3-3.神奈坂坏子のレーゾンデートル
店を出て空を仰ぎ見る。雨雲の灰は色濃さを深めていた。半袖のYシャツから出た剥き出しの前腕にしっとり冷えた空気が染みいる。もう夜が近い頃合であった。
僕たちは人気がなく、かつ雨をしのげる場所を探して、乳楢市を横断する川の河川敷に降り、架かった大きな橋の下に来ていた。水位を上げ茶濁した川の水がとうとうと横を流れ過ぎていく。なんとなくカエルの姿を探したが、残念ながらどこにもいなかった。
いっそう薄暗く冷たい空間の中で、目の前に立った神奈坂さん改め神奈坂は、おもむろに財布から小銭を取り出す。
「魔術を行使する際、燃料として一度に燃やせる魔力の量には限りがある。それが個々人の魔術の最大出力、威力とイコールなわけだ。キミの場合、キミは最大で『復旧』五秒分までしか一度に魔力を燃やせない」
説明しながら、神奈坂は親指と人差し指の間に立てて挟んだ十円玉を、
「よっと」
くにゃりと紙みたいに折り畳んだ。
「……お、おおぅ」
「戻してくれ。貨幣損傷は犯罪になる」
半円形になった十円玉をひょいっと放られ、キャッチして慌てて『戻す』。
神奈坂の怪力――彼女自身が怪力なわけではないのだろうが――は夜の訓練で見慣れているが、日常的な場面で出てくるとやはり多少は驚いてしまう。
「今やったのが『身体強化』だけを普通に使って曲げたコイン。で」
神奈坂はポケットから五百円玉を取り出し、今度は立てずに、親指の腹に置いた。
「私の基術式――『超越』は、その一度に燃やせる魔力量を無制限にする術式だ」
ぐしゃり、と嫌な音が鳴り響く。
親指と人差し指に五百円玉が押し潰され、アルミホイルみたいにペラペラになっていた。
リミッター解除といえばわかりやすいか、と付け加えて、神奈坂は再び硬貨を僕に放る。ローラーで伸ばされたような金属を僕はキャッチしそこねて、冷たく乾いた地面に落とした。あたふたと拾い上げた時にはもう五秒が過ぎてしまっていた。
「…………」
神奈坂がじろっと睨みつけてくる。何ゆえ犯罪の実行犯に無実の僕が非難されねばならないのか。
「まあ五百円分は今度オゴってもらうとして」
「オゴらないよ?」
「今のが『超越』を併用して『身体強化』を行った結果だ。やろうと思えば、私に宿る魔力すべてをたった一撃にこめることだってできる。これで[災禍]の外殻を打ち砕けるレベルまで
――僕ら魔術部が[災禍]を倒す段取り。
倖果が遠距離から『識撃』で足止め。チバ先輩は倖果を守る。
そして本告さんが
衝壁を盾に、神奈坂が接近して金棒で殴る。外殻を壊し、肉を抉り、殺す。
「神奈坂はすごいな」
僕は[災禍]と直接戦闘する神奈坂や本告さんを『復旧』でひたすら回復する。
攻撃の要は神奈坂であり、彼女なくして強固な外殻を壊す手段は存在しない。
「すごい?」
目を点にして訊き返す神奈坂に頷く。
僕は神奈坂の制服の下が痣だらけなのを知っている。戻せなかった傷の数を覚えている。
「神奈坂が一番重要で、役に立つってこと。……僕も一度に燃やせる魔力の量が大きければ、十秒、二十秒と戻せたんだよね」
五秒ルールでくやしい思いをしたのは、さっきの五百円玉や訓練の時ばかりではなかった。せめて戻せる時間があと五秒でも長ければ、もっと大切な多くのものを、取りこぼさずに済んだはずなのだ。
「そしたら僕にも何か、できることが増えたんだろうか」
雨水でかさ増した濁った川面に視線を落として僕は呟いた。
川べりに茂る濡れた雑草の青酸っぱいにおいが、つんと鼻にしみた。
いつの間にか神奈坂がすぐ隣に来ていた。怒ったような顔をしている。
バチーン! と景気の良い音が背中から響いた。
「……っつう――!」
