Sumio-4

4-1.閑馬住生と千葉綾佳

 気がつくと、自分の部屋のベッドで寝ていた。

 カーテン越しの陽の光は木漏れ日のように淡くて優しい。

 外はもう明るいのだろう。上体を起こすと、体のあちこちがぎしぎしと軋んだ。

 ベッドから立ち上がり、壁にかけられた時計を見る。午前七時半。もう朝食の時間だ。

 朝の自室には、何かもやもやとした違和感があった。何かが足りない。

 しばし考え、それがフライパンとお玉の打ち鳴らす音だとわかり、


「――――」


 えずいた。

 背中を丸めて口を押さえる。目を強く瞑る。

 意識はあるままに思考がハレーションしはじめる。

 あの前後だけ記憶があった。

 思い出したくない。思い出さなければならない。





 ――その首から上が、大量の潰れたキイチゴになって。

 僕はただ、ぼーっとしていた。

 あれ? なんで? どうして? おかしい?

 飛びこんできた光景を前に、そんな単純な疑問符で世界は埋めつくされていた。

 飛び散った赤い汁と、果汁が染みた豆腐みたいなものの破片。

 それをきちんと理解して。

 頭のスイッチがばちんと入り、弾かれたように飛び出した。

 直後、体側面に外殻弾を浴びた。

[災禍]の射線に身を晒した、その当然の帰結であった。

 衝撃で渡り廊下からA棟の壁にまで飛ばされ、叩きつけられて。

 痛苦の渦中で、自身の『復旧』をして。

 その時チバ先輩がむんずと僕の腕を掴み取ったのだ。

 階段を下り、走って、走って、何も考えられないまま走り抜けて。

 旧校舎を囲むフェンスを抜けて、裏手の山道に入る前で、膝ががくがく震え出して。

 その場で地面に、ぺたんと尻餅をついてしまったのを覚えている。

 そこから先の記憶はない。





 そして僕はここにいる。猫背になって呻いている。

 喉と肺と心臓がひとつの器官を形成していて、鉄条網でぎゅうぎゅう締めつけられていた。額と背中におびただしい汗がにじむ。苦悶の波が寄せては返す。

 やがて少しだけ落ち着いて、クローゼットに歩み寄った時、


「…………」


 何かに足をひっかけた。

 ゲーム機のコードだった。

 極彩色のブロックが部屋いっぱいに渦巻いた。僕は嘔吐した。



 **



 自動的に登校していた。

 たしか「今日はお休みしようか」といったニュアンスの言葉を、家を出る前に華乃さんに言われたのだけれど、意味もなく断ったのだ。僕が華乃さんに気を遣われる資格はない。むしろ謝らなければならない。なのにそういった言葉はひとつも口から出てこなかった。

 一人での登校は数年ぶりだった。

 このままサボってどこかへ消えてしまおうかと思ったけど、どこへ行くあてもなかった。だからふらふらと教室まで来ていた。

 同級生でいっぱいの教室は、人間のにおいがした。

 やがてホームルームの時間となり、先生が来た。クラスメート全員が席に戻ってから、ぽつぽつと何か話しはじめた。

 隣のクラスの咲麻さんが事故で亡くなったらしい。

 告別式の日程やら何やらを説明している。教室が静かにざわめいて、なんだかよくわからない空気だ。隣のB組からは、何人かの女生徒の悲痛な金切り声が聞こえてきた。

 僕は、ただぼんやりとしていた。

 胸に穴が空いた――というより、自分自身が空っぽになってしまった。

 ぽっかり空いた殻の内側を、ひゅうひゅうと外の喧騒が撫でる。耳の奥がりんりんと鳴り出す。

 きっと僕はあの時ショックでくたばってしまったのだ。今ある意識のような産物は、頭の中に残留した電気がだだ漏れて形作っている、いつ途切れてもおかしくない代物なのだ。つまり死体が垂れ流す糞尿に他ならない。

