2-3.デートと住生と倖果の倫理
魔術部に入部してから三週間が過ぎた。
慣れてくると、訓練の日々は充実していた。朝起きたら倖果と朝食を食べて、バカ話をしながら登校して、面白かったりつまらなかったりする授業を受けて、昼休みは本告さんの司書室で、前より比較的多く話すようになった遠近とテーブルの対角で昼食を食べて、そこにはたまにチバ先輩やら部員の誰かが混ざっていて、その後また面白かったりつまらなかったりする授業を今度は満腹からくる眠気と戦いながら受けて、時に敗北し、放課後は家に帰ってから夕食まで泥のように眠り、華乃さんの帰りが早い日は三人で食卓を囲み、しばしの自由時間には宿題やテレビやゲーム、深夜になったらジャージに着替えて学校までランニング、着いたらトラックを回ってから筋トレ、そして五人での模擬戦闘訓練、終えたら一人射撃訓練、それも終えたら倖果と一緒に家に帰って朝まで眠る。
魔力をもらったおかげか、あの活性化の日以降、体力というかバイタリティが上がったような感じがあって、一日中眠いということもなくなった。とはいえ体の底に疲労は積もっていて、眠るときは死ぬみたいに眠る。時々このまま起きないんじゃないかと思ったりもするのだが、寝覚めはたいがいシャッキリしている。
今までぼんやりした気分で食べていた一食一食がやけにうまい。そのせいでお腹が減って仕方がない。
季節が夏に移り変わるのとともに、細胞が入れ替わっていく感覚があった。
僕はいつからか失っていた生活のハリを取り戻していた。
**
倖果と二人で休日に出かけることは実のところそう珍しくない。
月に一度くらいは買い物や映画に付き合わされて、乳楢から隣町の若山まで様々な場所へ行ったものだ。不思議とこれらの外出では色恋沙汰を意識しなかった。
いつかの学校での昼食時、そのことをチバ先輩に話したら「なんであんたらくっついてないの?」と真顔で訊かれた。こっちが訊きたいですと返したら弁当の卵焼きを奪われた。遠近にはからあげを奪われた。女心は理解し難い。
僕としては、単に倖果にはあまりその気がないんじゃないかと思っている。
客観的に見て僕には、男性として、もとい人間としての魅力が薄い。品行方正才色兼備、学校でも男女問わず人気があり、友達も多い倖果とは到底つりあわない。
けれど、こっちから行けばあっちが引き、あっちから来ればこっちが引く。
寄せては返す波と、波打ち際で足を浸さないよう行き来して遊ぶ子どもみたいな関係が、思えばずっと続いていた気がする。
向こうがかけらでも足を濡らしたいと考えているならば、大海原たる僕はもはや全力をもって食らいつかなければならない――のだが。
「『RELIE―BE―TOMORROW ~女はバビロンに
電車に乗って二駅下り、隣町の若山シネマに来た。
土曜日の朝の映画館は思ったほどには混雑しておらず、予定より到着が遅れながらも余裕をもってチケット交換に並ぶことができた。それまでは良かったのだ。
劇場のチケットカウンターで前売り券を交換し、その時カウンターの上の電光掲示板に表示された副題付きタイトルに目を剥いて、上映するシアターの横に貼られたポスターの前で僕は茫然と立ちつくしていた。
「『バビロンに哭いた』……」
でかでかと掲げられたポスター。両手の飲み物を取り落しそうになりながら愕然と見上げてみる。横たわった筋肉質のタンクトップ男を腕に抱いた金髪美女が泣きながら天を仰いでいる。その背後では潰れた黄色いタクシーやらパトカーやらバスやらがひっくり返って折り重なり、水上花火もかくやと盛大に爆発。上部の暗い夜空には怨霊のような邪悪な形相が浮かび上がっている。よく見ると背景の奥に白い神殿のようなものが建ち並んでいる。
抱かれている主演の男はハリウッドに名だたる演技派イケメン男優、トムさんだった。この人の出る作品はたいてい脚本も良く、また脚本が残念でもたいてい興行収入は良い、商業的に百発百中のお方だ。
