戦う術を求めて(2)

 少女は、ジェレミーと名乗った。いつの間にか懐こい笑顔を浮かべるようになった彼女は、村へ行く道すがらに、色々な話をしてくれた。

 父親のこと。母親のこと。友達のこと。近所の人々のこと。長老様のこと。自宅で飼っている鶏のこと。村の近くを流れる川のこと。海から昇る朝日がとても綺麗なこと。村の様子を嬉々として語る彼女を見て、もし妹がいたらこんな感じだったのだろうかと、久しぶりになごんだ気がした。


 しかし道程そのものは、困難を極めた。一種の過酷な旅だった。幾つものバスを乗り継ぎ、ある時は街の中、ある時は荒野のような場所を行く。

 バスと言えば聞こえはいいが、実際は軽トラックの荷台に近かった。座ってどこかにつかまらないことには、危なくて乗っていられない。

 しかも舗装された道路の方が少なく、車体がやたらに揺れる。大都市に買出しに行く時はこれ位普通だ、というジェレミーは、既に慣れているのか平気な顔をしていたが、俺の場合はそうはいかない。特に、胸に傷を負っている今は。

 エンジンをかけた時点での小刻みな揺れだけでも、正直きつい。レジャーランドのアトラクション並みの揺れとなると、ただ座っているのですら辛い。ジェレミーには分からないように、手で握りこぶしをつくって必死で痛みに耐えた。


 そのまま陸路を行くこと、四日。貼り付けた笑みに疲労感がにじんでいると自覚できる頃、ようやく村らしき場所にたどり着いた。

 ジェレミーは俺に、ここよ、と短く告げ、颯爽さっそうと荷台から飛び降りた。背負った荷物をものともしない彼女の身軽な身のこなしに驚き、後に続く。が、どうやら無茶だったらしい。

 足を地に付けた途端に走った激痛に耐え切れず、その場でうずくまる破目になった。低い体勢だったために、走り去るバスの排気ガスを吸い込んで咳き込み、その反動でまた痛みが悪化する。流石に先を歩いていたジェレミーも俺の異変に気づき、慌てて駆け寄ってきた。


「大丈夫? ハヤト!」


 目の前にしゃがみ込んで、顔を覗き込んでくる。すぐに、大丈夫だよ、と返事が出来ればよかったが、声も上手く出てこなくて、無駄にジェレミーを心配させる結果になってしまった。

 仕方なくその場で暫く休み、歩けるくらいに回復したのを見計らって、俺が傷を負っていることを簡単に説明した。ジェレミーは申し訳なくなるくらいに気遣ってくれたが、今度こそ、もう大丈夫、と微笑み、ようやく村の中へと足を踏み入れた。


 控えめに言っても、さびれた村だった。木と土とわらで造られているらしい粗末な家が十件足らずと、養鶏用の家畜小屋があるだけ。

 あとは一面に、乾燥した荒野が広がっている。側には川が流れていたが、今にも干上がりそうな程に細く、浅い。地平線の向こうに海が見えるので、 そこから取れる魚介類でなんとか生活しているのだろう。少なくとも贅沢な暮らしをしているように見える者は、一人もいない。

 村に入ってすぐの辺りに犬もいたが、痩せこけていて、足は細く、肉の上からうっすらとあばらが見えていた。うだるような暑さの中、辛そうに舌をだして日陰に寝そべっている。

 ジェレミーはおおまかに村を案内しながら、俺を自分の家へと迎えてくれた。


*  *  *


「ママ、お客サン!」


 家の奥に向かって放たれた、明るい声に応え、衝立ついたての陰から一人の女性が顔を出した。色黒で、民族衣装を着てはいるが、成る程、言われてみれば日本人の顔立ちだ。小さめの顔に、ショートカットの黒髪が良く似合っている。ジェレミーを生んでいるのだから少なくとも三十代ではあるはずだが、引き締まった小麦色の肌のせいか、若々しく見えた。

 ふと目が合い、会釈をすると、彼女は初め少し驚いたようだった。大きく見開かれた瞳は、しかしすぐに柔らかい笑みへと変わる。


「あら? 日本人の方かしら?」

「あ、はい。そうです。椎名隼人といいます」

「ようこそ、椎名さん。この村にお客さまなんて、本当に珍しいわね。しかも日本の方なんて。嬉しいわ。大したおもてなしもできないけれど、ゆっくりしていらしてね」


 ジェレミーの母親は、実に日本人的な女性だった。丁寧な応対。穏やかな物腰。はにかんだような笑み。

 顔立ちや雰囲気は全く違うのに、何故か母さんの面影が重なるようで、思わず目をそらしそうになった。なんとか堪え、頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ジェレミーと彼女の母親に促され、室内へ足を踏み入れる。内部はキッチンと十二畳ほどの大部屋が一間、という造りだった。部屋には一面に絨毯が敷かれていたが、砂埃で大分土色になってしまっている。

 やはりここに直接座るのだろうかと少し躊躇ためらっていると、既に荷物を母親に渡し終えたジェレミーが、どこからか敷物を持ってきてくれた。生地の柄はアジアンテイストだが、形式は座布団だ。ジェレミーの母親による、手作りの品だろう。ありがたくお借りして、そこに座らせてもらった。


「どうしてこの村に?」


 グラスに飲み物を注ぎ、差し出しながら、ジェレミーの母親が尋ねた。俺が受け取ると、彼女も座布団を敷き、少し離れた向かい側に正座した。ジェレミーは母親に寄り添うようにして、こちらは何も敷かず、絨毯の上に直接座っている。


