Yukika
1.黒い雪
夜毎、暗い地下に下りていった。
魔術の「教育」が始められたのは、小学校に入る直前の頃だった。父、咲麻恒彦が亡くなる前。その頃はさほどつらくなかった。頭は痛むし体は軋むけど、倒れそうになったら心配してくれるし、成功すればほめてくれる。
石造りの薄暗くて四角い部屋で、頭をなでてくれる父の手のひらが、すごく温かかったのを覚えている。
二年生に進級する少し前に、父は[災禍]に殺された。
それからは魔術師でない母が、父の残した文献と道具を頼りに、父の代わりに私への「教育」をするようになった。
母の施す「教育」は厳しく苦しいものだった。
蛇口を拡げる訓練なんだと母は言っていた。
私の基術式――『識撃』はいわばちんけな念動力で、特別な素養のない人間に刻まれていることの多い術式らしい。鉛筆を転がす程度のちから。転がす物体を大きくすると、頭痛と疲労で私はふらっと倒れてしまう。
私の魔術の才能は、一般人である母に似てしまっていた。
[災禍]にかけるには出力が足りなさすぎる。
そう言いながら、母は毎晩、何か焼きごてのようなもので私の裸体をなぞった。
傷跡は残らない。見えない針金虫がなぞられた皮膚の裏側をうごめく。中の神経がフライパンのベーコンみたいにじゅうじゅう爆ぜて、初めの頃は狂ったように泣きわめいていた。やがて針金虫は頭の芯までぞわぞわと這い上がってくる。それは脳を犯して思考を奪い「できる」「やれる」「かなう」と呪いのように囁きかける。強迫されて私は『識撃』を吐き出す。こめかみの奥が爆発する。たまに耳から血が垂れている。
うるさい、と私をぶつ母の顔は、冷たくて悲しそうだった。
今にも降り出しそうな夏の雲の色だった。
形として残ってしまった父の残滓――私を見るたびに、母が悲しくなるのは当然のことだろう。私の風貌は父に似ている。
その苦しみをぶつけるのは自然な感情の流れだと思った。
母が弱いとか、悪いとかはまったく感じなかった。
ただ、ひどく可哀想だった。
だから、こころを固くしてはならない。柔らかく、甘受しなければならない。
慣れるのは案外早くて、すぐに涙は出なくなった。
けれど、夜の「教育」が終わった後、人が変わったように、ごめんね、ごめんなさい、と泣きながら抱きしめてくる母の懺悔だけは、いつまでも慣れず、煩わしかった。
どんなふうな夜が明けても、毎日きちんと小学校に通う。
母に面倒をかけてはならない。
つらくても苦しくても、泣いてはならない。いつもにこにこ笑っていなければならない。
ずっと良い子にしていなければならない。
「倖果は優しい」
嘘をついて合わせているだけ、演じているだけの私は、そんな言葉を学校の友人に、先生に、母にかけられるたびに、胸がちくちく痛んで、息苦しくなる。
そんな日々が三ヶ月ほど過ぎた頃。
私は彼に出会った。
ぎょろっと恐ろしい、真っ黒な瞳。昆虫のような眼をした少年だった。
学校の帰り道の、小さな公園の隅っこのベンチに座って、彼は片手にカッターナイフを、もう片手におとなしいカエルを持っていた。
公園の入り口からこっそり、なんだろう、と見守っていると、カッターの刃がカエルの腹を引き裂いた。
ぱっくり開いた切れ目から、赤と緑と黒色と、あまりきれいではない具があふれる。
彼は慌てたようにカッターを脇に置いて、暴れるカエルに手で触れた。
それは魔法だった。
彼が手をどけると、カエルの腹が、閉じていた。
「――――」
私がその光景に覚えたのは驚きと、それをはるかに上回る羨望だった。
羨ましい。壊しても元通りにできるのなら、何も我慢することなんてない――
「っ」
直後、強い自己嫌悪に見舞われた。手で口をおさえる。
いったい私は、何を。
良い人間である私は、まずは止めに入らなければならないはず。
「何やってるの?」
感情をリセットして、おどおどした表情を繕って彼へと近づく。
突然声をかけられて驚いたのか、彼がカエルを取り落とす。見開いた目と私の目が合う。
