3-2.フラレ野郎御慰めパーティー

 使い古しの濡れ雑巾みたいなはっきりしない空模様。

 見ていると、いっそ溜めこんでいる水分すべてを今すぐだばだばぶちまけてしまえと文句をつけたくなってくる。今朝から止む気配を見せない雨はいったい誰に遠慮しているのか、雨足も粒の大きさもずいぶんと控えめであった。そのくせ切れ目なく降り注いでいる。

 屋内に入ると雨音は静かで、耳を澄まさなければ聞こえもしない。テーブルに座った僕たちを包みこむのはしっとりと冷えた梅雨の空気のにおい……ではなく、寸銅で炊いた動物の骨と、焼けた油の香ばしいにおいだった。

 カウンター奥の厨房からはジャージャーと何か炒める音が聞こえてくる。


「フラれ野郎御慰めパーティぃいー」


 いぇーい、ぱちぱちぱちー。


「少しはオブラートに包んでくれませんかね……」


 思わず音頭に乗って拍手をした後でがっくりとうなだれる。

 四人掛けテーブルの正面にはチバ先輩と神奈坂さんが、衣替えを済ませた制服――白い半袖の夏服姿――で座っていた。

 テーブル席が四卓、L字のカウンター席が八席。店内は清潔だが、壁からはかすかに染みついた油の香りが漂っている。夕方の中途半端な時間帯だからか、他の客はカウンターの中年男性二人しかおらず、静かにラーメンを啜っている。

 行列のできないラーメン屋に連れていってやろう――修飾語にうまいがついていないのが気にかかったが、オゴってやると言われて即諾、この乳楢市の東端に建つラーメン屋というよりも年季の入った地元密着の中華屋「きぼう軒」までホイホイついてきた。その果てが先の洗礼である。


「いやごめんごめん。でもきっちりノってくれるスミーのことあたし好きよ? で、注文なんにする? オススメは味噌かカニク」

「味噌ラーメンで」即答。果肉は今度倖果にでも食わせよう。

「あ、私も。大盛りで」神奈坂さんも乗っかった。

「んーつまらんねあんた方……でもあたしも味噌にしよ」


 店員さんを呼んで味噌ラーメンを三杯全部大盛りで、加えて餃子も頼むチバ先輩。注文を済ませると先輩は「アテクシ花摘み」と店内奥のトイレに飛んでいってしまった。


「……と」


 忘れる前にポケットから携帯を取り出し、夕食は要らない旨を倖果へとメールする。失恋パーティー中でも当の失恋相手にメール。うむ、人間は生活からは逃れられないのだ。


「大変だな」


 内容を察したのか、神奈坂さんが腕を組んでメガネ越しに哀れみの視線を送ってくれる。


「そんなことないよ。それより、企画してくれたの神奈坂さんなんだって?」

「げ、漏らしやがったのかアイツ」

「うん」


 肯定すると、神奈坂さんは顔に苦々しさを浮かべた。

 昨夜『チバのオゴリだから三人で行こう』と神奈坂さんからメールが来たので、チバ先輩にメールでお礼をしたら『企画したのはツッキーだよん☆』と返信が来たのだ。

 神奈坂さんが? と返したら『二人で行きゃいーじゃんって言ったんだけどさあ、そうはいかないとかなんとか。わからなくもないんだけどね~』とのこと。よくわからない。


「いきなりありがとう。けど、なんでラーメン屋?」

「あー、そのな」


 神奈坂さんはお冷のコップを口につけながら気まずそうに、ぽつぽつと語り出す。


「最近のキミは自分を傷めつけるような感じだったから。正直少し心配だった」

「え?」


 僕はテーブルの上に置いた自分の手の甲に目を落とした。

 擦り傷はもう癒えている。

 傷めつけるような感じ――自分では意識できなかった。普段通りにふるまえていたつもりだったが、人が見てもわかるくらいにおかしくなっていたのか、僕は。

 神奈坂さんは目を泳がせ、絞り出すように、しどろもどろに言葉を続ける。


「それがその、失……失恋絡みのことなのかなと思って。なら何か、イベントでも設けて元気づけてやりたくって、けど私には食事くらいしか思いつかなくて……事情を聞いたチバに相談して……スマン! なんだか今私はものすごくデリカシーに欠けることを口にしている気がする!! すまないっ!!」


