5-4.彼と彼女の戦う理由

 携帯にメールが入っていた。陸上部の同級生からだった。

『なんで部活のミーティングサボったんだ? 顧問カンカンだったぞ』。

 部活。そういえば僕はそんなものにも入っていたのだったっけ。

 真っ暗な自室のベッドに寝そべりながら携帯電話を放り出す。夜だった。帰ってきてからはなんだか意識がバラバラになってしまって、夕食も混濁した状態で済ませていた。

 あまりものを考えたくない気分だった。なのにいきなり現実に引き戻すメールが来て、連想ゲームみたいに部活のことを思い出す。

 来月の夏の県大会で、僕はドンケツになる予定だった。

 全学年共通種目の、千五百メートル走のみの参加で。

 昔から、どちらかといえば短距離の方が好きだった。しかし絶望的に才能がなかった。二年の半ばを過ぎてから、まったくタイムが伸びなくなったのだ。以降は選手層の薄い長距離へと回された。

 かといって特段スタミナや根性があるわけでもない。

 当然のように遅い。負ける。

 言ってしまえば、この頃の僕は敗北するために走っていた。

 けれどやたら必死だった。頑張っていたというよりも、ただただ必死。

 どうしてあんなに必死こいて走っていたのか、今はもう思い出せない。

 熱中症でくたばりたかったのかな。

 そういう死に方は悪くないと思う。


「……っし」


 過去のことなんか考えていたら心が淀む。

 後ろを向いていたらまっすぐ前に進めない。

 ベッドから起き上がり、パチリと部屋の電気をつけた。蒸し暑かったので冷房もつけた。

[災禍]が出ようと出まいと、関係ない。

 僕のやることは変わらない。

 倖果を乳楢から連れ出すのだ。共に連れ立って逃げるのだ。そのために僕はここに来た。

 机の引き出しの一番下から、黒くて四角いそれを取り出す。スタンガン。中学三年に上がって少し経った頃――今から二ヶ月ほど前、都内のジャンクショップで購入した物だ。当時の僕は弱い人間らしく、暴力行為に興味があった。当てられれば激痛で数分は体が弛緩し、行動能力を奪われる。自身で試して実証済だ。

 倖果を街から連れ出す。

 その説得に失敗したら、僕は彼女を乳楢の外に拉致、監禁するつもりだった。

 しかし、車も他人の助力もない僕が、ここから倖果の体を運ぶのは難しい。そこで思いついたのが、彼女を騙して、監禁場所かその周辺まで自ら足を運ばせる方法だ。

[災禍]前日の土曜日に、若山にでも誘って一緒に出かけようか。

 夕食の席ではおくびにも出していなかったが、彼女も本告願から連絡を受けて、来週[災禍]が来ること、僕が遡ってきたことくらいは知っているはずだ。

 最後に思い出作りがしたいとでも言えばのこのこついてくるかもしれない。勘の良い倖果のことだから、気付かれる可能性のほうが高いだろうが。


「…………」


 また、より大きな問題は監禁する場所の確保だ。簀巻きにした女の子を背負った中学生の男子が泊まれるホテルはどこにもない気がする。廃屋の類を探すのが妥当だろう。インターネットで調べられるか?

 監禁した後も問題だ。全身をロープかガムテープで縛るとして、食事を与える際には口を開かせる必要がある。騒がれたらまずい。痛みで黙らせるしかないか?

 手の中のスタンガンをこねくり回しながら考えていると、部屋のドアが控えめにノックされた。

 スタンガンをベッドの下に滑らせて、僕は「どうぞ」と答える。


「遅くにごめん。お邪魔するね」


 入ってきたのは当然ながら倖果。

 部屋の中央の座卓に麦茶のグラスを二つ置き、敷かれている座布団に足を崩して座る。僕は倖果の対面に座る。


「本告先生から聞いたよ、色々」


 ぽつぽつと倖果が喋り出す。

 聞いたとはつまり、[災禍]出現予定の繰り上がりと、僕の頭の中身についてだろう。


「……まあ、そういうことなわけさ。でも僕の人格面は高校になっても大差ないから、あんまり気にしないでいいよ」


 なんとなくバツが悪くて、頭をポリポリかきながら今日あったことを話す。日常会話のテンポでもって。


「しかし遠近に忘れられてた……もとい、まだ知られていなかったのには参ったね。ああ、倖果もまだ知らないか。遠近沙代って子が来年、図書委員に入ってくるんだ。一年下の面白い後輩」


