3.夏祭りの夜
「おはよー! 朝だよー! 起きろー! おらぁー!」
フライパンを右手、お玉を片手に、ノックアウトのイメージで打ち鳴らす。
おどけるのは楽しい。自分の人格や思考、精神をプラス側へ強制的に引き寄せる。住生が教えてくれた方法だった。彼もまた、負の自分を道化に貶めて内なる己を守ろうとしている。彼は賢い。
……たまにやりすぎるのは直した方が良いと思うが。
「何うっすら白目剥いてんのさー! もー、起きなさいー!」
意識がなくても道化になれるとは。ある意味天才だと思う。
肌布団をはがすと、彼の眼球がセンサーみたいにぐりんと動き、視線がこちらに向けられた。
「――――」
「……何、アヒルが豆鉄砲食らったような顔してるの」
仰向けのまま目を見開いて、呆然と私の顔を見つめる黒い瞳。
蘇った死体チックな彼の両肩に手をかける。
「……死体ごっこ? 遊んでないで起きるよ、ほら!」
ぐっと力を入れて上体を起こした時。
耳の前に垂らした私の三つ編みが、そっと彼の手に取られた。
「……へ?」
突然の行為、その慈しむような手つきに、戸惑いの声をあげてしまう。
直後、ベッドに座る彼に、私は抱きしめられていた。
「……え、ぇえ? な、何するんだ……スミオ?」
顔に血が上るのがわかった。慌ててふりほどこうとしかけたが、すぐに彼の様子がおかしいことに気付いた。
全身、びくびくと痙攣している。
喉から声にならない、か細いうめきをあげている。
背中に回された腕が小刻みに震えている。
密着した胸に伝わってくる心臓の鼓動はあまりにも大きく、恐ろしく速い。
住生は、尋常ではなかった。
顔を押しつけられた私の服の肩口が、熱く湿りはじめていた。
「……泣いてるの?」
「……怖い夢を見たんだ」
震える声で彼は言う。
怖い夢。拍子抜けする平凡な字面だが、いったいどれほどの恐怖を味わえば人間がこんな状態になってしまうのか、私には想像できなかった。
私は彼の背中にそっと両手を回した。
幻想に打ちのめされた彼が、可哀想で愛おしかった。
朝食の席でも住生の様子はおかしかった。
終業式前日の祝日という分かりやすい日付けなのにわざわざ確認したりする。
私の顔を本人かどうかチェックするみたいにじっと見つめる。
約束していた夏祭りを忘れているかのようにふるまう。
「住生君もまだ少し寝惚けてるのよ。最近部活で大変だっていうじゃない」
苦笑しながら母が彼をかばう。
……私は母が、彼のことを「住生君」と呼ぶたびに、小さな苛立ちを覚える。
母が彼を正式な養子としなかった理由。もうなんとなく気付いていた。
母は私に義理を立てている。かつて私を激情の捌け口にし、住生を愛した日々の、贖罪を果たしているつもりなのだ。
住生とは親子関係を結ばず、
互いに与えた愛情のバランスを均一にしようとあがいている。
「浴衣の着付けはあたしがしてあげるから」
「うん、ありがとうお母さん」
にっこりと、いつもの笑顔を貼りつけて私は答えた。
母は弱い人間だ。でも、悪い人間ではないと思う。私の思考と感情はボタンを掛け違えている気がするけれど、母は悪くないと思う。
世界が苦しいのは世界のせいだ。断じて、住む人たちのせいではない。
「……何にやにやしてるんだよ、スミオ」
「ん? え、にやにやしてた?」
住生は私たちを眺めながら、幸せそうにウインナーを咀嚼している。
私は哀しかった。
当の住生が「住生君」呼ばわりで良しとしているのは、あまりにも哀しい。それじゃあ、いつまでもひとりぼっちじゃないか。
**
母の着せてくれた朝顔模様の浴衣姿で、私は住生と神社のお祭りを回った。
そんなもの自分にあっただろうかと疑いながらも、童心に返ってそのひと時を楽しんだ。それが、住生が一番喜んでくれる私の形だから。
住生はテンションの高い私に呆れながらも、たくさんの屋台巡りに笑って付き合ってくれた。
彼はたぶん、楽しんでくれている。
一方で私は、真実の私が楽しんでいるのか、仮面の私が楽しんでいるのか。
当の自分でもよくわからない。もし仮面の方だとすると――真実の私は楽しんでいないのだとすると。私は彼に、接待を行っていることになる。
彼相手でさえそうならば、私の在り方自体、ありとあらゆる人間への接待に過ぎないのかもしれない。
なんてくだらない生き様だ。
