5-2.夏祭りの夜

 倖果とは何故か現地集合になった。

 華乃さん曰く、家から一緒に行くのと待ち合わせとでは情緒が全然違うらしい。よくわからないから「昭和ですね」と返したらスリッパで頭をはたかれた。昭和だと思う。

 両端を林に挟まれた長い石段を上り終え、鳥居をくぐると、すでに境内はいっぱいの人でごった返していた。笛と和太鼓の音色が聞こえる。夕の空は涼しい風を纏い、たなびく雲を金色にきらめかせる。

 携帯で時刻を確認する。五が三つ並んでいた。

 あと五分で倖果との待ち合わせ時間だ。

 乳楢神社の祭りは花火大会を兼ねて行われる。規模は小さいが地元の風物詩の一つとして親しまれており、訪れる人の数もなかなかのものだ。これでは倖果の姿を探すのも一苦労――そう思った矢先、ちょんちょんと背中を指でつっつかれた。

 振り向くと、記憶の中の彼女が立っていた。


「ごめんね、待った?」


 倖果の細身の全身に、鮮やかな赤い朝顔が咲いていた。

 薄桃色の生地に純白の帯。耳の前にいつもの三つ編みは下がっておらず、編み込んだ髪をアップにしている。妖精めいた幻想的ないでたちで、同い年のはずの幼なじみはふわりとそこに佇んでいた。


「いや、今来たところです」


 この浴衣姿を見るのは二度目なのに、どうしてだか緊張してしまう。彼女はおちゃめに表情を崩し、くるりと回っておどけてみせた。


「こんな可愛い女の子とお祭りなんてスミオは恵まれてるよー。幸せ者だよー。もっと喜ぶべきだよー。ほらほら」

「ヒャッホー! うわーい! イェーイ!!」


 僕は両手でサムズアップ、白目を剥いて飛び跳ねてみせる。固まった体をほぐさねば。

 ……人ごみから痛々しい視線を感じる。やりすぎたか。


「……私からふっておいてなんだけどさ。スミオはそういうトコ直したほうが良いと思うよ? だからモテないんだよ? 顔はまあそこそこなのに」


 すっかり呆れてため息をつく倖果に、僕は口を尖らせる。


「なんだとう。いったい僕のどこがモテそうにないって言うんだ」

「急に頭おかしいこと言い出したり冗談がつまんなかったり僕のどこがモテそうにないんだって女子に言いつのったりするところ」

「ぐ、ぐむ。言動系ばっかりじゃないか」

「うーん。あとは勉強も運動もパッとしないし、顔はあくまでそこそこレベルだし、たまに奇行に走るし。あ、地味に料理の味にうるさいのもマイナスポイントだと思うな」

「別に言動以外を指摘しろと言ったわけじゃないぞ」


 微妙に傷つくからそろそろ勘弁してほしい。というか奇行ってなんだ……さっきのだ。

 改めて突きつけられた自分自身のフラれた理由に少々鬱が入った僕を見て、倖果はくすっと笑って言った。


「ごめんごめん! 行こ!」


 倖果が少し先導する形で人ごみを縫って歩き出す。

 祭囃子の鳴り響く夕暮れの境内を進んでいると、倖果がぴたっと立ち止まった。いたずらっ子みたいな顔をしてこちらを振り向く。小さく指をさす先には屋台。何か見つけたようだった。


「ホルモンたい焼きだって! いってみよー!」

「待て。たいってなんだ」


 何ゆえこの子は初手からゲテモノ系に突っ走っているのか。というかこんな屋台、一年前――厳密には主観時間で一年前――にあったっけ。

 ちっちっち、と倖果は立てた指を振る。


「スミオは屋台巡りの醍醐味をわかってないなあ。お祭りだよ? 非日常だよ? 神さまだって無礼講だよ? なるべく珍しいものを食べ歩かないと」

「イスラム教徒に聞かせてやりたいよ」


 鯛のはらわたに豚のはらわたを詰めこんだパンクな食物でもアッラーはお許しになるだろうか。

 時代は内臓スイーツだよーと生臭そうな現代を語りながら倖果は子どものように小走りで怪しさきわまる屋台へ向かう。また自宅再現とかやり出さないだろうな――冷蔵庫の上の戸棚にワッフルメーカーが眠っているのを思い出しながら、僕は倖果の後ろに続いた。





