2-2.2007年2月11日

 ひどく頭が痛かった。

 脳内の至る箇所が断線している。思考の負荷が凄まじく重い。考えようとした瞬間スパークした。凄絶な頭痛。今は無視せねばならない。八年遡行の『超越』の反動、死ななかっただけでも御の字だ。

 今はいつ?

 ここはどこ?

[災禍]は? 基草とるつきは?

 ほどなく世界が明瞭になってくる。

 周囲は暗い。家々が立ち並んでいる。

 私はコンクリートの冷えた路面に倒れていた。起き上がろうとした時、腹部に焼ける痛みを覚えた。

 脇腹に小さな穴が開き、じくじくと血がこぼれ出している。

 この傷は、基草とるつきが消えた後[災禍]に敗北してできたものだ。極小の外殻弾を防ぎきれず、体力が尽きたと同時にもらった一発。

 つまり――


「――――」


 声ひとつ、あげることができなかった。

 何もかも終わりを告げてしまった、暗くて静かな夜の続きに、私は仰臥していたのだ。

 手遅れになった後の時刻に遡ってきてしまっていた。

 あるいは、初めからここに至る必然だったのか。


「――――」


 私の八年の計画はなんだったのか――

 しばしの間、放心した。

 結局何も取り戻せないのなら、私は咲麻倖果を無駄死にさせたも同然だ。

 うつ伏せた冷たい路面になけなしの力を奪われていくようだった。


「――――」


 しかし、ずっと立ち止まってはいられない。

 もう遅いのだとしても、私はこれから私一人で災禍を倒さなければならない。できなければ、乳楢の人々が全員殺される。

 記憶にはないが、前の世界ではできたことだ。ならば確実に可能なはず。

 立ち上がろうとしたその瞬間、考えるより早く体が動いた。

 道路に手をついて、片腿を引き寄せ、膝をつき、足裏を地面に下ろした。腹部の激痛に苦悶の表情をにじませ、傷を押さえてよろめきながら。


 おかしい。

 すべてが、


「――――」


 声が出せないことに気がついた。

 足が操り人形みたいに勝手に前へと踏み出した。体の自由が利かない。いや、私がとろうとしている行動に先行して、体が先に動かされているのだ。

 各動作に私の意思が介在しているかどうかわからない。

 二十歳の、この世界の本告願に操られているようにさえ感じる。


「――――」


 ……どうでもいい。やるべきことは一つだ。

[災禍]に追いついて、倒す。

 問題は魔力がすっからかんな今の状態。時間経過で回復するのを待つ暇はない。どうにかして魔力か、何らかの兵器の類を調達しなければ――


「……おねーさん、どしたの?」

「え?」


 突然の声に道路から視線を上げる。

 目の前には肩まで髪を伸ばした青年がいた。だるだるのシャツにカーゴパンツ、だらしのない軽薄そうな身なり。

 しかしその目と表情は真摯で、気遣いの色を浮かべている。


「よろよろしてるし様子おかし……って、え? それ血じゃねーの!?」


 手に提げたコンビニ袋を放り出し、彼は慌てて傍にしゃがみこんだ。私が手で押さえている脇腹をまじまじと見つめている。


「ウッソだろ……と、とりあえず救急車呼ぶよおねーさん。良いよね?」


 震える手でポケットから携帯電話を取り出している。


「……ええ。あり、がとう」


 この青年は、善人だ。

 私が守りたいもの。守らないといけないもの。

 私は彼に手を伸ばした。こういう人間が、私は愛しい。


「肩を……貸して」

「え? ああ、うん! でもとりあえず救急車呼ぶよ? えっと――と?」


 彼が唐突にすっとんきょうな声をあげる。

 私は彼の顎と頭を両手で挟み、ぐっとひねり上げていた。百度ねじって手前に倒す。ごぎりと、骨がゆがむ嫌な音がした。

 彼の携帯が道路に落ちて、かしゃんと小気味いい音を立てた。

 ぱっと手を離すと、彼の体は手前に倒れた。

 私はかがんで、白目を剥いた彼の首を掴んでしっかり両手で握る。

 その状態で何分か経った。

 窒息死した彼の命が、魔力となって私の体に流れこんできた。

 一連の動作の中で、私の意識は絶叫していた。口は開かない。開けない。

 

 ――何をしている。

 ――何をやっている。

 ――何をわけのわからない、もっとも理に適った行動を取っている――


「――――」


 無言のまま再び立ち上がる。脇腹の痛みが和らいでいた。

 この深夜に人が通りかかったのを天運と考えている私がいる。それは私ではない、しかしたしかに私の思考だ。

 周りを見渡した。車一台分の幅の道路が無数の十字路を織り成す、碁盤目状の住宅街だった。

 人の命――魔力を、十分に蓄えていそうな街並みだ。

 思ってすぐ、少し離れた奥の道路から鮮烈な破壊音が聞こえた。

 木とガラスと石壁が砕ける、家に迫撃砲を撃ちこんだような音響。

 あきらかに[災禍]によるものだった。殺戮が始まったのだ。

 

