Sumio-5

5-1.再会

 水面に一滴の雫が落ちた。

 真っ黒な雫、それが僕だった。

 雫は水面に波紋を作る。たった一滴の黒い斑点が水を瞬く間に闇色に染めあげ、そこに元いた誰かのこころが暗い水底へ飲みこまれいく。

 よく聞き覚えのある声が、頭の深奥に沈み、遠のいていった。

 それもたぶん、自分の声だった。





 消えていった声の代わりに。

 カーンカーンカーンカーン……闘いの終わりを告げるゴングが聞こえる。


「おはよー! 朝だよー! 起きろー! おらぁー!」


 頭の中身がぶっちぎれていた。脳を力ずくでねじ切られたような、かつて感じたことのない痛みだった。バラバラになった雑巾みたいに思考が頭蓋に散らばっている。鈍いのか鋭いのか、ずきずきするのかぐわんぐわんするのか、あるいはすべて当てはまるのか。

 何も見えない。目蓋を開けているのかすらわからない。

 勝手に開いている耳だけが、その現実を伝えてくる。


「何うっすら白目剥いてんのさー! もー、起きなさいー!」


 抵抗できずに肌布団をはがされ、体を包んでいた重たい空気が取り除かれる。

 寝間着越しに外気が触れて、僕の目の焦点は同期を終えたソフトウェアのように定まった。

 中心点に倖果がいた。


「――――」

「……何、アヒルが豆鉄砲食らったような顔してるの」


 最初に思い起こされたのは、あの潰れたキイチゴの景色だった。

 ベッドに仰向けになったまま、僕は倖果の顔と、後ろの白い天井を見上げていた。

 見慣れた照明がある。ここは僕の部屋だった。

 明るくて、朝だった。


「……死体ごっこ? 遊んでないで起きるよ、ほら!」


 倖果は制服ではなく部屋着姿だった。上にはエプロンをかけている。お玉とフライパンを一旦机に置き、ベッドの脇からぐっと両肩に手をかけてきた。

 上体を起こされた時、倖果の顔がすぐ目の前にきた。

 甘いにおいがした。

 耳の前に垂らした彼女の三つ編みが、僕の頬をかすめた。


「…………」


 僕はその三つ編みの片方を、気付けばそっと右手に取っていた。


「……へ?」


 声をあげる倖果。僕の空いた左手は動揺を見せる彼女の様子など気にも留めずに、無意識にその背へと回っている。


 力をこめて倖果の体を、自分の体に抱き寄せてしまっていた。


「……え、ぇえ? な、何するんだ……スミオ?」


 倖果の三つ編みから手を離した。

 こちらも彼女の背中に回す。

 密着した上半身から、肩と背中の痙攣を伝えてしまう。僕は彼女の肩に顔をうずめて色んなものを押し殺そうとした。けれどダメだった。余計ひどくなるばかりであった。

 腕が震える。喉がひくつく。顔から水があふれてくる。


「……泣いてるの?」


 体を預けたままで倖果がそっと耳元に問う。


「……怖い夢を見たんだ」


 上ずった声しか出てこない。情けなさがぎゅっと絞り出される。

 背中に温かいものが触れた。

 倖果の柔らかい両腕だった。

 強くも弱くもない力で、きゅっと優しく抱いてくれた。

 彼女は何も言わなかった。ただゆっくり背中をさすってくれる。

 僕は倖果の服の背を掴んで、すがりつくように泣いてしまった。

 彼女を救いに来たつもりなのに、自分が救われてしまっている。





 二〇一四年七月二十一日、月曜祝日。

 リビングに下り、華乃さんと倖果が待つ朝食の席について。

 ベーコンエッグやサラダが並ぶテーブルの端に日めくりカレンダーを発見した。それを数秒間凝視してから、


「これ、あってる?」


 指でさして倖果に訊いてみる。


「カレンダー? あってるよ? 明日から夏休みだからってボケすぎだよー」


 少し冷めてしまったジャムトーストをかじりながら、対角に座る倖果が笑ってからかう。その顔をよく観察してみると、なるほど、若干幼いように見えなくもない。


「……やだ、顔になんか付いてる?」


 まじまじと見ていると、倖果は恥ずかしそうに目をそらした。

 間違いなかった。ここは一年前の世界だ。

 僕も倖果も、まだ中学三年生の頃。


「もう、さっきからなんか調子がヘンだねー。夕方の予定とかちゃんと覚えてる? 大丈夫かなー?」

「……夕方? どこかに出かけるの?」

「……ウソ。ホントに忘れてる?」

「誠に遺憾ながら」


 一年も前の記憶はそうポンとは思い浮かばない。あなたは思い出深い日に戻る~とかぬかしていたが覚えていないぞ、あの悪役め。

 僕が本当に覚えていないのを見て取り、倖果の表情がにわかに憮然としはじめた。非常にまずい雰囲気である。


「まあ落ち着いてくれ、これには深いワケがある」

「どんな理由だよ……」

「今から考えるからちょっと待って」

「どんな理由だよ……」


 倖果の背後で怒気が陽炎のように揺らめくのを感じ、僕は全力で記憶を掘り起こす。どうやら本気でまずいみたいだ。このままでは倖果を助ける前に倖果に殺されてしまう。

 昨年の夏休み直前。

 日曜日。

 出かける。

 夕方。……あ。


「夏祭り」


 落ち着いて順繰りに考えたらするっと記憶が飛び出してきた。

 倖果は嘆息して、


「勘弁してよもー。ずーっと前から約束してるんだよー」


 牛乳を一息に飲み干し、ぷいっと横を向いてしまった。

 まあまあ、と華乃さんが苦笑しながらもフォローを入れてくれる。


「住生君もまだ少し寝惚けてるのよ。最近部活で大変だっていうじゃない……浴衣の着付けはあたしがしてあげるから」

「うん、ありがとうお母さん」


 ころっとご機嫌になる倖果。

 互いが互いを好き合っている。良い親娘関係だと思う。

 将来はこんな家庭を築きたいものだなあと、しみじみしながらウインナーを口に放った。

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