カエルは一声鳴いてぴょんぴょんどこかへ跳ねていってしまった。
「……いや、なんでもないよ」
彼の目つきは普通の子のそれになっていた。平静だった。
私は彼に強く惹かれた。
「私、咲麻倖果っていうの。あなたは?」
それから二人でベンチに並んで座って、お互いの話をした。
同じ小学校の同い年、別のクラスだった彼――閑馬住生は、[災禍]の時に起こった乳楢市の大火災で両親と幼なじみの女の子を失い、今は孤児院で生活しているのだという。彼によると、いなくなってしまった幼なじみの子とは、将来結婚する約束を交わしていたらしい。子どもの約束とはいえ、小学二年生にして許嫁とはずいぶんとませている。あるいは立派なご家庭の生まれだったのか。
「……そっか。なら、代わりに私が――」
結婚してあげるよ、とは、冗談でも恥ずかしくて言いにくかったので、
「友達になってあげるよ!」
「いや、いいよ」
「えぇっ?」
彼は昔から、ああ言えばこう言うタイプの人間だったのだ。
その翌日、私は体調を崩した。
「体調管理もできないの? グズ……あなたが×ねばよかったのに」
母にひっぱたかれた頬の痺れで、その時はちょっと涙が出た。
感情的なものではなく、肉体の反射として。
**
それからも閑馬住生とは、学校で顔を合わせれば挨拶する程度の交流が続いていた。
けれど一緒に遊んだりはせず、公園でのような踏み入った会話もしなかった。彼は私に限らず、あまり他人と話したがらない性格だった。学校での彼は、内気な世捨て人みたいだった。
そして、出会ってから半年ほど過ぎた、ある秋の日の夕方。
どういうわけか、彼は家にやってきた。
「今日から彼が一緒に住むことになったから。住生君、挨拶できる?」
「はい。……ってあれ、やっぱり咲麻?」
「……うぇええ?」
私はそんなこと、母からは何も聞いていなかった。犬を拾ってきたかのような物言いの母と、超然とした態度の彼を前に、私は玄関前で立ちつくした。
彼には二階の、私の部屋の向かいの空き部屋が個室として与えられた。すたすたと階段を上っていく彼を呆然と見送った後、私は母に問い詰めた。
「ちょっとお母さん、どういうことー?」
「彼、ご両親がいらっしゃらないのよ。可哀想じゃない」
そんなことは知っている。
「そうじゃなくて。なんでうちなの?」
「彼も魔術師なのよ。千葉の言いつけで、彼は私たちで預からなきゃいけなくなった。それだけよ、我慢しなさい」
我慢。そう言われれば、我慢するしかない。
自分の部屋に戻って、ころんとベッドに寝転んだ。
――千葉家のことは知っている。魔術的な意味での、乳楢の管理者。
跡取りの子が私と同年代の、二つ上の女の子だというのも知っている。
その子は、私の父と一緒に[災禍]と戦ったのだ。
一方、私は[災禍]とは戦わなかった。父の助けになれなかった。当時すでに『識撃』の術式を、二割ほど活性化していたのに
その子を逆恨みする気持ちが、わずかながら、ある。
彼女が戦ったから、戦えなかった私を、母は余計に厭わしく思っているのだ。
心のどこかでそう考えている。
汚い感情だから、奥に押しこまなければいけないと思う。
やがて夕食の時間になった。
部屋から出てきた彼と二人で階段を下りてリビングに入る。
テーブルにずらりと並んだ食事は、今まで見たことがないほど豪勢だった。
歓迎パーティーだと母は笑って、そして食事が始まった。
「おいしい」
酢豚の肉を口に含んだ彼が、目を丸くして呟く。感動しているらしい。生まれて初めてケーキを食べた小さな子どもみたいだった……実際、小さな子どもなのだが。
隣に座る私の方を向いて、彼は年相応の幸せな笑顔で言った。
「おいしいね」
同じく酢豚を口に含んでいた私は、言葉では答えられず、ただ首を縦に振った。
口の中に入れた甘辛くて熱いそれは、美味しいのだと。指摘されて、私は初めて気付いていた。父がいなくなって以来、久しく覚えなかった感覚。
「嬉しいこと言ってくれちゃって。まだたくさんあるから、いっぱい食べてね」
「はい」