前売り券に印刷されていた画は相当簡易的なものだったらしい。そして副題も書いていなかった。眼前のポスターから立ちこめる圧倒的なB級のかほりに無意識のうちに後退る。金髪美女より僕の方が泣き出してしまいそうだった。ポスターの下端を見る。『全米が泣いた!?』疑問符をつけるな。
こういうのはパイルバンカー遠近が好きだろう。間違いなく。観る前からわかる。
「ごめん、待たせちゃった? スミオはホントにトイレ大丈夫?」
上映前に花摘みに行っていた倖果が戻ってきた。淡いピンクのひらひらしたチュニックに白いカーディガンを羽織り、レギンスと合わせた、彼女らしいふわっと柔らかな姿。いつも出かけるときの私服とおそらく何ら変わりない。当たり前だけど。
僕も変に気合いを入れた格好は気恥ずかしくて、Tシャツに普通のカットソーを重ねて下は着古したジーパンだ。
そう、「いつものお出かけ」を意識したのだ。ゆえに映画の予習もしなかった。よもやこんなクソ映画――いや見る前から決めつけるのは失礼だけど――が海を渡り全国ロードショーなどといったい誰が想像しただろう。
「スミオは意外なトコ突くよねー。ヒット映画を観に行こう! っていうからてっきり『明日見た君と昨日の僕のために』のことかと思っちゃってたよ。あれしんみり泣けるらしいんだよねー、公開日に観に行った友達なんかわんわん泣いちゃったって!」
「そんなに泣きたきゃ鼻にねりわさびでも詰めとけ」
「スミオは自分の言動のひどさとか少しは気にしたことないのかなあ?」
「倖果ののっぺらぼうみたいな台詞回しよりましだよ」
「スミオの気が違ってるからバランス取ってるんだよ」
「大体しんみりなのかわんわんなのかどっちなんだよ。こっちは全米が泣いたんだから間違いないんだ、行こう」
というか、行くしかない。前評判は知らないがここはチバ先輩のセンスと全米とトムさんを信じたい。信じる他ない。
僕は倖果を連れて、ワイン色の座席が並ぶ五番シアターへと踏みこんだ。
――映画の内容はこうだ。
アメリカはロサンゼルスにて。交通事故でとある男が脳死状態となった。悲しみのあまりオカルトに走った恋人の女は、自身の寿命を代償に用いる古代バビロニアの暗黒数秘術(暗黒数秘術!)を用いて闇の大魔神を召喚し、男の脳の蘇生に成功する。しかし魔神は術の代償に女の家族の命までも求める。女はそれを断固拒否。
要求を拒否された魔神は男を再び事故に遭わせて、元の状態に戻して消える。女は再び術を行使し、今度は別の魔神を呼び寄せて男を再び蘇らせる。
女は前回同様、家族と自身の命を要求されるが、それを拒否しつつ男を魔神の手から守ろうと試行錯誤を始める。しかし何度交通事故を防いでもメジャーリーガーの場外ホームランボール、銀行強盗の銃撃の流れ弾、会社のデスクトップパソコンの爆発、お隣の女子高生レミィがふるまう激辛カレー、市販のチョコチップクッキーに混ざっていた火薬、落雷、暴風、心筋梗塞など、予測しえないコミカルな(?)アクシデントが蘇生する男を次々に襲い、幾度となく脳死に戻していく。
最後には半ば発狂し、男を自宅の地下に監禁し一歩も外に出さなくなってしまう女だが、自身の昏睡と復活の繰り返しに異常さを感じ取っていた男はある日女の数秘術の本を見つけ、自分を巡る一切の事実を知る。女の寿命が削れていることにショックを受け、もう術を止めようと女を諭す。
悲しみながらも女は男の死ぬ決意を受け容れ、二人で悲しくも優しい最後のひとときを過ごす――過ごした。
なんでか男は死ななかった。
最後に召喚した魔神は融通が利くナイスな魔神だったのだ。男の寿命をちょびっと頂戴して魔神は消えた。蘇った男と女は二児をもうけて幸せに暮らしたという。フィン。
「なんつー映画だ」
青空に浮かぶ太陽の眩しさから逃げるように、劇場近くのファミレスへと入り、二人ともオーダーを済ませてから僕はげっそりと呟いた。率直に「クソ! ファッキンクソ!!」と叫びたかったが、間違えて倖果が面白がっているかもしれないので表現を「なんつー」で留め置いた。
