別世界(2)
うながされるままリビングに行き、食卓に座った。
いつも食事を摂る時は、鞄を自分の部屋に置き、普段着に着替えてから出てくるのだけれど、今はそんな余裕などあるはずもない。とりあえず
こちらを向くかたちでキッチンに立っている母さんには気づかれないよう、なるべくさり気無く、周囲を見回してみる。今の状況を説明する為の材料が、何処かに落ちていないだろうか。
知人から中古で譲り受けた、大画面と言える大きさのテレビ。
定時になると鳥の鳴き声がする、母さんお気に入りの壁掛け時計。
マイナスイオンを発生させるという
ありとあらゆる物が、当たり前のように、記憶の中そっくりそのまま、同じ姿で存在していた。勿論、エプロン姿でキッチンに立つ母さんだって、普段のままだ。
なのに、母さんの言うことだけが、どこかおかしい。
ぼんやり考えながら見つめていると、調理中の母さんと目が合った。笑んだ瞳の中に、安心感と不安感、相反した感情が同居している。
痛みに堪えるのにも似た辛そうな表情に耐えられず、俺から視線を外した。それでもまだ、こちらに向けられている視線が、案じている気配が、横顔に刺さる。
『この二年間、一体どこで何をしていたの?』
耳に残る震えた声、久しぶりに見た泣き顔。
感じる必要も無いはずの罪悪感が込み上げ、母さんには分からないように片手で口元を覆って、重苦しい息を吐き出す。混乱した思考回路は、俺に平穏と安らぎを与えてくれる気など無いようだった。
* * *
母さんは料理を食卓に運ぶと、いつもと同じ、俺の向かいがわの席に座った。
「まさか帰って来てくれるとは思わなかったから、有り合わせでごめんなさいね」
そう言って、申し訳なさそうに笑んだが、見たところ普段より手が込んだものが多かった。一つ一つの皿に盛られる量も、充分の域を超えている。
食欲をそそる匂いで、昼から何も食べていないことを思い出した。
簡単に解けそうも無い不可思議な謎と、目の前の湯気が立ち上る美味そうな料理。俺の中の天秤は、ほとんど悩む間もなく後者の方へ傾く。
「いただきます」もそこそこに、箸を手に取り食べ始める俺を、母さんは机に上半身をあずけ、黙って見つめていた。嬉しそうに、懐かしそうに、時折目を細めたりしている。
気付かないふりをして、茶碗に盛られた米を掻き込み、グラスに注がれた麦茶をあおった。
「ねえ、覚えてる? あなたがいなくなったのは、よく晴れた日曜の朝だったわ。十六歳の誕生日を迎えた次の日ね」
穏やかな声で、唐突に語られたのは、俺が知らない物語だった。皿と茶碗の間で忙しなく動いていた手が、止まる。
同時に脳内が叫ぶ。そんな馬鹿なこと、あるはずが無い。
俺は毎日、勿論今日だって、きちんと高校に通っていた。高二の時には、皆勤賞までもらったという実績がある。
当然その間は家に毎日帰っていたし、時折サボることが無かったとは言わないが、予備校から連絡が来ない程度にはきちんと通い、詰め込み式の授業を頬杖を付いて聞いていた。
「私はてっきり、どこかに遊びに行ったんだと思っていたわ。なのに夜になっても、次の日の朝になっても帰ってこなかったでしょう。部屋の荷物は無くなっていないのに、あなただけが消えてしまって、警察に捜索願を出したけれど、全く音沙汰無しで。本当に、心配したのよ。ねえ。この二年間、一体どこにいたの? 何をしていたの?」
母さんはこちらに手を伸ばし、顔を覗き込んでくる。今にも泣きそうな表情で。どう答えたら良いのか分からず、それでも口の中のものを一気に飲み込んだ。
何か言わなければ。安心させてやらなければ。焦って視線をさ迷わせ、答えを探すが、自分自身には全く身に覚えがないのだから、弁解のしようもない。
分かったのは、母さんの意見と俺の記憶が、奇妙に食い違っているということ。しかし近所の様子や家の中の物の配置、目に映る些細な風景全ては、俺の記憶の正しさを支持していた。
噛み合わないのは、母さんだけ。二年間俺が不在だったという、悲しげな言葉だけ。
今も涙を堪えて俺を見つめる、目の前の姿だけが、いつもの変わらぬ世界を、異質に塗り潰している。
考えたくはないが。これでは、母さんの方がおかしくなってしまったみたいだ。
「なぁ。母さ――」
ピンポーン。
間の悪いインターホンに遮られ、途中で言葉を切った。不安に胸を握りつぶされたような顔で、腰を浮かせかけた母さんに片手で合図し、俺が出るよ、と席を立って玄関に向かう。
こんな時間に、一体誰だ?