 テーブルに打ちつけんばかりの勢いで頭を下げる神奈坂さん。


「えーと、その」


 困ってしまった。こういうときおろおろしてしまうのがダメ野郎のダメ野郎たるゆえんなのである。

 返答に窮していると、神奈坂さんは顔を伏せたままでちらり、と目だけを上に向けた。メガネのレンズを通していない彼女の瞳と目が合った。


「お節介、だったかな……?」


 申し訳なさそうに言う彼女の青い眼差しには、人の温かさがこもっていた。

 これまで彼女に感じていた、氷めいて冷たい印象とは正反対のぬくもり。


「いや、まったく全然そんなことない。ありがとう、ホントに」

「そう、か――……そうか。よかった」


 顔を上げた神奈坂さんは安心したようにニコっと笑った。百合の花のような、気品と柔らかさの同居するとても優しい笑顔。

 知りあって一ヶ月、初めて見る表情だった。

 ドキッとしてしまった。


「――――っ」


 顔が熱くなったのは自分への羞恥からだった。

 強烈な自己嫌悪に襲われる。

 もの悲しくなるほどの節操なしだ。優しくしてくれる可愛い女の子なら誰でもいいみたいじゃないか。いや、事実そうなのかもしれない。僕うんこだし。うんこな僕はせめて、自分のクソさからだけは逃げずに向きあわなければならないのかも。いや、それは自分を貶めるのを正当化していないか? これ以上堕ちていいのか?

 混乱しはじめた僕の思考を誰かの声がぶった切った。


「ざわめき出す二人のハーツ! 新たなる恋のスメル! むせる!」

「はっ倒しますよ」


 花摘みから戻ってきたラップ調のチバ先輩に僕が言うと同時に、神奈坂さんが先輩の頭頂部を思いっきりはたいていた。





 滋味深い動物出汁が背骨となり、赤味噌と背脂が織り成す嫌味のない深いコク。スープに負けないプリッとした太めの縮れ麺。食感を残した香ばしい炒め野菜。

 きぼう軒の味噌ラーメンは真顔になるほどうまかった。そしてやたらと大盛りだった。


「いやーうまいね実に。あたしが刑事だったら取調室の容疑者にはかつ丼なんかよりここの味噌ラーメンを出前させるね。もう一口で全部ゲロっちゃうよ、ヴェエーェエって」

「ホントにうまいって意味で言ってるんですよね……?」

「決まってるじゃんかよう。今だったらあたしやツッキーもなんでも答えちゃうかもしれないぜ? スリーサイズとか。うまいものは人を開放的にするのさー」


 ずぞぞー、とひなたぼっこ中の猫みたいに幸せそうな表情で麺を啜るチバ先輩。

 僕はそれを聞いて、訊きたかったことを思い出した。


「じゃあひとついいですか?」

「何? おムネ? いいよいいよツッキーのバストはなな――」


 顔面に神奈坂さんの裏拳をめりこませているチバ先輩をよそに続ける。


「先輩と神奈坂さんはなんで逃げないんですか?」


 ――これはカマをかけた質問でもある。

 もし彼女たちのうち片方からでも「街の住民を標的にさせないため」といった類の返答があれば、倖果の「逃げても大丈夫」は嘘だったのだと確定する。逆にどちらもそういった返答をしなければ、本告さんの方が嘘をついていた可能性が高まる。

 先輩と神奈坂さんはきょとんとした様子で顔を見合わせて、それからこちらに向き直った。先に話しはじめたのはチバ先輩だった。


「あたしはこの土地の――乳楢市の管理者だから」

「地主なんですか?」

「いやいや、そんな大それたもんじゃないよ。魔術的な意味合いで。……んーとね、『神制機構しんせいきこう』って願さんから聞いたことある?」

「いえ、ありません」

「そっか。神制機構っていうのは魔術師の相互扶助組織のこと。魔術師はみんな神制機構に登録する義務があるんだけど、うちの家系――千葉家は、代々乳楢の管理者として、この土地の魔術師の管理義務を機構に担わされているわけ」

「管理……ですか?」

「四六時中みんなを見張っていたりはしないよ。登録者同士でケンカしない、人様に魔術をばらさない、危ない魔術――禁呪を習得しない。これを守っているか定期的にチェックするだけ。あとはスミーみたいな、機構に登録されていない、突発的に魔術に目覚めちゃった人、所謂超能力者の類を発見する……あたしはスミーを見つけられなかったけどね」


 面目なさそうに頭をかいてチバ先輩ははにかむ。


「で、ここ数十年で[災禍]が観測されるようになってから、土地管理者には新しく『逃げずに[災禍]を迎え撃つ』というとんでもない義務ができちゃったのさ。管理者なんだから責任持て、ってね。ひどい話っしょ?」


 眉を吊り上げて同意を求めるチバ先輩に、僕はふと思いついたことを提案した。


「その神制機構に協力をあおぐことはできないんですか? 何人か強い魔術師を派遣してもらったりとか」

「無理。機構が[災禍]について、魔術師たちに出した方針は――」

「『戦って死ね』」


 言葉を継いだのは神奈坂さんだった。物騒な響きに息を飲む。

 チバ先輩はチャーシューをかじりながら、疲れたようにため息をついた。


「彼ら魔術師の行動原則のひとつに『一般人に危害を加えてはならない』ってのがあってね。[災禍]が現れたら決して逃げずに、無謀でもなんでも戦えって。魔術師みんなが戦える術式を持っているわけじゃないのに」