ヒットしたのは単に主演がトムさんだったからだ。これは間違いない。でもタンクトップトムさんの事故りっぷりは笑えた。
「えー? 私は好きだよ? トムさん面白かったし」
言外の不満を読み取った倖果が、お冷を飲みながらにっこり笑顔で言葉を返した。
同じ作品を見たり読んだりしても、倖果とはいつも第一声では違う感想が出る。感性が合わないのかとも思うが、お互い何だかんだで楽しんではいるから不思議なものだ。
「うんトムさんは面白かった。いや、そこじゃなくて。ラスト。一応の理屈はついていたけどなんというか、ハッピーエンドへ急転直下しすぎだろうというか……遠近あたりは好きそうな感じするけどさあ……」
「ふぇっきし! ふぇっきし! ふえぇえっきしゅ! ぅ、ヴ、うェ……ぞれにじでもよがっだでずねぇ、……ぅうぅうぅ……」
「ぅおきたなっ! あーわかったから落ち着いてサヨちん! ティッシュティッシュ……どーどー……騒ぐと見つかっちゃうから……」
「ぐじゅぐじゅ」
向かいあった倖果の背もたれを挟んで二つ先あたりのテーブルから聞き覚えのある声が聞こえたような気がする。幻聴ということにしておこう。
「ハッピーエンドってそんなもんでいいんだよー。開き直ったご都合主義! って感じ、私は嫌いじゃなかったよ。魔神のなかにも良い人……じゃないか、良い魔神はいたってお話だし。スミオはああいうのダメだよねー」
「うーむ、得意かといえばそうではない」
「まだまだ青いですねー」
からかうように倖果は目を細めてニヤっと笑う。
「なんだとう!」
それから僕のメキシカンピラフと倖果の夏の期間限定メニュー・バニラサラダうどん――倖果はファミレスに来ると決まって珍しいメニューを頼み、その味を自宅で再現しようと試みる――が同時に運ばれてきて、僕たちは料理を食べながらトムさんの死にざまについて思うさま語り合った。僕はレミィのカレーが、彼女は唐突な落雷がとくに笑えたらしい。
「まだ結構時間あるけどどうする?」
食後のメロンクリームソーダのアイスをスプーンストローですくいながら倖果が訊いてきた。
「こいつ。もらったんだけど、行かない?」
チケットを財布から取り出して見せる。彼女はわあっと目を輝かせた。
「あ、ドリームランド? 久しぶりだねー! 行こ行こっ!」
**
若山ドリームランド。
日本有数の大観覧車を名物として掲げている、廃園寸前の遊園地である。
人気の出ない最大の要因はマスコットのワカヤマくん。芸術的に可愛くない。幸せいっぱいで訪れるカップルやファミリーをアイロニカルにせせら笑う薄く開いた弧の字の目。ヒト科に属する生物すべてを舐めくさるようにしゃくれた口元。カンガルーの胴体にコアラの頭を乗せて全身に斑点をぶちまけた前衛的すぎるデザイン。こいつのマークが遊具の至るところにシンボルされている。一目見た時は笑い、十を数えれば恐怖を覚え、遊園地を出る頃には憎しみさえこみ上げてくると巷でも評判のセンスだ。ちなみに部員のみんなには可愛いと評判が良い。頭おかしいんじゃないかな魔術師ってヤツは。
一方でアトラクション、とくに絶叫系はなかなかにレベルが高いらしく、平日のガラガラ状態のときには遊園地マニアが多く訪れるという。
今日みたいな休日でもわりと空いていて、午後からでも十分楽しめるのが嬉しい。経営者的にはつらいと思うが、刻印した以上マスコットは変えられないだろう。
何だかんだで若山市の名物スポットなんだし、これからも頑張ってほしい。
「スミオから行きたいなんて言うとは思わなかったよー」
そして僕は絶叫マシーンが苦手だった。頑張ってほしい。
入り口のゲートを通り抜けて、すぐ目の前でキャッキャとはしゃいでいる小さな親子連れについていく。防衛本能に従っているのだ。左前方の子ども向けアトラクションが立ち並ぶ方角へと足を進める僕の右手を倖果がわっしともぎ取り掴んだ。ときめきなどない。