一生懸命に食べる彼を見ながら、母は柔らかく微笑んでいた。
慈愛が、その両目に宿っていた。
私は母が、まだ父がいた頃、男の子もほしいと言っていたのを思い出した。
にこやかに笑う母は、醜悪だった。
その時私は生まれて初めて、母に明確な憎悪を覚えた。
**
夜の地下室での「教育」は、彼が家に来てからもずっと続いていた。
ただ、焼きごてのようなもので裸の私をなぞる行為は少なくなった。全体的な厳しさも幾分和らいだ気がする。叩かれる回数も日を追って減っていった。
一方で、彼には「教育」は施されなかった。
それどころか、魔術のことも、彼自身が魔術師であることも、すべて秘密にしなければならないと母は命じる。
自分が魔術師なのを彼に隠しているのはなんだか罪悪感があった。私は彼の魔術をこの目で直接見たというのに。
「スミオ。……スミオ!」
食後のテーブルを布巾で拭いている彼に台所から声をかける。
土曜日の昼、彼と二人きりでの留守番だった。
「え? ああ、うん。何?」
彼は名前を呼んでも振り向かないことが多かった。まるで自分の名前を認識していないかのように、一拍遅れて、ああ、と振り向く。
「ボケちゃってるんじゃないよー。午後暇でしょ? どこか出かける?」
洗った食器を棚に戻しながら提案する。
この頃――私たちが三年生に上がった頃、私は家事を手伝うようになっていた。母は勤め先の会社に頼んで仕事の量を増やしたらしく、土曜日の昼は家にいない。
まだ料理はさっぱりなので、お昼ご飯は母の作り置きを二人で食べたが、少しずつできることを増やしていきたい。
私は良い子なのだから。
「いや、僕はまだ昨日出された算数の宿題が残ってるから」
「出されたその日の夜に済ませちゃいなよー。じゃあ、私もいるよ。見てあげる」
「いいよ」
「スミオ算数苦手じゃん」
彼には好成績でいてもらわないと困る。私は彼と一緒に、私立の乳楢学園に入らなければならない。母の知人で魔術師である本告先生が勤めているからだ。
その人主導の[災禍]を倒すための訓練を、千葉の娘さんと、もう一人いるという魔術師の子と行うのだ。ちなみに彼は参加しない。本告先生が監視するらしい。
片付けを終えた私たちは、私の部屋で勉強をすることにした。
「スミオはもうこの家に慣れた?」
ドリルを広げてうんうん唸っている彼に話しかけると、彼は顔を上げて小さく笑った。
「もうすぐ半年だよ? 慣れた慣れた。ホント、色々お世話になってる」
「夜中に変な物音とか聞こえたりしない?」
「物音? いや、全然。ネズミでもいるの?」
首をかしげる住生。
なんだか失望してしまった。私は彼に何を期待していたのだろう。
私はまだ自分でも巧くないと思う作り笑顔を浮かべながら「そうそう、最近天井裏からごそごそ音がするんだよー」と嘘をついた。
早めに帰ってきた母は、お土産にケーキを買ってきた。
仕事がうまくいっているらしい。ご機嫌な母の作った夕食を食べた後で、母はショートケーキ、住生はチョコレートケーキ、私はミルフィーユを食べた。大好きなミルフィーユがどうしてかあまり美味しくなかったけど、私はにっこり笑って「美味しい」と言った。
たぶんその時の作り顔は、ヘタクソだったんだと思う。
その夜の「教育」は、言われなければわからない程度に母の態度が冷たかった。
今度はもっと巧くやらないとな、という思いを一旦脇に置いて、地下室中央のテーブルに置かれたコンクリートブロックに意識を集める。上方に力を加えるイメージ。
『識撃』は魔力の燃焼量とは別に、術者の対象への認識強度に比例して威力が上がる。匂いだけより目で見た方が、見るだけより直接触れた方が、より高い出力を引き出せる。
だから、あんまり浮かせることができなければ、集中してないでしょうと怒られる。時にはひっぱたかれることもある。
何度も魔術を使えばこめかみには痛みが積もっていくし、延々と短距離走をさせられるような疲労と吐き気も噴き出してくる。
でも、魔術師ってみんなこんな訓練しているんでしょう?