 ははは、と笑う。途端に倖果は複雑な顔をした。


「スミオの世界の遠近さん……とか、みんなは、どうしてるのかな」


 脳裏によぎる壊れた世界。即座に振り払う。


「僕の世界ってのはおかしな表現だよ。なんだっけ……そうそう。その時僕のいる世界が、僕の時間軸だからね」

「うん」


 いつかの本告願の受け売りで返すと、倖果は釈然としない顔つきになった。

 それきり、お互い黙ってしまった。

 空気を変えたくて、彼女の三つ編みに手を伸ばした。くいっと引っ張る。


「うばー!」


 南洋生物みたいな声をあげて張り手をかましてくる倖果。痛い。


「一年経ってもホントスミオは変わらないんだねー……」

「だから言ってるじゃないか」


 ひりひりする頬をさすりながら、呆れ返る倖果に返答。

 そして、また沈黙が訪れた。ぼそっと倖果が言った。


「私は、逃げないよ」


 核心だった。


「私は逃げない。もう乳楢からも出ない。来週[災禍]と、みんなで戦う」


 はっきりと告げる倖果の表情は平静で、落ち着き払っていた。


「……バカ言うな。あんなのに勝てるか」


 ここの倖果は直接戦っていないからわかっていないのだ。

 人間はあんなモノを倒せるように設計されてはいない。人がどうして災害と戦える。

 倖果は『高一の世界』の自分が[災禍]に殺されたのだと、本告願から聞いていないのだろうか? 聞いているなら何故その上でまだ戦うなんて言えるのだろう。

 倖果は静かな顔つきのまま淡々と続ける。


「[災禍]についてはスミオも知っているんだよね? 逃げたら乳楢の街に住む人たちに矛先が向いちゃうんだよ? だから――」

「違う。それは本告さんの嘘だ。[災禍]が現れる前なら逃げても大丈夫なんだ」

「証拠は?」


 平然と求められて言葉に詰まる。


「いや、それは倖果だって言っていたことじゃないか」

「どこの倖果さんの話をしているの? 私はスミオにそんなの言った覚えないよ」


 とぼけたように小首をかしげる倖果。

 ……イライラする。『高一の世界』で銃を突きつけた時、本告願は嘘をついたことを認めていた。今逃げれば街の人たちも大丈夫なのは間違いないんだ。

 けど僕はそれを証明できない。言葉でしか示せない。

 人の言葉を鵜呑みにするバカなんて世の中せいぜい僕くらいだ。


「……倖果は、なんで逃げないんだ」


 かつて観覧車で尋ねた問い。今一度ここで訊いてみる。


「スミオには関係ないことだよ」

「あるだろ」

「知ったふうな口を利かないでほしいよ」


 言い捨てる声には抑揚がなく表情もない。感情を読み取れない。


「スミオが私の何を知っているっていうんだよ」


 その、何もない瞳に気圧される。

 僕には倖果がわからなかった。

 困惑と絶望の代わりに、むかむかと怒りが湧きあがってくる。

 僕は倖果を連れ出すため、助けるためにこんな過去にまで遡ってきたのだ。

 それがなんで、当の倖果本人にここまで拒絶されなければならない。


「僕は――」


 言いかけた僕を置いて倖果は席を立った。片手には麦茶のグラス。


「訓練の時間になっちゃったから行くね。おやすみ」


 彼女はくるりと背を向ける。

 これ以上の発言、それ自体をにべもなく否定されたようだった。


「……スミオは乳楢から逃げなよ。街の人たちは可哀想なことになっちゃうけど、被害が出る前に私たちでどうにかするから」


 こちらを向かずに倖果は言い残して、後ろ手でドアを閉めた。

 部屋には汗をかいたグラスと、あぐらをかいてぼうっとドアを見上げる僕ひとりだけが取り残された。


「…………くそっ」


 グラスをひったくり、麦茶を一息に飲み干した。

 急激に自分が恥ずかしくなってくる。

 またさっき、僕は自己満足に浸っていた。何がスタンガンだ。

 倖果を無理やり連れ出すことが、感謝されて当然の行いだと思いこんでいた。

 他人の自殺を力ずくで押し止めるような、正義漢の傲慢そのものだ。相手の意思や過程を無視して、自分の杓子定規を押しつけて善行をしたと悦に入っている。

 語らないだけで、倖果にだって戦う理由はあるだろう。

 たとえば、逃げたくとも逃げ出せないチバ先輩を死なせたくないとか――


「……あ」


 その瞬間。

 近視眼的な僕はやっと気付いた。


 彼女は自分の身のためでなく、他人のために戦っているのだと。


 チバ先輩とか本告さんとか、神奈坂とか、街の人とか。自惚れでなければ、僕とか。

 逃げたら街の人が標的になるというのも、きっと心から信じているのだ。僕が何を言ったって、確かめられなければ逃げられない。他者を重んじる倖果の、それは道理だ。


 一方で、僕は倖果だけを助けられればそれで良かった。

 街の人間なんて、たとえ全員死んでもどうでもいいと。


 見えない誰かが、エゴイストと僕を呼ぶ。


 ……なんで僕みたいな人間が生き残って、倖果みたいな子が死んでしまったんだろう。そして、また死に向かっているのだろう。

 倖果にはそのきれいでまっすぐな心に相応しい、たくさんの友達がいた。血と心のつながった母親だっていた。倖果が死んだと聞いて、みんな声をあげて泣いていた。

 僕には何もなかった。人生において何の目的意識もなく、意義もない。世界的に無価値な人間だ。僕が死んだところで何人の人間が悼み、泣いてくれるだろうか?