「じゃあ手始めにフォール系から行ってみよっか。あっちのアトラクションとか並びも少なそうだし。れっつらゴーぅ!」
「待って咲麻さん手を引っ張らないで。僕から誘っておいてなんだけど、やっぱり僕こういうのは大人になってから楽しむものだと思うんだ。僕らまだ高一だよ? 若いみそらで一時の衝動に身を委ねるのはいけないよ。そんな刹那的な生き方しちゃあいけない。清いカラダは大事にしないとね。だからまずはあそこのコーヒーカップあたりでその」
そして僕は落ちた。
揺れた。
浮いた。
逆さまになって飛んだり跳ねたり回ったりした。
次々に襲い来る絶対的な状況に懇願も絶望も水洗トイレのごとく押し流されていく。人間はこんなモノに耐えられるようには設計されていないはずだ。青い空をバックに視界を踊るワカヤマくんの群れが吐き気をより加速させる。なるほどこれが憎悪か。僕は倖果の狂騒めいた笑い声を傍らに、園内を歩くブサイクな着ぐるみにどんな嫌がらせをしてやろうかとマシーンの座席でめらめら暗い闘志を燃やした。しかしそんな思考も上下左右にかかる遠心力で放り飛ばされた。
「あはは……ごめん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない大丈夫じゃないもう全然大丈夫じゃない」
あっという間に夕方だった。
全体的に並びの少ないドリームランドのアトラクションは通常の遊園地よりずっと早いペースで回っていける。おかげでアトラクションごとのインターバルが少ない。イコール休憩する暇がない。
膝に手をつき深く深呼吸。ここまでほぼ絶叫づくしだった。この遊園地に来た以上、他のアトラクションを選ぶのは損というものなのだが。
一通り堪能した僕たちは絶叫系と唯一張ることのできる看板アトラクション、大観覧車の列に並んでいる。
「ホントごめんね、なんか無理やり付きあわちゃって。飲み物買ってこようか?」
「あーいや、実は大丈夫。小さい頃みたく体調崩れたりはしなくなったから。倖果もたぶん、それは知ってて連れ回してたでしょ? ただ、自分でコントロールできない状況に身を任せている感じがなんかダメ」
それに、倖果に振り回されるのは昔からずっと好きだった。
「スミオらしい」
口に手をあてくすっと倖果が笑う。どうしてか僕は恥ずかしくなって、彼女の顔から目線を剥がして正面に並ぶ列の背中を見た。
ほどなくして僕たちの番が来る。係員に案内されながら赤いゴンドラに乗りこんだ。六人乗りの広いスペースで、僕たちは斜めに向かいあって座った。
バタンと音を立て扉が閉まって、ゴンドラはゆっくりと空に昇っていく。
「最後にこれ乗ったのっていつだったっけ?」
「お母さんと私とスミオで来た時だから、たしか小学六年生の頃だよ」
もうそんなに来てなかったか。首を伸ばして外界に視線を巡らせてみる。
「……知らない街みたいだな」
若山には小学生の頃から何べんも来ていたはずなのに、街が四年でどう変わったのかさっぱり見当がつかなかった。
「そうかな?」
倖果はこちらを見ずに短く答えた。
眠たそうにも見える眼差しを窓の外に向けて、夕暮れに染まる街並みをぼんやりと見下ろしていた。
しばらく僕も景色に集中することにする。
徐行する電車にも似た静かで落ち着いた機械音が、夕陽に照らされる小さな密室を満たしていた。近くの家やビルが次第にミニチュア模型じみていき、遠くの建物は意味を失った橙色の凹凸に均されていく。
山々の稜線の谷間に金色の太陽が落ちかけていた。
反対側に敷かれた海には街並みよりも一足先に夜の暗さがたゆたっていた。
景色が撮影モデルのような非現実の装いをおびてきたところで、視線を外にやったままで倖果が話しかけてきた。
「ねえスミオ」
「うん?」
「なんでスミオは魔術部に入ったの?」
倖果がこちらを振り向いた。首を少し傾げて、目を通してじっと心の奥底を覗いてくる上目づかい。道を尋ねる小さな子どもに近いそぶり。
