4.こころのかたち
両手に麦茶のグラスを持って、中指でドアをノックする。
「どうぞ」
「遅くにごめん。お邪魔するね」
ゆっくり、覗くようにドアを開いた。
住生の部屋の中央の座卓にグラスを置いて、敷かれている座布団に足を崩して座る。住生は私の対面に着座。
私の方から話を切り出す。
「本告先生から聞いたよ、色々」
住生が、高校一年生の夏――
来年訪れる[災禍]の日から『遡って』きたこと。
遡った理由が、『住生の世界』での私の死であること。
細かい原因は知らされなかったが、その影響で[災禍]の到来が来週に早まったこと。
「……まあ、そういうことなわけさ。でも僕の人格面は高校になっても大差ないから、あんまり気にしないでいいよ」
ぽりぽり後頭部をかきながら、住生はこともなげに言った。
私は彼の頭の中身にはさして興味を感じなかった。住生は住生だ。何も変わらない。
突然[災禍]が来週に早まったのには驚いたが、来週でも来年でもどうせ死ぬのだから変わらない。むしろ早まって良かったんじゃないかと思う。
痛快だったのは『住生の世界』の私が死んだと聞いた時だ。
ざまあみろ、と思った。
母と、自分自身に対して。
「しかし遠近に忘れられてた……もとい、まだ知られていなかったのには参ったね。ああ、倖果もまだ知らないか。遠近沙代って子が来年、図書委員に入ってくるんだ。一年下の面白い後輩」
住生は『住生の世界』の後輩の女の子のことを、なんだか楽しそうに話す。
「スミオの世界の遠近さん……とか、みんなは、どうしてるのかな」
気になってしまう私が問うと、
「僕の世界ってのはおかしな表現だよ。なんだっけ……そうそう。その時僕のいる世界が、僕の時間軸だからね」
その時僕のいる世界が、僕の時間軸。
それはまったく周りを顧みない、とんでもなく自己中心的で傲慢な考え方のように思えた。この住生はすべてを置き去りにしてこんなところにまで来たのか。私なんかを助けるためだけに。
そこで、少しの沈黙が流れた。
唐突に私の三つ編みが引っ張られた。
「うばー!」
変種のカバみたいな声をあげてしまい、恥ずかしくて張り手をかました。
「高校生になってもスミオはホント変わらないんだねー……」
「だから言ってるじゃないか」
呆れてしまう。本当に住生は読めない。
そして、またお互いに黙ってしまった。
「私は、逃げないよ」
私は口火を切った。彼の物語の、核心だろう。
「私は逃げない。もう乳楢からも出ない。来週[災禍]と、みんなで戦う」
一言一言に力をこめる。
私はさっき三つ編みを引っ張られてはがされた仮面を、すでにしっかりとかぶり直していた。
「……バカ言うな。あんなのに勝てるか」
「[災禍]についてはスミオも知っているんだよね? 逃げたら乳楢の街に住む人たちに矛先が向いちゃうんだよ? だから――」
「違う。それは本告さんの嘘だ。[災禍]が現れる前なら逃げても大丈夫なんだ」
「証拠は?」
問い詰めると、彼は言葉に詰まった。
同じようなことをそういえば以前、千葉先輩も言っていた。
二人の発言が真実だとしても、私はそれを確認していない。過去の文献でも調べればそんな事実も浮かび上がるのかもしれない。だけれど、あと一週間では無理だろう。裏付けも取れない彼らの言葉を信じて、乳楢の住民を危険に晒すわけにはいかない。
……これも、良い子の仮面の建て前か。
住生をどうにか逃がしたい、と考えている時点で、私が街の住民など死んでもいいと思っているのは自明なのだ。
「いや、それは倖果だって言っていたことじゃないか」
「どこの倖果さんの話をしているの? 私はスミオにそんなの言った覚えないよ」
どうやら『住生の世界』の私も言っていたらしい。
私は嘘つきだから信用できない。
「……倖果は、なんで逃げないんだ」
「スミオには関係ないことだよ」
「あるだろ」
「知ったふうな口を利かないでほしいよ」
私と母の過去を住生は知らない。だから彼にはまったく関係ない。
私には、[災禍]に殺されて、母を苦しませなければならない使命がある。
他者のためではなく、自分のためだけに、逃げられない。
「スミオが私の何を知っているっていうんだよ」
私は今、仮面で話しているのか、中身で話しているのか、わからない。
「僕は――」
何か言いかけた住生を無視して、座布団を立って背を向けた。
その先は聞きたくなかった。
「訓練の時間になっちゃったから行くね。おやすみ。……スミオは乳楢から逃げなよ。街の人たちは可哀想なことになっちゃうけど、被害が出る前に私たちでどうにかするから」
言い残して、後ろ手でドアを閉めた。
暗い廊下、両手で胸を掻いた。
「――――ぅ」
心の中の、あの溺れるような息苦しさが強まっていく。
嘘をつき続けると胸が苦しくなる。気持ち悪いのに吐けないような息苦しさが延々と続く。それは自身の感情に対しても同じなのだろう。
私は常に、真実の私の感情に逆らった行動を続けていた。
**
基礎訓練のランニングと筋力トレーニングを終えて、全員で家庭科室に集まり、[災禍]に対してどういう陣形を取るか相談していた時。
彼は忽然と現れた。
「戦います」
簡単に言ってのける住生に、本告先生はあっけにとられた。
この展開は想像がついていたので、私はとくに驚かなかった。
悲しかったし腹立たしかったし嬉しかったけど、すべて仮面の下に押しこんだ。対照的に、住生の目には力がこもっていた。
本告先生との問答を終えて、彼の視線は私に向けられる。私はいっそう強固な仮面を展開して、全身全霊で自身を守った。
