別世界(3)
「かっ……母さん!」
扉を押し開けるなり、息を切らせながら、キッチンに立つ母さんに声をかけた。母さんは、酷く驚いたようだった。
「あら、なあに? どうしたのよ、そんなに慌てて。寝たんじゃなかったの?」
洗い物の最中だったのか、勢いよく溢れていた水を止め、濡れた手を振りながら首を傾げる。
確かにそんなことを言った覚えはあるが、今は言い訳をする余裕さえ無い。
ただ、あまりに動転して上がっている自分の息遣いに気付き、大きく深呼吸をした。大した効果は無かったけれど。
「あ、あのさ、変なこと聞くけど、地球上に大陸って、何個あったっけ?」
上ずる声を、焦る思いを、抑えきれない。母さんは俺の異様な態度よりも、発言の内容の方に眉をひそめたようだ。
「まあ、受験生がそんな事じゃ困るわね」
「いいから早く!」
「なによ、どうしちゃったの? 地球上にある大陸? ……六個でしょ?」
さも当然のように返された回答に、不覚にも全身の力が抜けた。
「そ、そう……そうだよな。はは。良かった……」
口許に、笑みが浮かぶ。
我ながら情けないが、何だか本当に気が抜けてしまって、俺はリビングの椅子を引くと、崩れ落ちるように腰掛けた。
一人で勘違いして慌てて、馬鹿みたいだ。安堵の溜息が、自然と漏れる。どっと疲れが出て、テーブルの上に突っ伏した。
あまりの挙動不審を見かねたのだろう。手を布巾で拭きつつ、母さんがキッチンから出てくる。
「何だって言うのよ」
椅子をひき、正面に座った。
俺は上半身を机に伏せたまま顔だけを上げ、持ってきた地図帳を渡した。
「いや、この地図帳。おかしいんだ。見てよ、ほら。ユーラシア大陸しか載ってないんだ」
母さんは地図帳を受け取りはしたものの、開こうとはしなかった。 俺の顔をまじまじと覗き込んで、不思議そうに首をかしげる。
「ユー……ラシア? 何よそれ」
まさか、そんな反応が返ってくるとは思わなかった。再び、黒い不安が沸き上がる。
体を起こして、母さんの手から半ばひったくるように地図帳を取った。ページをめくり、一番大きくそれが載っている場所を開いてみせる。
「ユーラシア大陸だよ! ほら! アジアとか、ヨーロッパとかある!」
母さんは眉をひそめながら地図帳を受け取り、今度はきちんと、俺が開いたページに目を落とした。
暫く待っても、母さんの表情は全く変わらなかった。相変わらず訝しげな顔で地図帳を睨んでいるばかり。
まさか。そんな。嘘だろ。一度は治まったはずの不安が、むくむくと膨れ上がっていく。
最早恐怖へと育ち始めた不安に息を飲む俺の手に、再び地図帳が戻された。
「そんな変な名前じゃないでしょう。よく見てみなさい」
促されるまま、指で示された部分を見る。
『The Human Continent』
本来『Eurasia』と書いてあるべき部分にあった、耳慣れぬ単語。
「人間……大陸……?」
直訳すれば、そんな意味になる大陸名。そんなもの、今まで見たことも聞いたことも無い。
「何だよ、コレ」
半ば嘲笑の混じった独り言に、母さんが応えた。
「私達が暮らしているこの大陸の名前よ」
「え?」
「私達人間が暮らしているから、人間大陸っていうんでしょ」
顔を上げ、母さんの顔を見る。当たり前じゃない、とでも言いたげな表情だった。
人間が暮らしているから、人間大陸。確かに
けど、あえてそんな言い方をする必要があるのか? それじゃまるで、人間以外の者が暮らしているかのような口ぶりじゃないか。
人間以外に、何が住んでいるって言うんだ。まさかあとの五つの大陸は、動物大陸とでも言う気だろうか……?