 徹夜明けの不調を何百倍にも濃く煮詰めたような頭で、益体もないことを考える。

 生きちゃってるから生きているあの感じが、これまでにない濃密さで僕の内側を満たしていた。



 いつの間に昼休みになっていた。

 今日はいつにもまして誰にも話しかけられなかった。

 腫れ物扱い。みんなとても優しい。純粋に嬉しかった。

 司書室に行こうと、弁当箱片手に教室を出た。


「…………」


 扉の横に、どうしてか遠近がいた。右手にはパンダ柄のランチバッグ。

 彼女の目線は下向きにさまよい、半分開いた口はあうあうと困っていた。何かを言いたそうでいて、けれど何も言えないようだった。どうしていいかわからないのだろう。僕にだってそれくらいわかった。


「行こう」


 自分の声が思ったよりも平坦で、安心した。

 図書室は休館だった。鍵のかかったドアには、本日午後二時より開室、と、知らない先生の字で書かれた貼り紙がされていた。

 僕と遠近は図書室近くの、薄暗い空き教室で昼食を摂った。お互い無言だった。久々に華乃さんの作ってくれた弁当は段ボールみたいな味がした。



 午後の授業は久しぶりにサボった。高校に入ってからは初のことだ。

 立入禁止の屋上に入ると、フェンスの前には先客がいた。


「や」


 チバ先輩だった。スカートの下に何故かジャージを履いている。

 屋上全体を囲んでいる事故防止用のフェンスにかけていた指を離し、片手をあげてこちらを向いた。


「こんにちは」


 挨拶だけ返して、僕は先輩に近寄らずにすぐ傍のフェンスへと歩を進めた。

 空は白々しいほどに青く、夏の日射しが燦々と眩しい。


「無事だったんですね」

「鬼ごっこで全員生き延びたよ。応戦せずに逃げの一手なら、一日くらいはなんとかなるもんだね。街に出たら物理的な被害が出る恐れがあったから、旧校舎と裏手の山を右往左往。スミーはあたしの背中でぐっすりだったね」


 蚊に刺されて大変だったんだよう、と二の腕をさらす先輩。

 半袖の制服から覗いた脇に、血のにじんだ包帯が巻いてあるのが見えた。


「神奈坂と本告さんも無事なんですか?」


 焦ったように訊く僕の、声の響きがどこか義務じみている。気持ち悪い。


「ボロボロだったけど、どうにかね。放課後には本告さんが学校に来るから、司書室で作戦会議しよう。機構への応援要請はやっぱり無視されちゃったけど」


 作戦会議。作戦会議?

 そういえば、まだ戦いは続いているのだっけ。


「いや、僕はいいです」


 答えたその時。

 僕はようやく、神奈坂の言った「不健全」の意味がわかった。

 誰かに必要とされているからなんて、命がけで戦う理由にはならなかった。

 死に身を晒す理由にはならなかった。


 だってそれって、頼まれれば死ぬって言っているのと同じじゃないか。


 死。死だ。

 僕は人の死を舐めていた。フィクションから現実に引き戻された気分だった。リビングのテレビで殺人事件のサスペンスドラマを観終わり、ふと振り向いたら家族が台所で首を吊っていたかのような、悪い冗談めいた感覚。

 僕はその現実という奴に首根っこを掴まれ目蓋をこじ開けられ「さあ見ろこれが死だ」と、形相も温度もわからない真っ黒くておぞましい何か、理解した瞬間に気が狂うであろう得体の知れないあぎとの底を、無理やり見せつけられていた。