 そこからの本告願は自動的だった。


 手近な家のドアを衝弾で破る。知らない民家の寝室に上がり、最小の衝弾で手短に住民の頭をくまなく撃ち抜いていく。殺した者の魔力が入ってくる。

 抵抗の暇は与えない。一軒終えたら隣の家へ。

 やがて[災禍]の立てる街の破砕音に目覚めたのか、押し入った先で家人が起きているケースも増えてきた。気にせず撃つ。魔力を集める。[災禍]が彼らを蹂躙するよりずっと早く、効率良く。

[災禍]と競うように、人々を衝弾で撃ち殺していく。

 私が体を動かしているのか、二十歳の本告願の動作に従っているのか、わからない。

 卵を割るように人の命を奪っていく。まったく、悪夢じみている。


「――――」


 声はやはり出せない。

 私は本当はこんなことしたくない。

 けれど、こういうふうにしなければならない。

 本告願は街のみんなを、一人でも多く助けるためにいるのだから。



 **



 もう百人は殺しただろうか。

 身に満ちる魔力は今にもこぼれ出しそうに、とうとうとこの四肢を巡っている。

 先の道路には点々と、ちぎれた死体と肉片が散らばっている。パニックで飛び出した住民を[災禍]が撃った跡だ。本告願はこんなエレガントさに欠ける殺しはしない。

 見回せば、遠方の景色には炎の壁が、高く空まで上がっている。地平線を遮って、この住宅街と周辺地を囲っている。まるで逃がしはしないとでも言うように。

 自然にはありえない立ち上り方だった。観察すると、妙な光彩が垣間見えたり、燃えないはずのコンクリートのマンションに溶けた飴のようにまとわりついていたりする。

 魔術の炎だった。

 間違いなく、機構から派遣された魔術師たちが隠蔽のために放っている。住民の記憶処理、マスメディアへの工作も彼らがやってくれるのだろう。

 熱風が私の頬をなでる。血に濡れた髪を重くそよがせる。

 仰いだ真上の空は、朝焼けにも似た神秘的な交わり。赤い輪に侵食される青。


「――――」


 もう十分だった。

 魔力も、過去も、現実も。


 音のする方向へ歩き出す。十字路を三つ抜けて、坂道を下りて右折。

 崩れた民家の敷地から、血まみれの[災禍]が出てきた。

[災禍]の割れ目は、記憶よりも幾分大きく開いていた。覗いた肉にはえぐられた痕跡もある。機構の魔術師がやったのだろう。そして殺されたに違いない。

 自分たちでも始末に困るような術式さいかを組むなと言いたい。

 しかし、ここで殉じた機構末端の魔術師と『災禍』の術式を組んで実行した魔術師は、きっと地位も役職もまったく異なるのだろう。末端の者たちは真実を知らないはずだ。

 彼らとて、好きで殉じたわけではない。

 踏み出す。同時、[災禍]のレンズが光る。

 放たれる外殻弾。即座に衝壁で弾く。前に衝壁を展開しながら、淀みなく歩を進める。

 鋭い突起が[災禍]から伸び、衝壁と右胸を貫いた。すぐに握ってへし折った。煤けた喉を血が逆流した。げーっと吐き捨てて距離を詰める。

 三メートル。対射結界の内側に入った。

 青白く光る手を伸ばす。先には外殻の亀裂。赤い肉。

 撃つ。立て続けに、三、四、五。肉が飛び散る。拳大の穴が空く。

 代わりとばかり、肩、腿、腹部をどすどす突起に刺し貫かれる。

 構わず撃ち続ける。八、九、十。威力はいつしかライフルからカノンへ。『超越』も使っていないのにリミッターが壊れている。どんどん出力を増していける。

 血潮が暴れる。痛みが溶ける。脳神経が焼き切れる。


「――――っつ」


 手首から先が丸めた紙屑みたいに潰れてしまったところで[災禍]の体が路面に落ち、ずしんと大きな音を立てた。振動が足裏に伝わる。

 外殻の亀裂から、どろどろした肉が道路に流れ出ている。中身はきっと全部ミンチ。

 あっさりとした決着だった。

[災禍]がふっと消えて、私に刺さった突起も消えて。

 体が前のめりに倒れる。

 全身が熱くて、頭だけが薄ぼんやりと冷えていた。

 視界の端に映る、空の炎のオレンジが、あんまりにも鮮やかで――



 **



 ここにいたくない。

 思った瞬間、ばつんと意識が弾かれた。

 思考が、視界がフェードアウトする。たった今いた二十歳の世界が、四角いフィルムに変貌する。さっきまで真っ黒だった、落ちた地点のフィルムの四角に、倒れた私の姿が映る。

 私は再び、遡ってきた時の、フィルムの世界に弾き飛ばされていた。

 過去の世界から吹きあげる暴風が私を背後へ吹き飛ばす。さっき来た道筋の上を、風に吹かれるビニール袋みたいにぐんぐんと逆流していく。

 八年後いまへと、吸いこまれていく。

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