 ホルモンたい焼きは所謂おかず系クレープに近い味わいで、意外とうまくて反応に困った。調子を良くした倖果に連れ回されるようにして、僕たちは様々な屋台を回った。

 金魚すくいで僕が亀をすくって、対抗した倖果は焦って一匹もすくえなかったり。

 武蔵坊弁慶のごとく当たっても倒れない射的の景品に、二人してやっきになったり。

 倖果がキツネのお面を買って、僕が似合うだのなんだのと言ったらすっかり気に入ったのかしばらく着けていたり。それで人にぶつかったり。

 キャラメル焼きイカや六十四種ランダムたこ焼きに突貫する倖果を全力で止めたり。

 顔が広い倖果は時おり、同じように祭りに来た学校の友人たちに見つかっていた。彼女らはとりとめもないことをしばらく話して、話題が途切れたあたりで背後の僕を発見し、「ああ、うん」みたいな表情をして去っていく。何を納得しているのかはあまり知りたくないところである。

 前回のこの祭りでは、どこをどう回ったかとか、どういう屋台があったとか。

 そういう前後の流れや細部のあれこれは覚えていないくせに、倖果のふとしたしぐさだけはやけにはっきりと覚えていた。髪留めを直したり、わざと下駄をカランコロンと鳴らしたり、ふところから取り出したティッシュで口元を拭ったり。

 その、何もかもが楽しかった。

 そこは間違いなく元いた僕の日々なのだけれど、砂糖菓子と生クリームで出来ているような甘ったるく優しい世界だった。

 真っ白なわたあめを口の端につけて、この世の幸せを一身に集めたような顔をして倖果が笑っている。つられて僕も笑ってしまう。

 屋台を巡りながら、心の奥底のある思いが積もり、高まっていくのがわかった。


 倖果は、善い人間だ。


 夢とか希望とか愛とか友情とか光とかぬくもりとか、とにかく世の中で善いとされる多くのものと、あとわたあめか何かを人の形に詰めこんだような。

 あきらかに幸福であるべき人間だ。

 こんな子が死ぬのはやっぱりおかしい。止めなければならない。

 この乳楢から連れ出さねばならない。


 ……とはいえ、[災禍]まではあと一年ほどある。いつ倖果に切り出すにせよ、ひとまず今はこのお祭りを楽しもう――明るい思考に切り替えた時、すっかり暗くなっていた夜空に、大きな光の花がぱっと咲いた。追って腹に響く爆発音。


「花火始まっちゃった! 早く場所探そう!」


 僕たちは慌てて花火がよく見える場所を探す。人の波をかきわけて境内の奥へと進むと、社の裏手に開けたスペースがあるのを見つけた。スペースの奥は切り立っており、木製の安全柵が設けられている。先が急勾配の傾斜になっているのだろう。何人かの人たちは安全柵に肘をかけ、立って花火を見上げている。

 僕たちは柵のだいぶ手前、小さな石の段差に腰を下ろした。

 視界を遮る樹木もなく、空高くに上がっては消える鮮やかな火がよく見える。


「あ、あふっ」

 

 あがった奇声に横を向くと、倖果が片手で口を押さえていた。

 手にはいつの間に買ったのか、八個入りのたこ焼きのパック。どうやら舌を焼かれているらしい。


「倖果はアホだなあ」


 ほのぼのしながら呟くと、


「なんだよひどいなあ! ならスミオも食べてみなよ、ほら」


 涙目でつまようじに刺したたこ焼きを突き出してくる。


「……宇宙生物とか入ってないよね?」

「私だって普通の食べ物くらい買うよ。私をなんだと思ってるんだよー」

「バニラサラダうどんとか食べる人だと思っている」

「は?」


 ぽかんとする倖果をよそに、ようじの先にぱくついた。


「はむ……あ、あふっ」


 猛烈に熱かった。涙目になるくらい。


「アホーアホー」

「あ、あんだとう、ふ、ひ……」


 けらけらと笑う倖果に言い返すこともできず、なんとか口内の小麦粉マグマを飲み下す。倖果は笑いながらペットボトルのお茶を手渡してくれた。

 次々に花開いていく数多の光の流線を、二人してぼーっと見上げてみる。

 夜闇の底に流れ落ちる火花の、その先端に目を引きこまれる。

 跡形もなく立ち消える火はいったいどこへ行ってしまうのだろう? ほんの一瞬花火の形をとるためだけに生まれる彼らは、爆弾の姿のまま開かれない方が幸せだったんじゃないか。僕は彼らの在りようをきれいだな、すごいなと感じるけど、同時にああはなりたくないとも思う。