 観覧車で倖果にのたまった言葉を思い出す。


「人の役に立てるのが嬉しい」


 改めて今口に出したそれの、いったいなんと薄っぺらなことか。

 僕は他人など、本当はどうでも良かったのだ。


「そう思っていたんですけど、嘘でした。僕は、自分のこともわからなかった」


 何が人の役に立てるのが嬉しい、だ。本気でそう感じるご立派な人間なら、なんで部活もアルバイトも、なんならボランティアのひとつもやっていない。

 のが気持ち良かっただけだろうが。

 僕は本当は他の人間よりずっと優れた人間なんだと、卑しい劣等感を慰めて、矮小な自己愛を満たしていた。倖果一人守れもしない、くだらない、ゴミみたいな魔術で。

 嫌味でひねててガキ臭い、人を見下した最低の悦びだ。

 あさましい優越感の化け物。それが僕だった。


「笑っちゃいますよね。ホント、どうしてこんなふうになっちゃったんだろう」


 それでも。

 見つけた価値にすがりついた。

 存在意義を定義したかった。

 誰かにとっての何者かになりたかった。

 その果ての結末がこれだ。

 倖果が死んだ。そんなもののために。

 僕が彼女を街から連れ出さなかったために。ここから逃げなかったために。

 脅す本告さんを撃ち殺してでも、逃げようとしない倖果をふん縛ってでも、僕は彼女と二人でこの街を離れるべきだったのだ。観覧車での倖果の言葉――逃げても住民は標的にならない――が仮に嘘だったとしても、乳楢の住民なんかどうでもよかった。クラスメートたちも含めて、彼らは僕にとってテレビの中の人間と同じだった。


「一緒に逃げよう」――僕はあの時あの観覧車で、乾いた笑みを浮かべた倖果にそう声をかけるべきじゃなかったのか?

 何故言えなかった?

 あの自分のことしか考えていない僕の返事は、倖果にはどう響いていた――?


「――――」


 背中が、びくんびくん痙攣しはじめていた。

 膝から崩れて、フェンスに両手をかけた。

 吠えていた。

 死にかけの犬を蹴飛ばしたような声が喉奥から吐き出されている。自分の口からこんな滑稽な鳴き声が出ていると思うと情けなくて可笑しくて、細く早く息を継いでは、また吠えた。瞑った目蓋から冷たい水がどろどろこぼれて、屋上の白いタイルを汚していく。

 ぎしぎしと、フェンスが音を立てていた。

 かけた両手の指の痛みが、現実めいて生々しかった。



 **



 丸めた背中をチバ先輩にさすられながら、僕は少しずつ体の痙攣を収めつつあった。どんなつらさにも終わりが来る。それが心底腹立たしかった。


「住生はさ」


 チバ先輩が、俯いた僕の顔を覗きこんでくる。


「……なんですか?」


 声がかすれてしまった。さっきので喉がいかれたらしい。


「もう、本当につらい?」


 琥珀色の瞳が心に入ってくる。ああ、この人は心底僕のことを、二ヶ月ぽっち付き合っただけの、人殺しの僕のことを心配してくれているのだ。


「はい」


 短く答える。僕はもうダメだった。もう一度自分を騙して人のために何かするには汚いものを掘り返しすぎた。こんなにも良い先輩に僕は何もしてやれそうにない。


「死にたい?」


 死ぬ。スマートな単語だ。きれいでも汚くもない、ただ真っ黒な現実。


「死にたくはないと思います」


 死ぬのは怖かった。ましてや人のためになど死ねない。自分のためにというのも難しい。


「生きたい?」

「……わかりません。生き死にというか……ここにいたくない」


 そう、日常的に誰もが使う「死にたい」のニュアンスだ。

 生きるのがつらい。

 この生活をしたくない。

 消えてなくなりたい。

 楽になりたい。


「やり直せるなら、やり直したい?」

「はい」


 不思議な問いだったが、明瞭な返事ができた。そうだ。僕に願いがあるとすればそれだろう。心の奥底をうまく言語化されて、腑に落ちた感覚さえある。

 もっとも、願いって、叶わないコトを指すのだろうけど。

 チバ先輩はフェンスにかけた僕の手に、そっと自分の手を重ねた。柔らかくて温かい、女の子の手だった。


「ちょっと、話をしようか」

「話?」

「住生の人生に関わるお話」


 重ねたチバ先輩の手が、赤く光り出す。

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