「最近この付近の無人島に、不思議な老人が住み着いたと聞きました。手がかりはほとんどない状態なんですが、ここの長老様なら何か知っているかもしれない、と ジェレミーがこの村へ連れてきてくれたんです」

「そうでしたの。でも今日長老様に会うのは、難しいかもしれないわ」

「どうしてですか?」


 ジェレミーの母親は、少し顔を曇らせた。


「椎名さんはご存知ないかもしれませんけど……つい最近、この村に得体の知れない怪物が出ましたの」


 得体の知れない、怪物。音の認識、情景の再構築。同時に、鼓動が高鳴った。耐え切れず下を向き、手に持ったグラスを握り締める。


「それ」


 声が、掠れた。


「それ、俺の住んでいた所にも出ました。母親と、もう一人知り合いを、そいつに、殺されて」


 震えそうになる手を、もう片方の手でつかんで押さえ込んだ。ジェレミーの母親は、俺の異変にすぐに気付いたようだった。


「そうでしたの。……ごめんなさいね。辛い事を思い出させてしまったみたいで」

「いえ」


 蘇る恐怖と憎悪、這い寄る悪寒を必死で押し殺し、顔を上げた。悪いのはジェレミーの母親じゃない。むしろ彼女も被害者の一人、なんだろう。気遣われたことが、かえって申し訳なかった。

 しかし思いとは裏腹に、脳裏に焼き付いた幻想は加速する。小さな口火をつけられた瞬間から、撒かれた石油の上を燃え広がる炎の早さで、あの日の光景が次々浮かびあがっていった。


 獅子のようなモンスター。既にグッタリとして息が無い様子のオバさん。足がすくんで動かない。そこから目を離すことさえできない。

 完全に恐怖に囚われている俺を見て、嬉しそうに笑うあいつ。牙についた紅い鮮血。新しい玩具を見つけた子供のように瞳を輝かせ、それから品定めをするみたいに、ゆっくりと目を細めて。さてどうやって殺してやろうか、と喉の奥から低い唸り声をあげる。

 ふいに振り上げられた腕に為す術も無く、強く目を閉じて身を固くした俺の前に、すっと横切った影。瞳の奥に今も残像となって残る、陽炎のようにゆらめいた髪。

 鼻腔にまとわりつく、不快な匂い。鉄が錆びた時に似た、それでいて生臭いあの――……


「……が、たった一人でこの村を救って下さったのよ。 勿論、村中の人間が感謝したわ。その方のお陰で、死人を出さずに済んだのだもの。名前も告げずに立ち去ろうとなさったのを長老がひきとめて、今日お礼のうたげをひらくと仰っていたから、 今頃はその準備で忙しいのではないかしら」


 記憶に囚われているうちに進んでいた話が、一瞬遅れて頭に入ってきた。

 たった一人で村を救った。その言葉が、深淵へと沈んでいた思考を無理矢理に引きずり戻す。


「その人の特徴、詳しくわかりますか!」


 自然と語気が強まった。グラスを乱暴に床に置いたせいで、残っていた液体が跳ね、涼しげな水音が木霊した。

 突然の剣幕に目を丸めて、ジェレミーの母親は一瞬身を凍らせた。それから遠慮がちに、首を振る。


「ごめんなさい。私はその場にいなかったから……。家の中で、この子と一緒に震えていたわ」


 呟いて、ジェレミーの肩を、そっと抱いた。話についてきていなかったらしいジェレミーは、単純にその行為に喜び、嬉しそうに母親に擦り寄った。母親は彼女に優しく笑いかけ、いつくしむように頭を撫でた。

 気付けば無意識に、その光景から目を伏せていた。床に置いたグラスをぼんやり見つめ、未だそこに添えられていた右手の親指で、縁をゆっくりとなぞる。

 この母子おやこが無事で良かった。心から、そう思った。

 どちらかが失われていたなら、今のこの笑顔は無いだろう。触れ合うことも抱き合うことも。喧嘩をすることすら、ままならない。

 羨望と安堵と、わずかな嫉妬が、巡る。

 息を吐いてグラスをつかみ、中身を一気にあおった。空になったそれを、今度はそっと床の上に置いた。


「ご馳走様でした。これから試しに、長老様のところへ行ってみたいと思います。俺が捜している人物は、村を救ったというその人かもしれない。長老様の家を、教えていただけますか?」

「ええ。それは構わないけれど、今はまだお会いできないと思うわ。夜になれば宴が始まるから、宜しければそれまで、うちでゆっくりしていらして。 この子が貴方のこと、とても気に入ったみたいなのよ」


 ぽんぽんと軽く我が子の両肩を叩きながら、ジェレミーの母親は微笑んだ。ジェレミーもまた、屈託の無い笑顔をこちらに向けている。

 会える可能性が少なくても、すぐに行きたい。今、すぐに。

 はやる気持ちを、奥歯を噛んで抑え込んだ。

 そうだ、落ち着け。今焦っても、仕方が無いだろう。

 微かに残った理性の欠片を、必死でかき集めて体裁を保つ。


「すみません。では、そうさせてもらいます」


 気付けば既に立ち上がりかけていた片膝を直し、正座に戻して頭を下げた。

 それから数時間の記憶は、はっきりしていない。軽い食事を取って、ジェレミーと遊んでいたはずだが、ほとんど上の空だった。

 覚えているのは焼けるような熱情と、痛みを伴うほどの切望。繰り返し上映される陰惨な光景に耐えながら、振り上げた拳が向かう先を、そのための力を、ただ、求めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る