ちょっとだけ怯んだ僕は、どう返すべきか迷って、言った。
「倖果を守るため」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
間違えたっぽい。
どうして僕という人間は返答に窮してしまうと一番選んだらやばそうな言葉に引きこまれつい発してしまうのだろう? 沈黙が重い。倖果の強ばりが伝わる。観覧車内が生温い水でいっぱいに満たされたみたいだった。ものすごく恥ずかしい。溺れそうだ。
「今はチバ先輩や神奈坂さん、本告さんのためっていうのもあるけどね」
慌てて付け加えた言葉はどうにも軽く、宙に浮いてしまっていた。彼女たちと倖果の間に不等号をつけたことなんて一度もないのに。自分の言動のはしたなさに自己嫌悪に陥っていると、倖果が柔和な笑みを浮かべた。仕方ないなあ、というような表情だった。
「ありがと。嬉しいよ、スミオ」
「…………」
それからはもうどうしようもなくバツが悪くて、彼女の方に顔を向けられなくて、僕は燃える家々のミニチュアをひたすらに睨みつけていた。
「逃げたらダメっていうのは嘘だよ」
頬と髪の毛を夕陽に赤く濡らした倖果が、ぽつりと呟いた。
唐突に切り出された一言。僕は彼女が何を言っているのかわからなかった。
「今スミオが乳楢から別の土地に逃げても[災禍]は標的を、私たちから乳楢の街の人たちに切り替えたりはしない。……本告先生に聞いたんだよ。スミオを勧誘する時、街から逃げたらどうなるかについて訊かれたって」
部活の話だった。なんとも情けない一幕を吹聴されてしまっていた。思わず額を手で押さえる。
「あはは、別に情けなくなんかないよ。普通なら訊くことだよ、それ」
両手を膝の上で組んで、向き直った倖果が言葉を続ける。
「あのね、[災禍]は何の前触れもない突発的なモノなんだよ? いつ来るかなんて普通なら予測できない。……過去の外国の事例を調べたらね、偶然魔術師が一人[災禍]が来る直前に土地を引っ越した、なんて例があったの。けれどその時の街の住民は、今でもみんな無事だった。だから[災禍]の標的になるのは『[災禍]が出現したその瞬間に』その土地に滞在する魔術師」
倖果は何故か悲しげに笑った。
「でもさ倖果、本告さんは七月に来るってわかっているみたいだけど」
「なんで本告先生が予測できるのかはわからないけど、あくまで本来なら予測不可能なことなの。だってそれがわかるなら[災禍]で魔術師が死ぬなんてありえない。みんな[災禍]が来る前に逃げるよ。台風や津波が来るのがわかって、避難するみたいに」
「……ああ、それもそうだ。なるほど」
言われてみればその通りだった。
その時僕の脳裏にふいに、そもそも[災禍]が来るなんて本告さんの嘘っぱちで、本当はそんなの七月になっても現れないんじゃないか、という考えがよぎった。
その楽観的で明るい思考と本告さんの真剣な態度、みんなとの訓練の日々を比べてみた。
前者を切り捨てざるを得なかった。
「予知の魔術でも絶対に無理なことなんだよ。本告先生自身が何か特別な術式を宿しているのか、誰かものすごい、予知以上の予知? ができる人に頼んだのか……」
「……ん? けど待ってよ倖果、仮に倖果の考えが正しかったとして、それでも本告さんは僕に『逃げたら殺す』って脅して――」
「それくらいスミオに協力してほしかったんじゃないかな」
そうだったのだろうか。あれが単なる脅迫だとは到底思えなかったのだが。
「だから、今から逃げても大丈夫なんだよ?」
膝の上に組んだ手に視線を落とし、倖果は抑揚なく言った。
ゴンドラが頂点に差し掛かった。
夕方の橙と夜の青の境界に、僕と倖果は浮いている。
「ならなんで倖果は逃げないんだ?」
僕は問い返した。
倖果だけじゃない。もしそれが本当なら、どうしてチバ先輩も神奈坂さんも、本告さんも、乳楢から逃げないんだろう?
