っ張ってみる。電灯のひもを引く要領で、くいっと。


「みぎゃぁ゙ああ゙ぁあ゙――――――――――――――――!!!!!」


 交尾中に尻尾を踏まれた猫のような、およそ人のものとは思えないおぞましい悲鳴が目の前の女の子からあがった。恐らくご近所中に聞こえただろう。


「年頃の女の子がそんな声出しちゃダメだよ、はしたない」


 ここは慈愛の心で接しよう。頭をなでながら優しく諭してやる。


「……っ! ふんすっ!!」


 涙目になった倖果は僕の顎先に渾身の掌底を返してくれた。

 今度こそ沈みそうになる意識をかろうじて保ち、保つ。息も絶え絶え、足下をぐらつかせながらどうにかベッドから立ち上がった。

 倖果はいつものふわっとした笑顔で満足げに頷き、「ちゃちゃっと着替えてねー」と言い残してさっさと部屋を出ていった。ぱたぱたと階段を駆け下りる音を聞きながら、仕方なく僕はクローゼットから学校の制服を取り出し、寝間着を脱いでワイシャツに袖を通した。

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