悪意の勝利者(2)

「もてるのね、貴方」


 開始を告げるゴングと同時に、レイチェルは意味深な笑みを向けた。当の俺は、斬りかかるどころか、所定位置から一歩も動けずにいた。それを確認するような間の後で、レイチェルが観客席を指し示した。しなやかな白い指先は、横断幕をかかげもった集団へと向いている。


「あれ、貴方のファンクラブでしょ? ふふ。妬けるわ。貴方、私の好みだもの」


 魅惑的な笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてくる。トランスもせず、真っすぐに向かってくるレイチェルは、隙だらけだ。ただおかしなことに、何かをしようという気が起こらない。


「さっきの戦い、見てたのよ。魔法が使えるのね。話に聞いたことはあったけれど、実際に見るのは、初めてだわ」


 結果立ち尽くしたまま、容易に接近を許していた。言葉さえ返さず、自信たっぷりに向かってくる彼女を見つめるだけだ。

 ただレイチェルが口を開くたびに、少しずつ、おかしな感覚に捕らわれていくのを感じる。五月蠅いはずの観客のざわめきも、『親衛隊』の悲鳴に似た声も、意識の中から遠のいていく。


「知っているでしょう? ここでは、強者こそがもっとも評価されるの。とても素敵よ、貴方」


 小悪魔の笑みをたたえながら近づいてきたレイチェルが、終に目の前に立つ。そうして俺の右手にそっと触れた。そのまま、哀願するような瞳で見つめてくる。


「ねえ。その剣で私を刺す気なの? ……違うわよね」


 声が出なかった。それどころか、唇を動かすことさえ難しかった。高熱を出したときに感じる、奇妙な浮遊感にも似た眩暈に襲われていた。自我が無くなった訳ではない。俺自身の意思はここにあるのに、それが行動へと移らない。

 もやの中に捕らわれた感覚だった。身を委ねてはいけない。危険な気配がすると、冷静に働きかける部分が、少しずつ失われていく。

 何もかもが、曖昧になり始めていた。自分が今どんな状態になって、何をしようとしているのかさえ、理解できなくなりつつある。

 そのうち考えることすら、どうでもよくなった。思い悩むだけの気力がない。あやふやになりかけた意識の中で、かろうじて認識できるのは、レイチェルの甘い声と微笑みだけ。


「剣を私に渡して」


 俺の頬に片手を添え、軽く鼻にかかった声で乞う彼女に、逆らう余力など無かった。レイチェルは抵抗の全く無い俺の手をのけ、まだ鞘に入ったままだった剣を引きずり出した。両手で柄を持ち、掲げる。目の前で光る刀身をぼんやりと見つめるばかりの俺を見て、可笑しそうに笑った。


「さあ、どうして欲しい? 剣は私の手の中。今の貴方じゃ、魔法もろくに唱えられない。そして」


 嬉しそうにはしゃぎ、剣を構え直す。重そうに扱いながら、それでも剣先は真っ直ぐにこちらへと向いている。


「このまま刺されても、貴方は避けることすらできないわね」


 突きつけられた剣の先端は、首元から十センチも離れてはいなかった。手を伸ばせば、すぐに届く距離だ。しかし今はレイチェルの言葉どおり、取り返すどころか回避すらできそうにない。視線の先にある自分の剣は、いつでも命を奪える状態にあった。


 レイチェルは様子を窺うように、そのままじっと俺の顔を見ていた。長い髪が風に揺れ、なめらかな波線を描く。

 剣は陽光に照らされ、不気味にその存在を主張している。だが訓練もしていない女の細腕には、耐え難い負荷だったようだ。間もなく、先端が小刻みに震え始める。

 その全てを、俺は他人事のように眺めていた。実際、現実とは思えなかった。目の前で微笑む女も、奪われた剣も、死の気配も、すぐそこにあるのに果てしなく遠い。


「やめた」


 突然、眼前から白銀が消え去った。重力に従って勢い良く下ろされたそれは、硬い舞台上に当たって乾いた高い音と細かな砂を巻き上げた。

 ふう、と小さく息を吐いて、レイチェルは可愛らしく首を傾げる。


「血が跳んだら、服汚れちゃうもの。とどめなんてささなくても、私の勝ちはもう決まってるしね」


 言うなり身をねじり、反動をつけて、持っていた剣を俺の後方へと放った。

 振り向くことは許されなかった。ただ重い何かが空を切る音を、耳が拾う。激突音は、かなり遅れて聞こえた。随分遠くまで飛んだようだ。

 レイチェルの視線からも、それが分かった。少なくとも、満足できる位置まで投げ捨てることに成功したようだった。つまりは、すぐに取りに行ける場所には無いということ。

 形の良い唇に両の指先を添えて、レイチェルはくすくすと声を立てる。可笑しそうに。嬉しそうに。鈴のなるような声が響くたび、頭の中の靄が濃く広がっていく。


「それにね。さっき言ったことは、嘘じゃないのよ。貴方、人間にしては凄く強いじゃない。見た目だって悪くないし。だから、命は助けてあげる」


 両手を俺の頬に添え、宙に浮いた焦点を無理やり自分に向かせると、真正面から目を合わせた。こんなにも近くで他人と顔を合わせたことは無いという程の至近距離。ともすれば鼻が触れそうになる近さで、レイチェルの瞳がすっと細くなる。差し込む日の光に透けた睫毛は長く、美しかった。彼女の妖しい魅力が、香るように立ち上る。


