リバーストレイル -逆巻く世界と君のいない街-

今崎かざみ

   

プロローグ<Negai-1>

1-1.本告願が死んだ夜

 とても大きな鈍色の球が、私のすぐ目の前に浮いている。


 全高、直径は一般男性の身長より頭二つ高い。鉛に似た表層の外殻はクレーター状に隆起しており、全体に目玉のように配された人の顔ほどのサイズのレンズがぬらぬら月明かりを映している。

 夜闇を吸いこむ青い光沢は鈍くて暗くて禍々しくて、地獄の月のようだった。

 地に顎をつけて倒れ伏しながら、私はそんな月を見上げている。丸い表面の至る箇所が濡れていた。熟れたイチジクをぶつけたみたいにべっとりこびりついた血糊と肉だ。もはや誰由来かも判然としない。

 

 それはたしかに[災禍]であった。

 

 私たち、魔術師の天敵。

 前触れもなく忽然と現れ、土地の魔術師すべてが息絶えるまで死をまき散らす災害現象。

 世界の意志によって生み出された、硬球を象った対魔の生命。


「……れ……」


 十数年前の初観測以降、世界各地で猛威を奮い、ついにこの街にも現れた[災禍]。街に住む魔術師である私たちはそれと戦い、敗北した――否、しかけた。


「――、れ――」


 そうだ。負けはしなかったのだ。

 戦いそのものが中断されたから。

 私たちの仲間のうち二人が、戦いを放棄して逃げ出したから。


「……ま、れ――――」


 この世すべての[災禍]を打ち倒す目的のもと、魔術師により用意された兵器――神奈坂かんなさかるつきは、東城基草あずまぎきくさの破滅的なエゴによってこの街から消えてなくなった。そして当の基草本人もつい先ほど姿を消した。

 あの二人がいなくなったことで。

 殺戮対象の一部を失ってしまった[災禍]は、既に標的を変えている。


 通常[災禍]は、出現した土地に住む魔術師を皆殺しにするまで活動する。

 しかし、もし土地からターゲットの魔術師がほんの一人でも逃げ出した場合。[災禍]の活動内容は大きく変容する。

[災禍]は逃げた魔術師の代わりに、その土地に住まう無辜の民へと、


「止まれ――――!!」


 所謂、

 理由は今なお判明していない。


 魔術師とは他人のために生きて、他人のために死ぬ生き物である。

 人を傷つけてはならない我々にとって、[災禍]が人を傷つける事態はもっとも避けなければならない事態だった。

 そうなるくらいなら、ここで私たちは全員殺されなければならなかったのに。


「止ま――っっグッ――」


 るつきと基草の二人は逃げ出して、恒彦つねひこは[災禍]に轢かれてミンチ、兒一郎げいいちろうも裂かれてバラバラ、綾佳あやかはあの二人が消えてからすぐにどこかへと駆け出していった。きっと彼女も逃げたのだろう。

 そして私は腹に穴を空けている。

 降って湧いた痛苦に身をよじり、血を噴き、こうして無様に死に損なっている。コンクリートの地面に寝転んで。

 球体は死にかけの私を置き去りに街の方角へ動いていく。分厚い外殻の背面部にナイフで切り裂いたような割れ目が開いていた。中に詰まった赤黒い肉がひょっこりと顔を覗かせていた。

 最後の力を振り絞り、私は[災禍]に手を伸ばした。

 手のひらから最後の衝弾を撃つ。

 空間に散る青白い火花。ぼうっと光る衝撃の塊はまっすぐ[災禍]へと放たれたが、数間手前で弾かれて消えた。

 こちらの攻撃に呼応し現れた、薄絹ベールのような光膜によって。

[災禍]に飛び道具は通じない。

 わかっていても、撃たずにはいられなかった。

 外殻に傷はできている。そこから中身を潰せば、倒せる、のに。


「……止まっ、て……」


 もうこれで魔力も底をついた。

 何もなくなった私――本告願もとおりねがいは首だけを上げて、感覚を失った体を自身の作る血だまりに横たえたまま、[災禍]の後ろ姿を見送った。

 何もかもが終わってしまった、暗くて静かな夜だった。

 私の意識はそこで途切れる。


 その夜――二〇〇七年二月十一日。

 乳楢にゅうなら市の住民のうち六百八十九名が、原因不明の大火災で命を落とした。

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