それから千葉先輩を皮切りに自己紹介が始まり、
「魔術部へようこそ。私は顧問の本告願。歓迎するわ、閑馬住生」
本告先生の言葉で住生は正式に迎え入れられて、模擬訓練が始まった。
そして三日が過ぎ、四日が過ぎた。
住生の提案した訓練は端的に言って常軌を逸していた。夜の教室に広がる光景は言葉を失うほどグロテスクで、見ていて何度も嘔吐してしまった。
本告先生も、神奈坂さんも、あの千葉先輩でさえ、彼の精神状態を恐れた。全員が彼に対して、化け物を見るような目を向けはじめた。
死に蝕まれる彼のぎょろりとした眼が、ぐちゃぐちゃに潰れた肉体を『復旧』するたびに血走りを増していく。どんどん人間から遠ざかっていくように思えて、どうしようもなく怖くて、恐ろしかった。
それでも私は彼を見ていた。目を背けてはならなかった。
その命が誰に費やされているのか、否応なく理解できてしまうから。
彼は私を死なせないために、この世界でも[災禍]と戦う決意をしたのだ。
そして彼はその訓練で、文字通り命を削っている。
「一緒に逃げよう」――逃げないと宣言した住生の部屋で、私からそう提案すれば、きっと彼もこんな地獄には来なかった。私が母への復讐心を捨て去れば、彼と一緒に街を逃げ出せた。本告先生が邪魔するのなら『識撃』で潰してしまえばよかった。
でもしなかった。
……私は彼の命より、自分の復讐を優先するような人間なのに。
彼に愛されるような、価値のある人間じゃないのに。
彼が惹かれているのであろう私は、仮面の私なのに。彼は。
だいたい、私に生きる権利などないのだ。社会でおおむね受け容れられる価値観を着飾っているに過ぎず、他者に心を開けず、他者を心から想えず、自意識の檻に閉じこもっている。わかっていても、生き方を変えられない。いつか必ず周囲の人間を破滅させ、自己の偽りに裁かれる生き方。
もし私が魔術師なんかに生まれなければ――いや。
自分のことがわからないほどのバカでなければ――違う。
強ければ。
強ければ、自分の生き方を選べたのだろうか。
彼が死を重ねるたびに、心の底の黒い雪が取り除かれて、刺さった杭がひどく痛む。
母への復讐心と、死にたくない――私の死で彼を苦しませたくないという感情との葛藤が、今更になって始まった。
**
その夜が訪れて、母と二人で作った夕食を三人で食べ終えて。
私と住生は、住生の部屋でテレビゲームをプレイしていた。
同じ色のブロックをくっつけて消していくパズルゲーム。彼の持っているゲームソフトの中でも、私が勝つことのできる数少ないタイトルのひとつ。
今日は私が少し押されていた。住生は得意そうに笑っていた。
住生が送りつけてくるオジャマブロックを消しながら、どうしてか私は彼に、母との過去を告白したいと思っていた。
けれど、止めた。
人に心を開いて、つらい過去を話して同情を引こうだなんて、あさましくてはしたない。
「そういえばさ」
住生の方から話しかけてくる。
「何?」
「倖果は小さい頃から魔術の修行をしてきたんだよね」
「修行っておおげさだなー。でも、たしかに勉強はしてきたよ」
「気付けなくてごめん」
彼は神妙な顔つきで、テレビ画面を向いたままよくわからない謝罪をした。
「うん? なんで謝るんだよー。ばれないようにやってたんだよ……っと!」
笑って連鎖を続けながら、私はひどく驚いていた。
私は彼のたった一言に、今までになく救われていた。
壁掛け時計が午後十時を指したので、私は自室に戻った。
制服に着替えた私たちは、母に最期の挨拶をして夜の旧校舎へと向かった。
――そういえば。
基術式は先天的、生まれつき備わっているこころのかたちなのだという。
でも、心根なんて赤ん坊のときには定まっていないでしょう?
だから基術式っていうのは、神さまが、その人の人生で将来必要になるちからを見定めて、生まれる前に刻んでくれるものなんだと思う。
だから私はあの地下室で、母に『識撃』をかけたのだ。
……それとも逆に。基術式が、その人の心や生き方を規定してしまうのか。
心は生まれつき、決められているのか。
『識撃』は、たくさんの人に刻まれているありふれた基術式だという。
みんなこんな、何もかも壊してしまいたい衝動を抑えて生きているのだろうか?
それとも、活性化してしまった私だけがこんなに苦しんでいるのだろうか?
住生も、基術式である『復旧』『遡り』に囚われて、こんな世界の果てみたいなところまで来てしまった。
「……今夜、仕留めましょう。この世に殺せない生き物なんていないわ」
最後の説明を終えて、本告先生が携帯電話を取り出して見せた。
光る画面には現在の時刻が示されている。午後十一時五十六分。
静かだった。下弦の月が、私たちの立つ旧校舎の廊下を照らし出していた。
永遠のような時が刻まれていった。
選んでしまった生き方には、せめて誠実でいなければ――
何気なく、その場で足を踏みかえた。
「…………」
突然、私は気付いた。
あの日の夕方、唐突なタイミングでなされた千葉先輩からの問いかけは、たしかに私の本質を見抜いていた。
私は今、みんなに――部員と街の住民に犠牲になってほしい。
今すぐ住生の手を取ってこの旧校舎から、乳楢から、
二人で走って逃げ出したい。
母への復讐なんてどうでもいい。
どうしたって住生と生きたい。
世界の果てにだって行きたい。
待ってほしいのに、すべてが始まった。
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