冗談としか考えられない。地図帳にまで書いてあるのは引っ掛かるが、信じろという方が無茶だ。
「じゃあ、あとの五つは何て言うんだよ」
地図帳を机の上に放り投げ、一笑に付してやるつもりで問うと、母さんは肩をすくめた。
「そんなの、私だって学者さんじゃないんだからよくは知らないわよ。百科事典ででも、調べてちょうだい」
知らないってことあるか。人間が住んでるから人間大陸、なんて馬鹿みたいなこと言ったくせに。
笑いを通り越して、いっそ呆れた。まるきり冗談としか思えなかった。
俺が黙っていると、母さんは腰を上げて再びキッチンへと戻った。洗い物を片付けてしまうつもりらしい。
暫くして、流し台に跳ねる水音が聞こえてきた。俺がリビングに入った時と同じ様に忙しなく手を動かしている母さんが、カウンター越しに見える。
なんだよ、話はぐらかして終わりかよ。不満が湧く。同時に、恐怖の余韻も残っていた。人間大陸。耳慣れない言葉が、頭を巡る。
調べてみるか。色々な感情に押し出されるようにして、出た結論はそれだった。
母さんの言葉を鵜呑みにするつもりはないけれど、気になることはさっさと解決してしまった方がいい。解決しきれない問題を抱えている今は、尚更だ。
安心材料としてなら、調べる価値もある。色々と抱えて悩んだままいるより、よく眠れるだろう。
息を吐いて、地図帳を手に立ち上がった。複雑な思いを持て余しながら、指摘された百科事典の在り処、親父の部屋へ向かう。
* * *
久しぶりに来る親父の部屋。
十五年前に主を失った部屋は、何も変わらず、何も変えられないままに、ただ存在していた。
いつも綺麗に掃除して、整えている母さんが、どんな思いでいるのかなんて、一目見れば分かる。片付けようという話は出ないし、言ったこともない。だからこの部屋の時間はずっと、凍りついたままだ。
部屋に足を踏み入れると、いつもひんやりとした空気を感じる。単純に使う人間が居ないからなのか、それ以外の意味があるのは分からない。ただの思い過ごしかもしれない。
電気をつけて部屋の真ん中に立ち、ぐるりと見回した。
柔らかな光に照らされた室内は、窓のある壁面以外の三方が、ほとんど本棚で埋め尽くされている。詰まっているのは、難しそうな本ばかり。
親父は普通のサラリーマンだったが、向学心のある人だったので、部屋には様々なジャンルの本が集められている。小説、伝記、ノンフィクションに、歴史書。参考書、写真集、地図、美術書、などなど。
死んだのは俺が三歳の時だったから、顔さえほとんど覚えてなどいない。代わりに、この部屋の資料達には、ちょくちょく世話になっていた。
だから、知っている。蔵書の中に、百科事典があることを。装丁のしっかりした、歴史ある出版社のものが、数種。
「さて……と」
とりあえず一番分厚い百科事典を手に取り、カーペット敷きの床に直接座り込んで、大雑把にページをめくった。
辞書特有のインクの匂いが、鼻をつく。嫌いではない。
「大陸……たいりく」
無意識に呟きながら、項目をさがす。
文字列を指し示す指と紙面を舐める視線は、ほどなく目当ての部分に辿り着いた。
たいりく【大陸】
地球上の大きな陸のこと。
地理学的には、海面上に表れている広大な地表。
“The Human Continent(人間大陸)”
“The Fairy Continent(妖精大陸)”
“The Phantom Beast's Continent(幻獣大陸)”
“The Half Beast's Continent(獣人大陸)”
“The Devil's Continent(魔大陸)”
“The Dragon's Continent(竜大陸)”の六つがある。
それぞれの大陸は一般に、“人間界”“妖精界”“幻獣界”“獣人界”“魔界”“竜界”と呼ばれており、その場合、陸地のみならず社会の隔たりをも同時に表すことが多い。
他大陸の住民と人間との交流は、一部の例外を除き無いと考えてよい。特に“竜界”は、その地理的条件から未だ不明確な部分が多く、ほとんど全ての事象が謎に包まれている。
人間界には人間、妖精界には妖精、幻獣界には幻獣、獣人界には獣人、魔界には魔族、竜界には竜族が住む。各大陸の詳細については、それぞれの項目を参照のこと。
なお――
暫く、言葉が出なかった。
馬鹿げていると、一蹴した内容こそが、真実だった。そんなの、簡単に信じられるはずがない。
いや、そもそも、生まれてから十八年、築き上げてきた俺自身の常識と、真っ向から食い違っているのだから、信じようがない。
獣人? 妖精? なんだそれ、漫画かゲームか、さもなければ
混乱したまま、持っていた百科事典を元の場所にしまい、別の事典を取り出した。探したのはやはり、「たいりく」という項目。
焦りの中で抱いた微かな希望は、同じような内容が記載された紙面によって、打ち砕かれた。
震える手で、往生際悪く、そのまた隣の事典へと手を延ばす。そしてまた、その隣へと。ただ一つの真実を求めて、ページをめくる。結果は、変わらない。
いくら言われようと、信じられるわけがない。しかし認めないわけにはいかない。
何冊もの事典が同じ事実を語っている。最後に開いた事典には、付録の地図まで挟まっていた。
畳まれた大きな地図を、丁寧に広げた。日本を中心とした、見慣れたミラー図法の世界地図だった。本来俺の部屋の天井に貼ってあったものと同じだ。五大洋と六大陸が色彩豊かに表現され、簡単な地形が一目で分かるようになっている。
そこに書かれた大陸の名前は、やはり、俺の記憶の中のそれとは違っていた。
ユーラシア大陸は人間界。アフリカ大陸は獣人界。北アメリカ大陸は幻獣界。 南アメリカ大陸は妖精界。オーストラリア大陸は魔界。南極大陸は竜界。
黒々とした大きな文字で、はっきり記載されている。
「そ……んな……」
まともに頭が働かなかった。頭が真っ白になる、というのは、こういうことなんだろう。
自分が信じてきたものが、自分自身が、全て否定されたようにさえ感じる。
『この二年間、一体どこで何をしていたの?』
繰り返される母さんの声が、心配そうな表情が、俺という存在への警告音へと、変わる。
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