1-4.私は顧問の本告願
カウンターでの業務を終えて閉館準備も整ったところで、本告さんは当番の図書委員を一足先に下校させた。彼らが図書室を出ていくのを確認して、僕は入れ違いに生徒のいなくなった図書室へと入室する。
夕陽を背に、白衣を着た本告さんが優しい微笑みを浮かべて立っていた。先端でひとつに束ねた長い亜麻色の髪が陽光に透けてきらめいている。
「閉館は私がするから、閑馬君は中で待ってていいわ」
そうして僕は司書室に案内され、ほどなく戻ってきた本告さんを前に、昨夜の件の話が始まるのを椅子に座って待っている。
放課後の司書室は昼間の喧騒が嘘だったかのように静かで、古い紙のにおいと紅茶の香りがセピアに染まった部屋を満たしていた。窓から斜めに射しこんでくる夕焼けの光が眩しくて、手びさしを作り右目を覆う。
十分に蒸らしたのを確認して、本告さんはポットから注いだ紅茶のカップをテーブルに出してくれた。お礼を言って一口含むと、温かさと柔らかい果実の風味が口に広がり体を溶かしていく。身構えた心をほぐされていく。本告さんのお茶は不思議だ。
「あの子たちはね、戦う訓練をしているの」
カップを片手にワークチェアごと僕へと向き直り、本告さんはそう言った。
「戦う?」物騒な響きにオウム返し。
「そう、戦い」
「何とですか?」
「八年前の大火災の原因。と同じモノ」
え、と僕は言葉に詰まる。
八年前の大火災というのはもちろん、新聞やニュースでも取り沙汰された乳楢市の火災のことだろう。
結局あそこまで燃え広がった原因は未だ不明のままで、何らかの自然災害とも、はたまた複数犯による放火だとかいう陰謀論めいた議論さえも以前は大真面目に行われていた。
……もしかして、本当にそうなのか?
「閑馬君、まだ『復旧』は使える?」
本告さんは唐突に話題を変えた。
意図が掴めなかったが、黙ってこくりと頷く。
「やってみせて」
形あるものを要求するように、すっと上向きにした手のひらをこっちに差し出す本告さん。何故か肘まで袖をまくっている。
「え、でももうずっと試してな――うわっ!」
本告さんは机の上のカッターナイフをとって、消しゴムのかすでも払うかのような手つきで、僕に突き出した自分の手首をすぱっと斜めに切り裂いた。
見る見るうちに真っ白な肌に赤く鮮やかな血が盛り上がる。滑り、滴り、床にシミを作る。僕は慌てて椅子から立ち上がり、本告さんの腕に触れた。
傷つく前のきれいな腕をイメージして――『戻す』。
「ん、流石。『復旧』――五秒ルール、健在じゃない」
それはさながら潮が引くように。
本告さんの手首は元通り、傷ひとつない姿に戻っていた。肌は陶磁器みたいに美しくて、透けて見える青い血管がいやに官能的に映った。
「――っ」
こめかみに軽くヒビが入ったような痛みが走り、くらっとする。
何歳頃からだろう。ちからを使うと、反動で頭が痛むようになった。
「急に頼んで悪かったわね……大丈夫、閑馬君?」
「……大丈夫です」
ふぅっと息をついて顔を上げる。
年齢を重ねるたびに反動は大きくなっていった。今ではおそらく、もう二回か三回使えば倒れるくらいきついはずだ。
椅子について再び紅茶を飲む。
血のにおいが鼻に残っているのか、風味はいまいちわからなくなった。
「あなたには、今のをやってほしいのよ」
床に垂れた血をティッシュで拭いながら本告さんは話す。
「火災の原因は自然現象でも人為的なものでもない。今みたいなちから――私たち魔術師が『魔術』と呼ぶ現象に属する、とある生き物が起こしたの。私たちはその生き物を[災禍]と呼んでいる」
「災禍――魔術師?」
魔術師という単語は、本告さんと出会ったばかりの頃に聞いた覚えがあった。
小さかった僕にはその言葉の意味はよく理解できなくて、要するに君と同じくちからを使える超能力者だ、という一言にすごく納得したのを覚えている。
他人の前でちからを使ってはいけない、と厳しく念押しされたことも。
ちからを使える自分を特別な人間だと思ったこともあったが……僕の『復旧』というちからは、残酷なまでに有用性が欠けていた。
まず五秒ルール。五秒以上前の状態には戻せない。
次に、僕自身が知らない状態には戻せない。五秒以内の元の状態を把握していないと、戻したい形がイメージできないから――たとえば背後で花瓶が落ちても、元々の花瓶のイメージを形成できないので戻しようがない。走っている途中で突然切れた靴紐なんかも戻せない。戻したいものは常に視界に入れておく必要があるのだ。
おまけが本告さんのこの言いつけ。ちからは他人に見せてはいけない。
人に自慢もできない、自分でもろくな用途が思いつかない超能力なんて持っていても、優越感など覚えようもなかった。反動がどんどん重くなったこともあって、さっき本告さんの腕を戻す前にちからを使ったのがいつだったか、今となっては覚えていない。
「[災禍]……ですか」
あの火災には専門家がそろって首を傾げるほどに不可思議な点が多い。だからそういう超常的な事柄が絡んでいたとしても、何ら変だとは思わない。
けれど、
「なんだかそれ、すごくオカルトですね」
可笑しい。
自分を棚にあげて僕は冗談交じりに笑った。
