エピローグ<Sumio-8>

8-1.打ちあげ花火

 長い石段を上り終えると、鳥居の前で神奈坂が待っていた。


「五時五十五分。五分前だな。よろしい」


 口元をゆるめて笑う神奈坂。夜の清流のような美しさだった。青地の浴衣には白い百合の柄があしらわれており、長い黒髪はサイドテール、肩の前にさらりと流している。

 彼女の背中で茜の雲が、二つゆっくりとたなびいた。


「お待たせ」


 境内はすでに人でごった返している。祭囃子の笛の音が、人の喧騒を通ってこちらへと流れてくる。

 終業式前日、海の日の夜の夏祭り。

 僕は神奈坂、チバ先輩と神社で待ち合わせていた。


「チバ先輩は?」

「ああ、予備校で少し遅れるってメールがあった。六時半までには来るから、先に適当に回ってろってさ」

「よ、予備校ウ?」


 チバ先輩と予備校。まったく結びつかない組み合わせだ。プテラノドンとさぬきうどんより遠い。


「アイツも一応受験生だからな……」


 遠い目をして呟く神奈坂。空でカラスがカーカー呆れたような声で鳴いている。


「チバ先輩って頭良いの?」

「わけもなく悔しいが、すごく良い。家でもよく勉強している」

「はあ……なんかなりたい職業とかあるのかな」


 歯噛みする神奈坂に訊くと、


「いや、なりたい職業ってのは訊いたことないな。どうなんだろう」


 顎に手を当てて考えこんだ。つられて僕も考えてしまう。

 チバ先輩の将来……かくも予測できない事柄があるとは。後で本人に質問してみよう。

 でも、将来が気になるといえば、彼女だってそうだ。


「じゃあさ、神奈坂は将来なりたいものとかある?」


 問うと、彼女はきょとんとした顔をして、


「……考えたこともなかったな」


 石の地面に目を落とし、寂しそうに微笑んだ。

 いつかラーメン屋で見たガラスの笑みに近かった。けど、ヒビ割れてはいなかった。自嘲と反省を織り交ぜたような表情。じっと見つめてしまっていると、彼女は突然ふっと顔を上げた。


「そういうキミはどうなんだ?」


 今度は一転、ニヤニヤしている。


「……とくにありません」

「うん、そうだろう。まだ高一なんだから当然だ。それで良いんだ、みんな」

「……とりあえず、勉強しようか」

「そうだな」


 中間試験の時みたくまたジュジュさんに怒られるし、と神奈坂が小さくこぼす。


「神奈坂ってもしかして成績悪い?」

「悪いが、悪いか」

「悪いけど、悪くないね」


 黒縁メガネとのギャップが良い感じだ。

 まあ、僕も期末は散々だったので人のことは言えないのだけど。

 明日返ってくる通知表は間違いなく華乃さんを激怒させるだろう。文武両道がこなせていた倖果の例があるのでたぶん言い訳は利かないし、倖果のことで変な気遣いをさせるつもりもない。

 

 ――ここ数日、華乃さんの物言いに気兼ねがなくなった。

 いや、元から遠慮は感じなかったが、いっそうフランクになったというか。

 これまで住生君だったのが住生呼びになったのが最たる例だ。

 何か、けじめをつけようとしているのかもしれない。

 あるいは華乃さんも、倖果との別れを済ませられないでいるのかも。僕のように。


「おお、見なよ閑馬。あそこの屋台、ホルモンたい焼きだと。いってみよう」

「今年もあるのか……待ってくれー、それはそこそこいける」


 下駄を鳴らして先を行く、神奈坂の背中を追う。

 いつか見た光景にとても近い、だけど全然違うもの。


 咲麻倖果は今もなお僕の中の大半を占めている。たぶんずっと、死ぬまで残り続ける。けれど、そんな僕でもいつか、誰か別の人を好きになるのだろうか。もしも誰かと好き合えたのなら、結婚したり、家庭を持ったり、そんなこともできてしまうのだろうか。

 それが汚いことなのかどうか、今の僕にはまだわからない。


「ああ、ホントにうまいなコレ。ほら閑馬、キミの」

「神奈坂もゲテモノ食いの気があるのか……」


 けれど。

 かつて夢のように存在していたあの日々は、二度と訪れないものだと理解しなければならない。

 それはファンタジーと変わりないけれど、いつかたしかに、本当にあったことだから。

 悲しくても、思い出と呼ぶんだ。


「次行くぞ次! 閑馬遅い!」

「なんで完全にリードされてんだろ……」


 東の空から、青く閉じていく。


「異文化フライだとさ。ほれ」


 けったいなフォントの屋台で勘定を済ませた神奈坂が、串に刺したハムカツみたいなものを突き出してくる。


「……何それ?」


 受け取りながら訊くと、


「なんだ、文化フライ知らないのか? その亜種だろ」

「そんな昭和っぽい食べ物は存じ上げない」

「無知を誇るな。……そうか、昭和か……ババくさいか……」


 微妙に傷ついた顔をしているのが気になる。昭和というワードに何か感じるものがあったのだろうか。いつかの華乃さんみたいだ。

 かじってみると、表面はカリっと、中はもっちりとした食感だった。砂糖とソースの甘じょっぱさが鼻の奥にまで抜けていって、食べたこともないのにノスタルジーを感じる味わい。