シャツの上からでも音が鳴るほどに強烈な、もみじ――背中への張り手だった。
「キミがそんなに気弱でどうする。私たちはキミに背中を預けているんだぞ?」
小さく何度か飛び跳ねる。痛みには慣れていたつもりだったが、このもみじには訓練での負傷にはない鮮やかさがあった。体を叩かれる前に戻したかったが、戻したら余計に彼女の怒りを買いそうな気がしたので甘んじて悶絶する。
ひとしきり悶えた後。
腰に両手をあてて不満げだった神奈坂が、ふっと穏やかな表情になった。
「それに、キミが来て私たちはずいぶん楽になった」
「ぅう……ら、楽?」
まだじんじんする背中を丸め、猫背になって訊き返す。
「ああ。キミが来る前はもっとひどかった。私の傷は今以上に増えるばかりだったし、咲麻もチバも私たち同様に前線配置で、みんな生傷が絶えなかった。普通に考えて誰かはやられるだろうって想定で、模擬訓練を行っていたんだ」
神奈坂は柔らかい顔つきのままでとつとつと語る。
「キミが来て初めて、みんな生きられる可能性が現実味をおびてきたんだ。……だから頼むよ、相棒」
いたずらっ子のようにニッと笑いかける神奈坂。
「……う、うん」
今日一日で彼女のイメージがずいぶん変わってしまった気がする。それは僕が勝手に抱いていたものよりずっと素敵で可愛らしくて。彼女の笑顔を向けられた今、僕はまたどぎまぎしてしまっていて。そんな単純な自分は、やっぱり人より汚らしい生き物であるように感じられた。
「ところで、私からもひとつだけ、質問していいか?」
「何? スリーサイズ以外なら答えるよ」
「キミなあ……まあいいや。……さっきの質問をそのまま返すようだけど」
「ん?」
「キミはなんで逃げないんだ?」
その質問に、何故かぎくりとした。
全身がまっすぐに固まり、自ずと背筋が強ばった。
どうして魔術部に入ったのかと問う、観覧車での倖果の声が蘇る。
「やはり咲麻が――いや、ごめん。ごめんなさい。やっぱり忘れてくれ。どうして私ってヤツはこう――」
表情を読み取られたか。生真面目に謝ろうとする神奈坂を遮って、
「必要とされているから、だと、思う」
今度はきちんと考えて、僕は答えた。
――客観的に見て、閑馬住生という人間に社会的価値はない。
身分はアルバイトをしていない学生。金銭を生み出さず、ただ社会に養われている。学校にもろくに友人がおらず、対人関係において誰かを幸せにしているということもない。
僕という人間を突き詰めた時、最後に残るのは『復旧』だけだ。『復旧』だけが今、他者――魔術部のみんなに必要とされている。魔術だけが僕に存在意義を与えている。
人は人の役に立つために生まれてくるはずだ――
「……答えてくれてありがとう。でも、」
シンプルだがそれなりの確固たる回答をしたと考える僕に、しかし神奈坂は眉をひそめていた。
そして、
「それは不健全だ」
にべもなく、切り捨てるように付け加えた。
予想外の返答に戸惑う。
「いや、不健全って……そっちはどうなのさ。神奈坂だって、お姉さんやご両親のこともあるけど、後から『私の基術式でしか倒せないから』って言ってたじゃないか」
「私は義務だからやるだけだ。私にしかできないから、私がやらなきゃいけないんだ」
僕には彼女の投げつけるような物言いの方が余程不健全に思えた。義務ってなんだ義務って。
「まあいい。なんだか私はキミを、俄然死なせたくなくなってきた」
神奈坂さんは憮然とした様子で言い、そしてこう宣言した。
「チバも、咲麻も、願さんも誘って、今度はみんなでラーメンを食べに行こう」
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