「一言、言えばいいのよ。自分の負けを認めればいいの。そうすれば、傷もつかずにすむわ。さあ、言って」


 妖艶さを含んだ瞳には、否定の言葉を許さない不思議な魔力があった。優しく促すような、それでいて強い口調に後押しされ、どうあっても動きそうになかった唇が、ゆっくりと開いた。

 導きに従い、言葉を紡ぎだそうという時。微かに感じた風と、右の肩口に走った急激な痛みに、感覚の全てを奪われた。


「痛っ!」


 声が出た。レイチェルの呪縛に捕らわれた結果ではなく、本能が紡ぐ叫び声。そして、靄が消え去った。思考が、視界が、正常に戻る。すぐに自分の置かれていた状況に気付き、はっとした。

 戸惑った様子のレイチェルを突き飛ばし、素早く後ろに跳んで、距離をとった。右腕にはまだ、強烈な痛みと違和感がある。横目でちらりと確認すると、肩先から鋭利な刃物が生えていた。刃渡りは恐らく十センチ前後。簡素な拵えの短剣だ。勢いをつけて飛んできたようで、刃の半分辺りまで埋まっている。

 腕を伝って流れ落ちる鮮血が、舞台を緋色に染め上げていた。お陰で飛び退った痕跡が、よく分かる。右肩の剣を今すぐ抜くべきか否か。迷いながら、淡々と続く赤い線を目で追った先、愁眉を歪めるレイチェルを改めて視界に収め、息をのんだ。


 スリットから覗いていた艶めかしい脚が、見当たらない。代わりに鱗と尾ひれがついた、魚の下半身があった。何故、気付かなかったのだろう。そもそもいつトランスを始めて、どうやって終えたのかすら、記憶にない。


「もうちょっと、だったのにね」


 残念そうに呟くレイチェルは、御伽噺おとぎばなしで耳にする、人魚そのものだった。肩にかかった髪を払いのけ、トランス前と比べてほとんど変化していない上半身を抱きかかえるようにして、両肘に手を添えている。

 人魚の紡ぐうたには、魔力がある。

 穏やかな優しい声で他者を惑わせ、感覚はおろか意思さえも自在に操り、時にはその力で人を殺める事もあると聞く。言わずと知れた、童話界の通説。俺はそれに、まんまと嵌っていたという訳か。

 もしかしたら、試合開始とほとんど同時にトランスを終えていたのかもしれなかった。合図を機に斬りかかるつもりが、逆に彼女の接近を許し、手玉に取られていたのだから。もし短剣が俺の腕を貫かなければ、そのまま降参を告げていただろう。


「惜しかったな」


 内心では右腕を気にしながら、それでも余裕を装った。


「……そうね」


 レイチェルは片方の眉を持ち上げ、少し間をおいてから頷いた。見透かすような目で俺を見つめ、口許に手をもっていくと、ふふっと可愛らしい声をたてる。


「けど私が優勢なのには変わりないわ。剣は貴方の手元に無いし、取りに行ったとしてもその怪我じゃ使えない」


 指差し、淡々と指摘する。実際、その通りだった。

 リカバーの回復を試すにしても、先ずは短剣を抜く必要がある。その後、言霊を紡ぎ、回復を終えるまで、短く見積もっても、一分。何処に放られたのか分からない剣を探して、拾いに行くとなると、更に数倍かかる。その間レイチェルが大人しく待っていてくれるとは、思えない。

 押し黙った俺の反応は、レイチェルにとって満足いくものだったらしい。身をよじって軽く近づき、右肩の状態を確認するように首を傾げて、覗き込んでくる。


「出血も酷いじゃない? それで満足に戦えるのかしら」


 勝利を確信した、明らかな挑発だった。それにしても喋りすぎではないか。違和感を感じ始めたところで、ふと思いつく。あるいは喋ること、そのものが目的なのかも知れないと。

 人魚の声に魔力があるなら、声を聴かせることに意味がある。だから彼女は、攻撃する素振りも見せずに喋り続けている。


「いくら声を聞かせようとしても無駄だ。見ての通り、酷い怪我をしたお陰で、惑わされてる余裕が無いんだ」


 自虐的な笑みを、口の端に乗せた。実際、その通りだった。こうして立っているだけで、頭の芯まで響く痛みが、拍動と同じリズムで押し寄せてくる。そのお陰で正気を保てている。

 同時に体力を失いつつあるという意味で、レイチェルの指摘もまた、正解ではあるけれど。


「アンタこそ、喋ってるだけで攻撃してこようとしないな。幻惑以外の能力が無いんじゃないのか」

「甘い希望は持たないほうがいいわ。勝つ手段ならいくらでもあるのよ。まして相手が、傷付いて満足に動けない貴方なら尚更。諦めた方がいいんじゃない?」

「知っての通り、俺には魔法がある。この状態でも勝ち目は充分だ」


 化かし合いは、平行線を辿って睨み合いへと変化する。やがて拮抗した緊迫感が、新たな戦端を開く引き金へと昇華した。


「詭弁ね」

「試してみるか?」

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FATED CREATURES 樹以 空人(じゅい からと) @jyuikarato

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