「うまいだろ? どのへんが異文化なのかわからないけど」


 得意げに言う神奈坂に頷くと同時に、


「せんぱーい!」


 祭囃子と喧騒の奥から聞き覚えのある声が響いてきた。

 声のした方向を向くと、境内の道の先から、人ごみを縫うように女の子が小走りで近づいてきた。

 水色の生地に貝殻模様の浴衣、普段おさげの髪は解かれてアップに。

 僕たちの前で遠近が、膝に手をつき、肩でぜーぜー息をする。


「はあ、はあ……やっと見つけた……ってあれぇ……なんで二人……」

「え、見つけたって探してたの?」


 驚いて問いかけると、遠近はぱっと背筋を伸ばし、


「ちちち違いますよ! 遠くから発見しただけです!」


 慌てたように両手を突き出し、ふるふると震わせる。

 そして首を二度左右に振り、僕と神奈坂を見比べている。落ち着かない奴だ。


「……で、デートですか?」


 上ずった声でなんだか艶やかなことを訊いてきたので、今度は僕と神奈坂で揃って首を振った。

 僕は横に、神奈坂は縦に。


「あ、やっぱりそうですよね先ぱってえぇえ――――っ!?」


 ええってのけぞりたいのは僕のほうだった。

 貧血みたいにふらふらし出す遠近をよそに神奈坂をじろりと睨みつける。まあまあ、と押さえるように両手を僕の方に突き出して、神奈坂は遠近に話しかけた。


「これからチバも来るんだ。一緒に回るか?」

「い、いえ、断固おこ、う、ぬ……よろしければ、お供させて頂きたく存じます」


 にこやかな神奈坂の申し出に、遠近は逡巡した挙句に頷いた。

 三人並んで境内を奥へと進みながら、左隣の遠近に声をかける。


「ときに遠近、祭りには一人で来たの?」

「う、いいじゃないですか別に。……そういえばですね、本告先生も一人で来てますよ」

「本告さんが?」

「はい。さっき鳥居の近くで会いました。ゆっくり回っているみたいです」


 ちらりと横目を右隣に送ると、神奈坂が複雑な表情を浮かべていた。

 安堵と心配の色。本告さんの話題が出るたびに、彼女はそんな顔をする。



 ――あの日、あの夜明け、あの校舎にて。

 本告さんは自害を試みた。

 彼女の突然の行為を止めたのは僕でもチバ先輩でもなく、先輩を押しのけて飛び出した神奈坂だった。

 廊下に本告さんを押し倒した神奈坂は、泣いていた。

 下敷きにされた本告さんもまた、声も出さずに延々と、朝陽が出るまで泣き続けていた。

 その後も本告さんは学校に勤務し続け、司書室では平静を保っている。

 彼女の内心は誰にもわからない。

 以前と変わらずのうのうと司書室に訪れては遠近たちと昼食を食べる、僕の気持ちの方もわからない。

 本告さんの願っていたことは僕にも理解できてしまう。

 だからいつかは、彼女を許す日さえも来るのか――もしかしたら僕はそれを信じて、今も司書室に顔を出し続けているのかもしれない。



「にしてもチバ先輩遅いね。どうしたんだろう? E判定でも食らったのかな?」


 意識して話題を変えてみると、


「…………ツ……ッ!」


 ばっちーん、と盛大な音が響き渡る。何故か背中をぶっ叩かれていた。


「いやーごめんごめん模試が爆発してさー! って何この状況。スミーが両手に花してるー! ずるいずるい!」


 激痛を堪え、背中を丸めて振り返る。

 デニムのショートパンツにTシャツ姿のチバ先輩がいた。神奈坂と遠近の首に片腕ずつ回して、バカ殿みたいな笑顔を浮かべている。


「いやーでも花火には間に合って良かったー! まだ時間あるけど、どこで観るか決めとかないとねえ。ツッキーとサヨちんはどっか良い場所知ってる?」

「いえ、すみません……」

「すまない」

「いやあたしも知らないし謝ることじゃないってばさ」

「社の裏手に開けたスペースがありますよ。あそこなら四人でゆっくり観られると思います」


 提案すると、チバ先輩の目がきゅぴーんと光った。


「ほほう、ナイス情報。どれ、褒美にサヨちんをくれてやろう」


 人質解放のアクションで、どん、と遠近を僕に突き出すチバ先輩。


「うひゃあ! や、やめてください千葉先輩!」

「……えっと、僕は遠近と肩を組めば良いのかな?」

「やめてくださいぃー!!」


 真っ赤になった遠近の悲鳴と、僕たちの笑い声が、人ごみの中に溶けていった。

 そうして僕たちは色んな屋台を冷やかしながら、あーだこーだと言いあいながら、境内を社の方へと歩いていく。


「あ。先輩見て下さい、いましたよ!」

「ん?」

「柵の前、ほら!」


 気がつけば、辺りに夕暮れの色はもう残っていなかった。

 人のにおいのする風が吹いた。もうすぐ、夜空に花火が打ちあがる。

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リバーストレイル -逆巻く世界と君のいない街- 今崎かざみ @n_method

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