訝りながら廊下を歩き、玄関の扉を少しだけ開けると、暗闇の中に立っていたのは、近所のオバさんだった。
「あ……コンバンワ」
予想外の客だ。軽い会釈と、ぎこちない挨拶を返す。
俺はこの人を、幼い頃からよく知っている。いや。幼い頃大変世話になった、と言ったほうがいいだろう。母さんが昼間に働きに出ているあいだ、よくこのオバさんの家にあずけられていたのだ。
幼稚園や保育園に通わせる金銭的な余裕など無かったから、当時は相当助かったのよ、と昔母さんが感慨深げに話していたのを覚えている。
おかげで俺が成長した今でも、俗に言う家族ぐるみのお付き合いを続けている。
「まぁ!」
玄関からもれる明かりを前面だけに浴びて立つオバさんは、俺を見るなり目を見開いた。普段はお世辞にも大きいとは言えない瞳が、今は大きな円を描いている。
この年代の女性の特徴のような、軽くパーマをあてた短めの髪を手で梳き、その手を今度は自分の口許へともっていった。
「隼人ちゃん! 隼人ちゃんだわ! やっぱり帰ってきてたのね? 椎名さんちが急に騒がしくなったから、もしかしたらと思ったんだけど! よかったわー! 帰って来て。これで
相変わらずのマシンガントーク。言葉と一緒に、開けたドアの隙間に体を割り込ませ、終には玄関にまで入ってきた。
この人の態度が図々しいのはいつもの事だが、今日の勢いは普段の比ではなかった。オバさんの剣幕に面食らい、少々後退りながら、つい、「はあ」と気のない返事をしてしまう。それがまた、お気に召さなかったらしい。
「ちょっと、そんなことじゃ困るわよ! もう子供じゃないんだから、これからは一家の大黒柱として頑張ってもらわないと!」
オバさんは大声で言うなり、俺の背中を平手で叩いた。
思わむ攻撃に、おもいきり咳き込む。口の中にまだ残っていた食べかすが、運悪く気管支に入ったようだった。
「す、すみません……」
むせながらなんとか謝罪を捻りだし、頭を下げると、オバさんは満足気に何度か頷いた。
ようやく開放された、かと思いきや、今度はいつの間にか玄関まで出て来ていた母さんに、標的を変更しただけだった。
「あら杏子さん。隼人ちゃん、戻ってきて良かったわねえ」
「ええ、ありがとうございます。おかげさまで無事帰ってきてくれて」
こうなると、話が永遠に続いてしまうのを俺は知っている。女同士の会話というのはそういうものだ。
付き合いきれないと判断し、
「もう疲れたから寝るよ。おやすみ」
返事も待たずにリビングにとって返して、鞄を手に取ると、宴もたけなわな二人を尻目に玄関脇の階段を上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
* * *
扉を閉め、一歩踏み込む。見たところ、部屋の中に変わった様子はない。シングルベッドと勉強机、クローゼット、その他雑多なものたち。どれも今朝家を出た時とそっくりそのまま、変わらぬ配置で収まっている。
ため息をつきながら鞄をカーペット敷きの床に放り投げ、ベッドの縁に腰掛けた。そのまま自分の両肘を膝の上にあずけ、足元へと視線を落とす。
オバさんまで、俺の帰宅が二年ぶりだと言っていた……。
流石にショックを隠せない。また大きな溜息が出る。母さん一人ならともかく、同じことを言う人がもう一人増えた。
これは厄介だ。おかしいのは周りの人間ではなく俺の方だと証明された、ということになってしまう。
しかし当の俺には、自覚が全く無い。二年間の失踪という点以外は、周囲の様子と記憶の間に
「ほんとに、どうなってんだ?」
いくら考えても解決しそうにない謎を持て余し、勢いよくベッドに横になった。
自分の両腕を枕代わりにして、ぼんやりと天井を眺める。高校受験のために、と天井に張ってそのままになっていた世界地図を、意味も無く目でなぞる。
ふと、強烈な違和感を覚えた。
何だろう。引っかかる。何かが、そう、何かが、確実におかしい。
違和感の理由に、気付いた瞬間飛び起きていた。ベッドから下りた勢いそのまま、勉強机の上にある地図帳をとって広げた。少し震える指で、一ページ目から順にめくっていく。
焦って乱暴に扱ったので表面に皺が寄ってしまったが、この際気にしてはいられない。全てのページをめくり終え、もう一度最初から確認して、それでも思い違いで無いと分かり、呆然とその場に立ち尽くした。
「どういうことだ……」
その地図帳には、ユーラシア大陸しか描かれていなかった。政府推奨の世界地図であるにもかかわらず。
どのページを開いても、隅々まで見渡しても、本来書いてあるべき、その他の大陸の姿など影も形も無い。日本を含むアジア諸国とヨーロッパ諸国は載っている、が、 世界屈指の経済大国として名高いアメリカでさえ、どこにも載っていなかった。
もしかしたら、気が動転している所為で、見間違えたのかもしれない。
いや、いくら慌てていてもそんなことあるわけ無い、二度も確認したじゃないか。
頭の中で、相反した感情がせめぎ合っている。そうだ間違うはずがないと、理性がまた警鐘を鳴らすが、どうしても信じられず、また地図帳を開き、今度は慎重に、ページをめくってみた。
一枚目、二枚目と順を追って確認していくたびに、鼓動が高鳴っていく。胸の中に、絶望に似た焦燥が大きく膨らんでいく。最後まで確認し終えてから、地図帳を閉じると、驚くほど大きな音が部屋中に響いた。
駄目だ、
混乱した頭を振って、焦燥のままに部屋を飛び出す。階段を駆け下り、廊下を隔てる扉を開け放ち、今はオバさんとの話が終わったらしい母さんのいるリビングへと、駆け込んだ。
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