「そう、オカルト。最低でしょう? そんなわけのわからないモノにこの街の六百八十九人は命を奪われたのよ」
本告さんも薄く笑って答えた。
それは今まで見たどんな顔よりも酷薄で、痛々しい表情だった。
自分の軽率な発言を後悔した。
「[災禍]の本来の目的はね、その土地の魔術師を一人残らず死滅させることなの。アレはそのために現れる生き物。だから本来ならば、一般の人を巻き込むあんな火災なんて起こるはずもない。けれど起こってしまった。何故だかわかる?」
僕は
「この土地の……乳楢の魔術師が逃げたからよ」
**
日が暮れた後も、本告さんは僕に色々なことを語ってくれた。
魔術師は自分たちの命を守るために、降りかかる[災禍]と戦っている。
もしも逃げたら代わりに街の人が殺されてしまう。
そして人よりも強い、特別な力を持つ魔術師という生き物は、人のために生きなければならない。だから絶対に逃げてはならない。
「逃げるくらいなら殺されなければならない――」
真顔で話す本告さんの言葉には重さがこもっていて、僕は何も答えられずにいた。
僕が同じ立場だったらどうするだろう。死ぬのは怖い。まともに想像しようとすればするほどに、足下の暗闇が深くなるようで恐ろしかった。やっぱり逃げ出してしまうのだろうか。
「私は八年前の[災禍]と戦ったけど、みんなボロボロになりながらもどうにか倒しきった直後に、なんと二体目が出てきちゃってね」
「……に、二体目?」
「ええ。史上稀にみるケースだったみたいよ。それで絶望しちゃった仲間の男と女が逃げ出して。二体目の[災禍]は残った私たちを適当にあしらって、午前三時の街の中に消えたの。……その後、二体目は私が倒したみたいなんだけどね」
「え、……倒したんですか?」
驚いて訊き返す。
話の流れから、てっきり本告さんはやられてしまって、何も止められなかったのかと思っていた。満身創痍だったのではなかったのか?
「覚えてないけれど、どうやらそうみたい。あの後[災禍]から私に宿った莫大な魔力がそれを証明している。……魔術師はね、殺した人間や[災禍]の命から、そのエネルギー――魔力を奪うのよ。だからこそ普通の人以上に、絶対に誰かを傷つけてはならない。力を求めて人の命を奪う生き物に堕ちてはならないの」
魔力――生命力が作る泉。
僕たちは体に宿るこれを燃料にしてちからを使っている。
「[災禍]の魔力を奪えるのは、ひょっとしたらアレが人間の延長にいる生き物なのかもしれない、ってことなんだけれどね」
言い終えた本告さんは二杯目の紅茶を飲み干し、一息ついた。
しぐさから、何かを言い出すつもりなのだと分かった。
「さて。もうそろそろ、いいかしら」
僕はもう、話の流れが読めてしまっていた。
「本告さんも、チバ先輩も神奈坂さんも、……倖果も、魔術師で。そのうちこの街にまた現れる[災禍]と戦わなきゃならない、ってことですよね」
「ご名答。加えて、次の[災禍]は二ヶ月後。七月に現れる、ということも言っておくわ」
体が強ばり、呼吸が止まる。
心臓をわし掴みされていた。
もうすぐではないか。
あと二ヶ月経ったら、本告さんたち四人は分の悪い戦いに命を賭して臨まなければならないのか。そして四人全員殺されたら、最後に残った一応魔術師であるらしい――ちからを使える――僕も[災禍]に殺されるのか。
「……僕が今乳楢市から逃げたら、街はどうなりますか?」
「アウトよ。この街に現れた瞬間[災禍]は住民の虐殺を始めるでしょうね。もし逃げるつもりなら、私はここであなたを殺さなければならない」
脅しでなく本気なのがわかった。これまでの話と冷たい声色が明確な殺意を湛えている。
この人はもしかすると[災禍]以上に、逃げた二人を憎んでいるのかもしれない。
逃げ道がふさがれていくのがわかる。
「昨日のお茶、美味しくなかったでしょう? 色々手をかけたもの、昨夜はちゃんと来てくれて嬉しかったわ。一週間試してみてダメだったら直接話すつもりだったけど、何せ君を巻きこむのを倖果ちゃんが嫌がっちゃってね」
倖果。
僕は倖果の姿を思い浮かべた。
小さい時からずっと一緒で、
気がつくといつも隣にいて、
なんだってできるのになんでもないことでドジったりして、
可愛くて、
優しくて、
たまに見せる後ろ姿がものすごく寂しい。
「素敵な子よね、本当に」
笑ってしまった。
足がカタカタと震えていた。背筋を冷たい汗がつたった。
「僕も訓練に加えてください」
言葉は案外するりと出た。
何もせずに本告さんたちが[災禍]を無事倒すのを家で祈るか、直接[災禍]と戦うか。
僕は後者を選択した。
迷う心を見透かした本告さんの単純な追いこみに、あえて乗っかることを選んだ。
化け物と戦うのは怖いけれど、出会ったばかりの二人と本告さん、そして倖果が死ぬのは、何をどう考えても死ぬほど嫌だった。少しでもその確率を減らせるなら、こんな自分の生存率などいくら下がってもいいと思えた。
思えたことが、少し嬉しかった。
本告さんはにっこりと笑った。
「魔術部へようこそ。私は顧問の本告願。歓迎するわ、閑馬住生君」
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