バカバカしさと興が乗ったのとで、本物の仮面――子供向けのお面を買った。キツネのお面をかぶってコンコン鳴いてみると、住生は似合う似合うとけたけた笑った。自分という人間のすべてを咎められたみたいで思わず涙が出た。おかげでしばらく外せなかった。
やがて夜空に大輪の花火が咲いた。
私たちは境内の奥、社の裏手の開けたスペースに移動した。先は切り立っていて、安全柵が設けられている。
柵の何メートルか手前、小さな石の段差に並んで腰を下ろす。
場所を探している最中にぱっと買ったたこ焼きのトレイを開き、香ばしいそれを口に入れた。するとものすごく熱くて、はふはふ言っていたら住生に笑われた。彼にも食べさせたらやっぱりはふはふ言ったので笑ってやった。
たぶん、今のは真実の私だ。仮面ではない。
「…………」
住生にも、もうずっと仮面で接し続けてきたけれど。
時おりこうして自分を確認できる瞬間が、彼の前でだけ訪れる。嬉しいような救われたような気持ちと、罪悪感が同時に湧き起こる。
次々に花火が打ち上がっていく。
ふと横目を流すと、住生は何故か悲しそうな顔をしていた。一人で校庭のトラックを回り続けている時と少し雰囲気が似ている。
「…………」
無意識だった。
石段についた彼の手の甲に、自分の手を伸ばしていた。
指先が触れて、即座に後悔する。
私から住生に手を伸ばすなど。
常に自分を偽り、人を騙して生きている私が、誰かと、まして住生と深い関係を結ぶなど、間違ってもあってはならないのだ。
私が付けた仮面はきれいに見えるかもしれないが、その内側には汚いものしか入っていない。そこでは「真実の私」という名前の空っぽが、嘘と欺瞞で塗り固めた薄気味悪い薄笑いを浮かべているだけだ。
恐る恐る指を離そうとした時、住生の手のひらが波打った。
「――――っ」
手を掴まれ、指の一本一本をしっかりと絡め取られていた。
石段についた二つの手が絡みあい、一つになってつながっていた。
住生の感情が流れこんでくる。私の感情が、勝手に流れ出していく。
最悪だった。
私は、幸せになってしまいそうだった。
それは、
**
翌朝。弁当のおかずを一通り詰め終えて、私はほっと一息をついた。
中学生になってからは給食がなくなったので、私が早起きしてお弁当を作るようになっていた。自分と住生と母の三人分。どんどん帰宅が遅くなっていく母の睡眠時間をなるべく増やすため、というのが表向きの理由。
初めの頃、母はとても驚き、またきまりの悪そうな顔をしていた。だが、もっと料理を上手くなりたいのだ、と心にもないことを言って納得してもらった。
本当は弁当作りは、私自身の後ろめたさを隠すための行動だった。
もっとも身近にいながら住生に対し仮面をかぶって接しているのに罪悪感を覚えているから、それを形で償おうとしたのだ。
なのに何故だか胸のちくちくは、余計に大きくなるばかりで。
けれど今更止めることもできない。
……あるいは、いつからか、あてつけにもなっていただろうか。
親から家事――親らしい行為のひとつ――を奪って、暗い喜びを感じていたかもしれない。朝食も洗濯も、掃除もたまの夕食も、気がつけば私がやっている。
炊けたご飯を炊飯器から皿にあける。粗熱をとっている間に母を起こして、身支度が済む前にささっと朝食をこしらえた。
母がリビングに来たので、皿のご飯を弁当箱に詰める。
はい、弁当箱を渡すと、ありがとう、と笑顔で返される。何も感じない。
朝食を食べ終えて、母が家を出ていく。
その後、私は住生を起こしに行った。
「本当に大丈夫?……顔色悪いよ? 今日は終業式だけだから、休んでも平気だと思うよ? プリントとかは持ってきてあげるよ?」
「いや、大丈夫だから。行くよ」
朝食の席で答える住生の顔は青く、あきらかに様子が変だった。昨夜、夏祭りから帰ってくる途中でおかしくなったのだ。何かに怯えているような気配は食事中もずっと続いた。
食後の洗い物も済ませて、私たちは曇り空の屋外へと踏み出した。
登校中、学校の坂道で本告先生を見つけて。
挨拶をすると、何故か私たちは二人とも睨みつけられた。
「今日は午前中で終わりよね? 閑馬君は放課後司書室に来なさい。必ず」
全身に怒りと恐れを漂わせながら本告先生は坂を上っていく。
その言葉とふるまいの意味を、ここ二日の住生の不審な挙動の理由を。
私はその日のうちに先生から知らされた。
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