 魔術師は人を傷つけてはならない――本告さんが言っていた言葉だ。


「[災禍]が出てからの協力要請もはねつけるってあたり『逃げるな』より『死ね』の比重が重い気がするんだけどねえ……わざわざ火中に飛びこみたがる職員もいないってことかな」

「じゃあ僕たちの場合も、他の魔術師の協力は見込めないんですね」

「そゆこと。それに本来[災禍]は予測できないものだからねえ。半月後に[災禍]が来るんです助けてください!! なーんて泣きついてもだーれも信じちゃくれないさ。願さんもどんな手品を使って予測なんかしたんだか」


 油で照り輝いている餃子を一口で放りこみ、先輩は言葉を切った。

[災禍]の到来は予測できない――これは倖果が言っていたことだ。

 倖果はたぶん嘘をついていない。嬉しさと同時に、やっぱり逃げてもいいのかな、と、不安と安心を無理やり混ぜたような感情がぐるぐると胸に渦巻いた。


「願さんは昔神制機構で働いていたらしいし、大方そのツテじゃないかな」


 餃子から迸った灼熱の肉汁に口腔を焼かれ、涙目であえいでいるチバ先輩をおいて、神奈坂さんが呟いた。


「本告さんが機構で?」

「ああ。八年前に辞めたかクビになったか……で、次は私の理由だったな」


 彼女は箸を置いて、一息で言い切った。


「八年前に殺された姉――神奈坂るつきと、両親の敵討ちのため。あの時の[災禍]は願さんが倒したから、今回のは別個体になるんだけどな」


 八つ当たりに近いか、とこぼし、神奈坂さんは自嘲した。

 彼女の顔を見て、僕は倖果の乾いた笑みを思い出した。

 神奈坂さんの表情もまた、ヒビ割れたガラスだった。


「ごめん」

「さっきのとこれでおあいこだな」


 口辺を上げて神奈坂さんは不敵に笑う。

 他人の戦う理由に頓着するべきではなかった。僕は今さらになって自分を恥じた。人の心に踏みこもうなんて、あまりにも不躾だった。


「それに[災禍]は私の基術式でしか倒せない」


 残り少ない麺を手繰り寄せながら神奈坂さんはぼそっと呟く。


「あれ? そういえば神奈坂さんの基術式って?」


 その時僕は初めて、まだ神奈坂さんの基術式を知らないことに気がついた。

 基術式――生まれつき刻まれている、その人を象徴する術式。


「……あれ? 言ってなかったか?」

「『身体強化』は……基術式じゃないんだよね?」


 おおまかにしか覚えていないが、先日本告さんに術式を活性化してもらったときに聞いていた。神奈坂さんの『身体強化』は、後天的に、学んで身につけた術式なんだと。

 神奈坂さんはあちゃー、といった顔つきで頬をかいた。


「訓練中も使ってるんだけど、見た目じゃわからないものな……閑馬、この後少しだけ時間もらえるか? 教えとくよ」

「いいの?」

「全員が全員の術式を把握していないと、いざというときに困るだろう。そうだ、チバも――」

「げ!」


 唐突にすっとんきょうな大声をあげるチバ先輩。妙にわざとらしい。


「どうしたんですか?」

「いいいいっけねー! 午後六時から映画チャンネルで『ピーターパンドラッグシンドローム』やるの忘れてた! トムさんがラリるんだよ! 悪い先帰る!」

「家に連絡して、お手伝いさんにでも録画してもらえばいいだろう」


 呆れたように神奈坂さんが言う。お手伝いさんなんているのか、と僕は感心した。代々土地の管理者だというし、やっぱり大きい家なのだろう。


「リアルタイムの生で観るのと人に録画してもらったのとじゃ味わいが違うんだよう! ほんじゃバイバイまた夜中ー!」


 言うが早いが立ち上がり、ダッシュで店の扉の前まで行ったところで急旋回、カウンター越しに店員にラーメン三杯と餃子の代金を払って、チバ先輩は再び雨の降る外へと駆け出していった。そんなにトムさんが好きなのだろうか。


「……アイツ、何考えてるんだ」

「そういえば、神奈坂さんはチバ先輩に敬語使わないね」

「ああ、チバとは幼なじみだから」

「幼なじみ?」

「お前と咲麻と同じだよ。……閑馬も別にさん付けしなくていいぞ? タメなんだし」

「ああ、了解。ええっと、……」

「…………」

「ツッキー」

「よく言った。オマエ後でグーパンチな」

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