2.咲麻倖果と千葉綾佳

 入学して一週間後の放課後、閉館した図書室で本告先生に出会った。司書らしい。

 まず私の『識撃』を見せてほしいと頼まれたので、壁に設置された重そうな本棚を一通り軽く浮かせてみせた。先生は目を見開いて驚き、直後、とても哀しそうな顔つきをした。

 四年後の災禍に向けての訓練を自宅で少しずつ始めてほしいという本告先生の言葉に私はこくりと頷いた。

 元々そのつもりであった。

 夜の「教育」はなくなったが、魔術は自分で勉強し続ける。

 通常の魔術の練習の他、あの焼きごてのようなものを母からもらい受け、使用した。毎夜、それを用いて自分の体を舐める日々が続いた。心身が痛くて心地良かった。

 蛇口を拡げる――一度に燃やせる魔力の量を増やす訓練。

 針金虫を用いた自己洗脳。

 地下室での夜の戯れは、どこか自慰行為にも似ていた。

 もちろん昼の生活に支障は出さない。

 中学校に入ってからも私は良い子であり続けた。

 母との関係は良好だった。表面上はそう見えるように、お互いで良好を作り上げた。演技でも、続けていると次第にそれっぽくなった。時間には表面をならす力がある。

 友達も思いの外たくさんできた。見た目に気を遣って人当りを良くするだけで、生活はこうも容易い。心と体にはいつも、柔らかくて厚ぼったい微笑みの仮面を貼りつけている。感情豊かに仮面の表情を崩していくとナイスだ。

 他者に心を許したふりをするのも、いつしか慣れた。

 人と話せば話すほど、私は真実の自分を失っていく気がした。

 私はどんどん自分が嫌いになっていった。

 多くの部活動に、友達からも勧誘されたが、いずれにも入らなかった。

 この身を魔術に費やしたかった。夢や未来は不要だった。

 かつて母が私に与えた、夫を殺した[災禍]への復讐の道具としての生き方……そして[災禍]と戦う魔術師の役割を、完遂しようと思っていた。


 私は、私が幸せにならないこと、四年後の[災禍]にきちんと殺されることが、母をもっとも苦しませる生き方だと考えている。


 一方で、住生は陸上部に入部した。

 放課後、学校から出るのが遅くなった時、校舎の窓から茜色のグラウンドを見下ろすといつもトラックを走っている。何を考えて走っているのだろう。

 進学してからは、彼と話す時間も少なくなってしまった。学校で話す回数自体が減ったし、放課後は彼の方が部活動で忙しい。夕食の席と食後のひとときでコミュニケーションを図っていたが、疲れている彼は早く寝てしまう日も多く、残された私はとぼとぼと地下室に下りて針金虫と遊んだりしていた。

 そんな、嘘と無為と自己否定とすれ違いを織り交ぜたような日々が、一年も二年も続いた。

 いつしか、心が溺れた。

 何をしていても息が苦しくなった。





 中学二年も半ばを過ぎて、彼はまだ延々とトラックを回っている。

 他に部員は誰もいなくて、もう太陽も身を沈めたのに、薄暗い夕方と夜の境界をひとりぼっちで走っている。秋の木枯らしで身を切り裂きながら。

 三階の窓からじゃ顔ははっきり見えないけれど、どんな表情をしているのかは知っている。

 彼はひどく面白くなさそうに、けれど必死に走るのだ。

 いつか、つらいなら辞めてもいいんじゃないかな、と訊いたら「他にやることもないから」と苦笑していた。

 何か必死で探すように、追い求めるように走る彼の姿は、嫌いだった。

 なんで諦めないんだろう。バカみたいじゃないか。ない才能を磨いたって、誰も見向きもしないのに。価値なんか起こりえないのに。

 前に進んでいるようで、同じところをグルグル回っている。


「本当に、バカみたい」


 ぽつりと呟いた声が、思ったよりも廊下に反響した。


「どぅあれがバカだってえ~?」


 バカ以外の何物でもないような声が、廊下の奥から返ってきた。

 暗い廊下から現れたのは千葉綾佳――千葉先輩だった。

 先輩とは入学して少しした頃に知りあって、以後は顔を合わせれば話す仲だ。


「こんな時間に珍しいじゃん? 何してんのユッキー?」

「先輩こそどうしたんですか? もう遅い時間ですよー」


 小首を傾げて、柔らかく笑む。よし、巧くできている。

 私は千葉綾佳に、未だコンプレックスのようなものを抱いている。


「あたしは図書室で願さんとちょっとお話。で? ユッキーは?」

「教室に忘れ物を取りに来ただけですよ」


 住生を見ていたと正直に言えば良いのに、私はさらっと嘘をついた。

 嘘をつくのはいけないことだ。理由があって仕方なくつくケースもあるだろうが、本来なら咎められる前提のものでなければ世の中上手く回ってくれない。こんなにも平素に、何の意味もなく並べ立てて良いものではない。