倖果は答えなかった。答える代わりに顔を上げて、視線を茜色の窓外、はるか遠くに向けて、こう返した。
「ねえスミオ。どうして魔術師なんているんだろうね?」
「え?」
「どうして魔術なんかあるんだろう。この世界にそんなものさえなければ[災禍]なんてモノもなくて、それで、…………」
倖果の言葉が途中で止まった。表情が乾いた笑みで停止していた。
僕には倖果がわからなかった。
けれど、いつも触れたら柔らかそうなその表情が、今はつついただけで崩れてしまいそうなヒビ割れたガラスに見えて。
見ていられなくて、考えなしに割りこんだ。
「僕は悪いことばかりじゃなかったよ」
え、と小さく声をあげて、倖果がわずかに目を丸くした。僕は続ける。
「魔術がなかったら本告さんとも、チバ先輩とも神奈坂さんとも知りあっていなかったし。訓練は痛いしキツいけど、正直言うと楽しい。充実してる。あんな自分でも持て余していたちからで、僕なんかが人の役に立てるのが、結構嬉しいんだ」
やりたいこととやるべきことが一致している今の状態には、生まれて初めて味わう充足感と心地良さがあった。半ば強制で入れられて、才能も目標もなく、ただ闇雲に走っていた中学時代の陸上部とは、似ているようであきらかに違っていた。
「――スミオは――ううん、ごめん。うん、そうだね。そうだよ」
言いながら俯きかけていた顔をぱっと上げて、倖果は笑った。
いつも通りの、タンポポみたいな優しい笑顔だった。
ゴンドラが下りに入っていく。
「あのあたりが燃えたんだね」
遠く霞んだ乳楢の街を静かな表情で見つめながら、独り言のように倖果はこぼした。
そうして大観覧車の一周、長いような短いような十五分が終わった。
**
乳楢駅に戻った時には、夕陽はほとんど暮れていた。
西の空の底には薄くリップを引いたような紅が、ぼうっと妖しく残っている。住宅地の家々はシルエットを残した影絵になり、僕たちの帰還を薄気味悪く歓迎していた。
「…………」
そして僕は言い出す機会を失っていた。
観覧車を降りる前にぶちまけてしまいたかったのだが、話の流れ上言い出しにくかったのと、フラれた際の帰り道の恐ろしさを想像して結局ヘタれて、とうとう家の近くまで来てしまっていた。あとは今歩いている通学路から角をひとつ曲がって坂道を登れば愛しの我が家に到着だ。言いそびれて帰宅してから告白なんてのはちょっと面白すぎる。言わないといけない。よし十秒数えたら言うぞ。十、九、八、無理。
と、気がつくと隣に倖果がいない。振り返るといた。並んで歩いていた彼女との距離がいつの間にか体ひとつ分離れていた。
そんなことにも気付かないくらいカチコチに緊張していたのか――羞恥と反省のゲンコツを脳内にイメージしながら、慌てて歩くペースを落とす。
「ありがとう」
倖果が笑って言った。
見慣れた顔に心臓が跳ねた。その拍子にか、手と手がかすった。
彼女は何事もなかったように平然と歩いている。今度は僕より半身前に出ていた。
「…………」
僕は彼女の白い左手に、自分の右手を伸ばしていた。
指先に指先が触れた。
「あ、そうだ」
すっと倖果の歩く速さが上がる。
捕まえようとした僕の手を、その白い手は魚みたいにするりとすり抜けた。
すぐ先に立っている街灯が夜の暗さに気付き、パチパチと音を立てて目覚めた。
「あのさ、スミオ」
たったった、と足音を立てながら軽く前に走り出て、倖果は街灯を背に振り向いた。すぐ近くにいるのに、急に
「今日は楽しかった! スミオから誘ってくれたのってすごく久しぶりだったよね。また行こうね!……で、実はちょっと買い物をし忘れていたのを思い出したので、私はこれから駅の方に戻らないといけないんだよ」
「あ、うん」
「ごめんね。じゃあまた後で」
街灯の眩しさにようやく目が慣れた時には、倖果は僕の横をすれ違いに通り抜けていた。振り返ると彼女はこちらを見て、小さく手を振って笑っていた。
夜に遠のいていく倖果の背中を見送りながら、僕は自分の意識までもがすぅっとどこか遠くへ消えていってしまう気がした。
なんとなく、この関係はもうずっと変わらない気がしはじめていた。