 なんでだろう。悲しくなってきてしまった。

 僕はすぱっと考えるのを止めて、色とりどりの光が織り成す夏の景色に集中した。するとやっぱりとても美しい。夜風もひんやり気持ち良かった。

 

「……」

「……」


 ドキっとした。

 冷たい石段についた僕の手の甲に、倖果の指が触れていた。


「…………」


 指先のぬくもりとかすかな震えが皮膚を通して伝わってくる。

 彼女の方を向きたかったが、何かが僕の首を横に回すのを押し止めた。

 僕は前回の祭りを思い出した。そういえばこんなこともあった気がする。

 そう、たしか僕はあの時――


「――――っ」


 倖果がこくりと息を飲んだのが、振り向かなくてもわかってしまった。

 手を取り指を絡めたい。

 湧き出た想いに、僕は素直に従っていた。

 それはいつか――前回、主観時間で一年前の、一回目のこの祭りで――僕ができなかったことであった。

 石段についた二つの手が一つに合わさりつながっている。絡めた指の間からは倖果の脈拍が聞こえてきた。このまま手がアイスクリームみたいに溶けてしまえばいいと思った。

 やがて最後の一発が盛大に咲いて、二〇十四年の乳楢の夏祭りは終わった。



 **



 また満月だった。どうも最近縁があるらしい。

 神社からここまでの帰り道、僕たちはつないだ手を離さずに何十分も歩いてきていた。僕も倖果もずっと伏し目がちだった。お互い一言も発していない。溶けあった指の一本一本から温度や鼓動が伝わってきて、間に何も挟みたくなかった。倖果の下駄の音だけが、わざとらしく夜の歩道に響いていた。

 やがて住宅地に入り、未来でフラれたあの街灯の前に来た。

 手の震えを悟られないよう抑えるのに必死だった。


 ……僕は何を言いたいと考えているのだろう。

 何を言おうとしているのだろう。

 彼女の気持ちを僕はすでに知っている。ダメに決まっている。今言おうとしていることは、彼女を困らせるだけの自分勝手なわがままに過ぎない。

 そんな個人的な欲望を叶えるために僕は戻ってきたわけじゃない。

 そのやり直しはおそらくきっと、恐ろしく汚い行為だろう。

 けれどもそう考える一方で。

 時間を遡って事実をリセットしてきた以上、それは僕に与えられた正当な権利である、と考えている自分もいた。


「…………」


 試してみるくらい良いじゃないか。僕は諦めの悪い人間で、だからこんなところまで来たのだ。もう一度断られたとしても為すべきことが変わるわけじゃない。僕は倖果を乳楢から連れ出す。その時気持ちが結ばれていれば、この街に留まろうとする彼女を引っ張り出す牽引力にもなるだろう。よし、自己正当化完了。

 

 それに。

 ハッピーエンドをこいねがうのが、悪い願いなわけがない。


「……え?」


 つないでいた手を離すと、倖果は驚いたように小さく声をあげた。

 その場に立ち止まった僕の方に、華奢な体ごと向き直る。

 白い街灯を間に挟んで、僕たちはまっすぐに向かいあう。

 倖果は街灯の数歩先で、俯いた僕を訝しげに見つめている。

 悲しいことがあった。つらいことがあった。

 だからこれは、そんな僕に与えられた、いわば一種のボーナスチャンス。


「倖果――」


 心を決めて、顔を上げた。




「――――――――――――――――――――」




 本当に、意味がわからなかった。

 何がおかしいって、何もかもがおかしい。


「……どうしたの?」


 怪訝な面持ちで一歩近づいてくる倖果に、しかし何も答えられない。

 視線が、思考が、全身が。

 道の先の暗闇、倖果の数メートル背後に縫いつけられた。

 圧倒的に理解できない物体があったからだ。


「――――――――――――ぇ?」


 夜闇の奥で、チカチカとレンズのようなものが光っている。

 その全体は、丸い輪郭をしていた。

 クレーター状に隆起した表面と、合間で光る無数のレンズ。

 鉛色をした硬質の球体だった。地面から少し浮いている。

 まるで、地獄の月のように。


 未来に遠ざけたと思った死が、暗闇の中に再び姿を浮かび上がらせている。


 絶対にあるはずのないモノ。

 あってはならないモノ。

 鈍色の死。

 現実。


[災禍]が、そこにいた。


「……ねえ、どうしたの? 本当に大丈夫?」


 心配そうに、目の前で小首をかしげる倖果。

 踏みしめた地上には、昏い月。

 夜空では黄色くて丸い月が、けらけらと僕らを嗤っている。

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