 死はすべての生き物に平等だと誰かは言うが、僕は不平等でいいと思った。

 価値のない人間から順番に死ぬべきだ。

 だから、座布団から立ち上がった。

 思い出した。


「死なないと」


 僕は倖果のために戦っていたのだ。

 だから前の戦場を捨てて、この新しい戦場に身を投じたのだった。

『高一の世界』の、閑馬住生の肉体を殺して。


 無価値な人間が死を恐れてはならない。


 寝間着からジャージに着替えた。携帯をポケットに入れた。冷房を消した。照明を落とした。部屋を出て、階段を下りる。リビングを覗くと、華乃さんがアイロンをかけながらテレビを見ていた。その背に声をかける。


「華乃さん。ちょっと行ってきます」

「え?……えっと。こんな時間に、どこに?」

「決まってるでしょう」



 **



 模擬訓練が始まる前に旧校舎に着くことができた。

 彼女たちは旧校舎の一階、家庭科室に集まっていた。テーブルを囲むジャージ姿の女子たちをよそに、上座に座った白衣の女に話しかける。


「銃をください。持っているでしょう」

「何?……ああ。あなたが自殺しても[災禍]は現れるわよ。一度流れ出した水と同じ。活性化した『遡り』が発生した時点で、流れ着く先にあなたがいようがいまいが――」

「戦います」


 意識してさらっと言うと、本告さんはぽかんとした。意味がわからないみたいだった。

 朗読するように、さらさらっと僕は続ける。


「僕の肉体の術式を――『復旧』を、完全に活性化させてください。反動があっちゃ戦えない。それと、魔力もください。スタミナ切れもごめんだ」


 この女が何を企んでいるのかは、今はひとまず置いておく。しばらくの間は「本告さん」でいい。

 すべてが終わってから、彼女とは何らかの決着をつける。


「わかったわ。あなたが加わってくれるのは、正直言うと助かるからね。腰抜けでないあなたなら、尚更ね」


 僕の身勝手な要求に本告さんはゆっくりと頷いた。唇が薄く笑っていた。

 視線を女子たちの方に移す。

 倖果には特に驚いた様子もない。取り澄ました顔つき。


「えっと、話は聞いてるんだけどさ。君も訓練に加わるってことでいいのかな?」


 おずおずと切り出したのはチバ先輩だった。襟足が少し短い以外、僕の記憶の中の彼女と何ら変わりない姿。


「はい。今日から訓練に参加させて頂きます。……迷惑かけてすみません。よろしくお願いします」


 僕はチバ先輩に深く頭を下げた。[災禍]を早めてしまったこと以外の罪悪感もこもっていた。今の彼女の姿を通して、『高一の世界』のチバ先輩にも何かを謝りたかった。


「いんや、仕方ねえっぺ。大変だったんでしょ? ドンマイドンマイ。……知ってるかもしれないけど一応。あたしは千葉綾佳。よろしくね。ほら、ツッキーも」

「神奈坂坏子。……よろしく、閑馬住生」

「え? うん、よろしく」


 名乗る前に自分の名を呼ばれて軽く驚いた。

 そういえば初めてアイアンクローをもらった時も、彼女は僕の名前を呼んでいた。……本告さんか倖果から僕について聞いていただけか。


「…………」

「……何か」

「あ、いや、なんでもない。ごめんじろじろ見て」


 外見的特徴こそ変わらないが、神奈坂は『高一の世界』とはあからさまに違っていた。

 顔色は透き通っていて生気がなく、幽霊じみて青白い。眼差しは冷えきった鋭さを宿し、全身には刃こぼれしたナイフのような、どこか凄絶な雰囲気を纏わせている。

 何かにズタズタにされたようで、ひどく痛々しい印象だった。

 一人だけ乳楢学園のジャージではなく、市販のを着ているのも気になる。


「……それじゃ、改めて。よろしくお願いします」


 改めて、本告さんに向き直る。

 

 前のような、身勝手なヒロイズムと陰湿なナルシシズムに心を沈めるつもりはない。

 倖果が守りたいものも守る。

 それが改めて決めた、僕の戦う理由だ。

 本告さんは口の端を上げて、目を細めて微笑んだ。


「魔術部へようこそ。私は顧問の本告願。歓迎するわ、閑馬住生」

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