そもそもお互いの気持ちが本当に向かいあっていたなら、もっととっくの昔に僕たちはどうにかなっていたはずなのだ。八年はきっと僕が思っているよりも長い年月だ。それはアドバンテージなどではなく、僕たちが男女として結ばれないことの証左だった。
脳みその額のあたりがそんなクールな結論を下している一方で。
「――――」
後頭部はイカれたパソコンのファンみたいな音を立てて熱暴走を始めていた。
僕は必死にわめき散らしている後頭部の方に従わなければならないと思った。
そうだ。そうだった。そういうことばかりだった。
そういう考え方ばかりしてきたから、僕は彼女の足を濡らせなかったんじゃないか――
「倖果!」
呼び止めた。
**
チバ先輩にメールをすると、今は旧校舎で自主トレ中だと返信されてきた。
僕は私服姿のまま学校まで出向いた。真っ暗な旧校舎を囲むフェンスの端にひっそり設置された出入り口のドアを手前に開き、内側に入って後ろ手で閉じる。
顔を上げる。
B棟三階の片隅、射撃場となった職員室の窓から、蛍光灯の光が漏れている。つい先ほどまで、消灯されているように見えていた校舎なのに。
「いつもながら、不思議なもんだなー……」
ある程度旧校舎に近づかないと、電気をつけていても消えているように見える。チバ先輩の魔術『吸収』――音波や光波、そして魔力を奪う、彼女固有の基術式――を、旧校舎を中心にドーム状に薄く拡げているからだ。
以前手から出したままの、薄めていない状態の『吸収』を見せてもらったら、光を反射しない墨汁が先輩の腕の周りに何リットル分も浮いているようでひどく気味が悪かった。それを言ったら怒った先輩が墨汁みたいな闇色のそれをざばっと僕にぶちまけてきて、その日はずっと長距離走を終えた直後のような疲れが取れなかった。肉体の魔力をがっつり奪ったのだというが、詳しいことはわからない。
「たのもー」
職員室のドアを開くと、チバ先輩が作業机の上でうつ伏せに寝そべって漫画を読んでいた。何故か私服姿であった。
「や、やあスミー! 久しぶりだネ! 今日のデートはどうだったカナ? あたしはもう朝から訓練訓練でここから一歩も出られなかったヨ? 出てないヨ?」
首だけを上げ、パーカーのひもを揺らしながらワカヤマくんみたいな裏声で落ち着きなく応える先輩。
「あ、これみやげです。良かったらどうぞ」
「あ、ワカヤマくんクッキーだ! サンキュースミー!」
「先輩」
「お、おう。何かね?」
「いつか『なんでくっついてないの?』って訊いてきましたよね」
「うん」
「わかりましたよ」
「お、おう」
「しがないうんこの片想いでした」
「うん、……うんこ?」
――スミオとは、そういうふうにはなれないよ。
結局、最初の冷静な考えが正解だったというわけだ。
人よりも背が高いわけでも、顔が良いわけでも、頭が回るわけでも運動ができるわけでもない。
それなのにただずっと近くにいたというだけで、僕は彼女と結ばれる、いや、結ばれるべきだとさえ、無意識に、心のどこかで思っていたのだ。彼女と僕はつりあわないなんで実は本気で考えてなくて、そんなのただの予防線だった。
その証拠にほら、僕はこんなに傷ついている。
フラれたことを受け容れたくなく思っている。
喉と胸の間には醜くて汚らしい感情の雲が、行き場をなくして重たそうにもたれている。恥ずかしい。おぞましい。
八年間で膨れ上がった夢いっぱいの勘違いが風船みたいにぱんと弾けて、なかにあったのはちっぽけな自意識。恥ずかしい。悲しい。死にたい。ここから消えてなくなりたい。
そのくせみっともなくこんなところまで来て先輩の女子に慰めてもらいたがっているのだ。こんなんだからフラれるのだ。もうフラれたから別にいいけど。
思い当たっていたあれこれは一方的な思いこみだった。
はじめから彼女に足を濡らす気はなかった。
どうして僕はこんな人間になってしまったのだろう?
僕は女子高生レミィの手作りカレーでもんどりうって後頭部をテーブルの脚に打ちつけてアホみたいに死んでしまいたかった。
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