 私の虚言を見透かしたように先輩は窓の外に目をやる。


「あれ、走ってるの。ユッキーの幼なじみ?」

「……はい。彼、最近いっつも遅くまで走ってるんですよ」

「スゲーな」


 感心する先輩に私は共感できなかったが、黙ってこくりと頷いた。


「ユッキーはさ、何のために戦うの?」

「……はい?」


 あまりに唐突な話題の切り替えについぽかんとしてしまう。

 先輩はぽりぽり頬をかきながら、申し訳なさそうに続けた。


「ごめん、アレ見てたら訊きたくなった。嫌なら答えなくてもいいんだ。……ユッキーやあの男の子はさ、今なら逃げてもいいんだよ」

「……え? 逃げたらダメですよ。標的になった魔術師が逃げたら、代わりに街の人が標的にされちゃう」


 当然の疑問を返すと、


「[災禍]は一年以上後だよ? この時点で居住している魔術師を標的にしているなんてありえないさ。[災禍]が現れる前に逃げれば、大丈夫」


 納得してしまいそうな論理を先輩は展開する。


「でも、確証がありません」

「そだね」

「……[災禍]の直前になったら、彼は逃がしますよ。元からそのつもりです」

「いや、彼は逃げないと思うよ。あれはあきらかに強い人間だ。ユッキーが逃げ出さなかったら、ユッキーを守るために、逃げずに一緒に戦うのを選ぶ」


 知ったふうな口ぶりに苛つく。

 話したこともない人間が、住生の何をわかるというのだ。


「じゃあ、千葉先輩はどうして逃げずに戦うんですか?」


 お返しに訊き返すと、先輩は平然と答えた。


「あたしは機構に街を任された土地管理者だから。管理職はつらいんよう」


 そしてにかっと明るく笑う。

 管理職の意味が違うと思ったが、私に彼女は眩しかった。

 理由も思考も、善で、強固だ。

 母への復讐と自身への嫌悪に囚われた私とは正反対。


「先輩は、強いですね」


 小さく呟く。


「んなこたない。……さっき彼を強いって言っといてなんだけどさ。みんな似たようなもんだと思うんだよね、強さなんて」

「似たような……ですか?」

「そ。殴られても蹴られてもノーダメージ! 我心身共々筋肉の鎧ナリ! みたいな人って、世のなかにはそういないと思うんだ」


 おどけたファイティングポーズを作りながら千葉先輩は語る。


「誰だって傷つけられたらそれなりに痛くて、怪我が長引くこともあってさ。それでもしゃんとして見える人は強いっていえば強いんだろうけど、どちらかというと強がりを突き通してるっていうか、強いふりをりきってるっていうか。……それは強いというよりも、なんつーのかな」


 もっと、尊いもののような気がする。

 そう先輩は結び、照れ臭そうにはにかんだ。


「……それは、」


 私は、納得しかねた。

 先輩の理屈は、私の「良い子の仮面」を――つらくても苦しくても、いつもにこにこ笑う仮面を、全肯定してしまうからだ。

 仮面もその人の一部だというのか。認めるわけにはいかなかった。

 それじゃ、仮面の下の真実の私は置き去りじゃないか。

 仮面と私は違うものだ。同一視されてはたまらない。そんなことをされたら、良い子の檻に閉じこめられた、私の意識はどうすればいい。


「それは欺瞞だと思います。そんなこと言える先輩は、やっぱり強いんですよ」


 失礼だと思いながらも、先輩の言葉に本音で答えていた。

 仮面をかぶって無難に返すより、仮面を肯定されてしまうほうが私にはずっと恐ろしかった。

 視線を床に落とした私を、先輩は無遠慮に眺めた。もう外も廊下もすっかり暗くて表情が読み取りにくいのだろう。

 やがて先輩が視線を外す。

 助かった――そう思った時、先輩が別の質問をした。


「訊き方を変えよっか。ユッキーは、何がしたいの?」

「――え?」


 何が、したいか?


「良い機会だから坏子に会っとおうか。彼女、結局学校には通えなかったんだ」


 その後、私は千葉先輩の家に行った。

 そこに住んでいる神奈坂坏子さんと出会った。

 彼女という人間は、めちゃくちゃだった。





 中学三年生になって、夜の訓練が始まった。

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