なら私だけ、嫌だってわがままを伝えるわけにもいかない。
真っ黒な雪が心の底にしんしんと積もる。
**
住生との日々はおおむね幸せだった。
料理本を読みながら少しずつ色んなメニューを作れるようになった私は、土曜日の昼食や母の帰りが遅い日の夕食を担当しはじめた。彼は基本的になんでもうまいうまいとほめながら食べる。一方で妙に舌が鋭いらしく、私がたまに失敗したな、と思った時には、オブラートに包みながらも的確にそれを指摘してくれる。酢豚を食べていた時の可愛いげが嘘みたいだったが、きちんと口で伝えてくれる彼のスタンスには好感が持てた。
母もずいぶんと変わった。住生が来る前は、ふと視線をやるといつの間にか泣いているような人間だった。今では笑っている時間の方が長い。まるで普通の人みたいだ。
おかげで夜の「教育」中の、私への風当たりもかなり穏やかになった。それでも最中はズキズキしたりヒリヒリしたりジンジンしたりして痛くて、たまに翌日までクラクラムカムカギシギシジクジクして痛かったけど、そんなの全部瑣末な些事で、だからすべて生活の底に押し沈めた。
休日には、母と住生と三人でお出かけしたりもした。遊園地や水族館、映画館に動物園など、色んなところへ行った。楽しかったけど、家族みたいで複雑だった。彼は閑馬住生のままで、咲麻住生にしてもらっていないのに。
受験勉強というほど大層なものではないが、六年生になってからは彼と勉強する時間が増えた。二人とも十分合格圏内だったので、楽しく勉強できた。
作り笑うのも、ずいぶんと巧くなった。
そして二月、乳楢学園の合格通知が出て数日後に。
私に刻まれた基術式のすべてを、活性化し終える日が訪れた。
母は魔術師ではないので、道具を使わなければ私の術式の活性化などできない。
意識に刻まれた術式の紋様の最後の数辺を活性化させるのに、母は紫紺に光る指輪を用いた。活性化に用いる道具の中でも、私にかかる負担が一番小さい種類の物だった。
いつもの地下室で、指輪をはめた母の手が、ゆっくり私の額に伸びる。
私はその安らぐ感触に、父のことを思い出していた。
触れた母の手のひらから熱が迸り、瞑った目尻を光が焼く。
頭痛を伴う最後の活性化を終えて、母は優しく微笑んだ。
「おめでとう。……本当、よく頑張ったね」
住生を家に迎え入れてから四年。
母は憑き物が落ちたかのように物柔らかな人となりになっていた。顔つき自体が変わったと思う。
父の死を、彼との月日が癒したのだ。
喜ばしいことだと思う。娘としても嬉しい。
「ありがとう」
私は母の全身を見据えて『識撃』をかけた。
その体がひもで引っ張られたかのようにビューンと真上に飛んで、頭を石の天井にぶつけた。
ドン、と乾いた音が響いて、母の首が直角に下を向いた。
見上げた私と視線が交錯する。
すぐに母の体は膝、お腹、顔の順番でべしゃべしゃっと固い床に落ちた。そのままうつ伏せに倒れていた。髪の間から血が出ている。地面に叩きつけたカエルみたいな恰好。可笑しい。
心も体も痛くなかった。
当然だ。他人の痛みはわからない。
私はスカっとしていた。心にいっぱい降り積もった黒い雪が、少しだけ溶けてくれたみたいだった。
母は顔を上げず、床に血を広げながら、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返している。壊れたレコードじゃないんだから。レコードなんて見たこともないけど。
黒い雪の底にある地面に、錆びた杭が打ちこまれた気がした。
痛くはなかったけど、無性にカエルを潰したかった。
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