悪夢の爪痕(1)
眩しい日差しの中目を開けると、太陽は大分高い所まで昇っていた。日の光を遮るものも無いのに、よくこんな時間まで眠れたものだ。痛む胸をかばいながらゆっくりと体を起こし、片手を顔の前にかざして天を仰ぐ。広がる紺碧の青空が、寝起きの目にやけに眩しく映った。
梅雨の時期にしては珍しい、雲ひとつ無い晴天。世間一般の主婦と呼ばれる人種は、今頃溜まった洗濯物を片付けるのに大忙しだろう。家事労働の繁忙さを憂いながらも、夫や子供の為にと精を出しているに違いない。
しかし、今俺がいる場所――空き地の周辺で、そんな光景は見られなかった。太陽の位置からして昼近くであることは確かなのに、どの家のベランダを見ても何も干されていない 人影も無い。声もしない。周囲の家々からは、まるで人の気配を感じない。
初めから誰も居なかったかのように、ただ建物だけがその存在を主張し、ひっそりと静まり返っている。あのゲームセンターに辿り着く前に通った住宅街も、こんな雰囲気だった事を思い出す。
――不気味だ。本当に、気味が悪い。
少し汗ばむ陽気にもかかわらず、異様な寒気が背筋をはしり、微かに身を震わせた。
周囲には、野良猫一匹居なかった。ふと気付いてエルドを探すが、見当たらない。脇を見れば、昨日赤々と燃えていた木のカスが、黒く炭化して残っている。しかしその向こうにいたはずの彼の姿は、何処にもなかった。空き地の中に俺独り、ぽつんと取り残されている。何度も確かめるように周囲を見渡しても、彼を見つけることはできなかった。相変わらず、立ち並ぶ人気の無い家から不気味な圧迫感を感じるだけだ。
小さくため息をつき、まだ下半身に残っていた毛布を乱暴に剥ぎ取った。昨日焚き火の燃えていた方へ向き直り、立ち上がろうと地面に片手を付いて初めて、手元にあるものに気付いた。
どうやら毛布の下敷きになっていたようだ。手をつく位置がもう少しずれていたら、潰してしまっていたかもしれない。
慌てて手をどける。ビニール袋に入ったアンパンと五百ミリリットル入りの清涼飲料水の入ったペットボトル、それから風で飛ばないようにとの配慮からか、下敷きになっている二つ折りの紙切れが、こじんまりと置かれていた。俺が起きる随分前からあったようだ。ペットボトルは汗をかいていないのに、下に敷かれた紙にはじっとりと濡れた形跡がある。陽気のお陰か、俺の寝坊のせいか、完全に乾いてしまっているが。
パンとペットボトルを脇に寄せ、先ず折りたたまれた紙切れを手に取った。少し砂埃がついて、土色をしている。軽く振って払い、畳まれたそれを開いてみた。内容は予想通り、エルドが俺に宛てた手紙だった。
『お早う、隼人。気分はどうだ?
本当は一言言ってから行きたかったんだが、熟睡しているようだったから起こすのに気が引けてな。仕方が無くこれを残す事にした。
単刀直入に言うが、俺はお前の旅には付き合えない。
俺だってその老人がいる正確な場所を知っているわけではないから、これ以上力にはなれそうもないし、俺なりにやらねばならないことも有るんだ。済まない。
飯は一緒に置いておいたから、とりあえず腹ごしらえだけでもしておけよ。
それから肋骨の傷の方は、内臓には支障が無いようだ。暫く激しい動きは無理だろうが、安静にしていればそのうち治る。
じゃあ――頑張れよ』
短い手紙だった。それでも、今の俺には充分だった。たった独りだけ取り残されたようなこの世界で、自分を気にかけてくれる人がいる。その事実だけで。
紙片を畳み、とりあえずポケットに突っ込むと、脇に置いたパンのビニール袋を開け、ペットボトルの封を切った。 それらをほぼ交互に口に運びながら、目の前の焚き火の跡を眺めた。見えるはずの無い昨晩の残像を、目で追うように。
エルドのやらねばならないこと。何だろう。頭の中で、また疑問が膨らみ始めている。俺と同じ境遇にあるはずの彼が、この見知らぬ世界で何をしようというのだろうか。しかも、やりたいことではない。やらねばならないこと、だ。
自分の生きてきた世界で知り合いだった人たちに、会いに行ったのだろうか。モンスター騒ぎで被害がでていないか、確認する為に。その可能性はある。モンスターは一匹どころではなく世界中に出現しているようだし、実際俺の母さんも、オバさんも、そいつらに襲われ命を落とした。
しかしそれだけなら、俺の旅に付き合えない、という一文の説明がつかない。もし知り合いが無事だったとしても、そこにはこちらの世界のエルドもいるはずだ。俺達が求める本当の居場所は、この世界には無いのだから。
だったら、何故――……?
放っておけば巡り続けそうになる思考を、途中で打ち切った。どのみち答えなど出そうにないし、彼の不可思議な言動は今に始まったことじゃない。考えなければならないのは、自分がこれからどうすべきなのか、だ。
先ずは荷物を取ってこなくてはいけない。幸いというべきなのか、旅支度は既にしてある。パジャマ代わりのシャツと短パンでは、動きにくい以前の問題だ。着替えもした方がいいだろう。
――それから。
頭に浮かんだものに、一瞬目をつぶった。一口残っていたアンパンを口に押し込むと、ペットボトルにまだ半分程ある清涼飲料水で、無理やり喉の奥へと流し込んだ。
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