別世界(1)

 どれほどの時間が経ったのか。

 ふと気付いて辺りを見まわすと、世の中全てが暗闇に包まれていた。夕陽で赤く染まっていたはずの空には、少し丸みを帯びた半月がぽっかりと浮かんでいる。

 何時だろう。今は初夏だから、大分遅くなっているのは確かだ。


 地面に尻餅をついた状態からゆっくりと立ち上がり、服の汚れを適当に払って、近くに落ちていたバックパックを肩にかけた。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がった、左腕のデジタル時計を確認する。


『2003年○月△日 PM11:30』


「もう十一時半か」


 思わず溜息が漏れる。視線を時計から外し、淡く光り輝く月を仰いだ。

 流石にまずかったかな。予備校をサボった上に、こんな時間までほっつき歩いているっていうのは。

 少し眩暈の残る頭を軽く振った。なんだか意識がはっきりしない。そもそも俺はなんでこんなところに。

 考えて、はっとする。慌てて周囲を見回した。


 目の届く所に街灯すら無い、開けた土地。周囲にはいくつかの家が立ち並び、カーテンのかかった窓から薄明かりが漏れている。

 幾分乾いた様子の大地には、丈の短い草がまばらな状態で生え、初夏と言えどまだ涼しく感じる風に吹かれて揺れていた。


「どういう事だ」


 混乱している。無理もない。

 俺が倒れた場所は、寂れたゲームセンターの中だったはずだ。しかし見渡す限り、それらしき建物は全く見当たらなかった。

 周囲の民家やその他の風景には見覚えがあるのに、俺がいたはずのゲームセンターだけが、嘘のように綺麗さっぱり消え去っている。

 そして今俺が立っている場所は、何も無いただのだ。


「嘘だろ……?」


 信じられない。信じられるはずが無い。

 しかし気を失っていて記憶が定かでないだけに、あのゲームセンターが実在するという確信を持つこともできない。第一、今俺がおかれている状況が、俺自身の記憶を真っ向から否定していた。


 頬を撫でる少し冷たい風に、これこそが現実なのだと実感させられる。

 となると、全部夢だったのだろうか。ゲームセンターもあの奇妙な男も、激しい眩暈のような感覚も、みんな。

 それなら、どうしてこんなところに倒れていたのだろう。

 暫く呆然と考え込んでいたが、いつまでも暗がりに突っ立っている理由も無い。頭の中の整理は一先ず保留して、時間に急かされるように家路を急いだ。


*  *  *


 出鱈目でたらめに選んだ道が、運良く見慣れた丁字路に通じていた。後は勝手知ったる庭のようなもの。

 昼間、迷っていたのが嘘のように、難なく自分の家へと辿り着いた。簡素な鉄製の門扉が、妙に懐かしい。

 門扉の傍らには、幾つかの植木鉢がある。昼のみの仕事になって心に余裕が生まれた母さんが、趣味で育てている鉢植えの植物達。これから来る夏に向けて、せっせと濃い緑の葉を茂らせている。淡い月明かりに照らされて、白や黄色の小さな花が覗く。

 短いレンガ敷きの階段を登った先。玄関は、暗闇に沈んでいた。

 いつもなら俺が帰るまでついているはずの灯りが、今日はついていない。何かおかしいと視線を泳がせるが、それ以外、変わった様子は見当たらない。

 道路に面した部屋の窓から薄明かりが漏れている。外出中という訳でもなさそうだ。


 肩の上のバックパックを軽い跳躍で背負いなおして、両開きの門扉にそっと手をかけた。時間帯を考えて、なるべく音を立てないようにゆっくりと中央の取っ手をひねったが、赤黒く錆び付いたそれは、耳障りな軋んだ音をたてた。

 少しドキリとして、一瞬動きを止める。が、すぐに体を隙間に滑り込ませて、元通り扉を閉めた。

 階段を足早に上り家のドアノブに手をかけ、闇の中で鈍く光る焦茶のドアを引いた。鍵は開いていた。


「ただいま」


 荷物を玄関先の踏み段に下ろし、手を使わずに靴を脱ぎなら声をかけた。

 しかし、静まり返った玄関に俺の声が反響しただけ。誰も出てくる様子がないどころか、何の反応も返ってこなかった。

 気付いていないのだろうか。それとも、遅くなったことを心配して怒っているのか。

 脱ぎ散らした靴を足で簡単に整えていると、扉が勢いよく開く音に続き、奥の方から走ってくる足音が聞こえてきた。随分慌てている。

 元々予備校がある日は遅くなるが、帰り道に買い食いをする時間を差し引いても、今日ほどの時間になることは少ない。やはり心配をかけてしまったのか、と申し訳ない気持ちになる。

 居心地の悪さを持て余しているうちに、廊下へと続く磨りガラス張りのドアを開けて、母さんが玄関に入って来た。


「隼人……!」


 気のせいだろうか。声が震えて聞こえる。


「ごめん、遅くなって。実は――」


 近所を歩いてたはずなのに、道に迷っちゃってさ。

 言い訳じみた口調で、今日起きた奇妙な出来事を話そうとしたが、途中で言葉を切った。母さんの様子が、おかしい。


「かあ、さん?」


 顔を伏せ、口許を片手で押さえているその顔を、覗き込むようにして声をかける。

 母さんは何故か、泣いていた。オレンジに近い柔らかな照明が、頬を伝う涙を照らす。

 ぎくりとした。そして、焦った。多少叱られるか、困った顔でたしなめられる程度の反応を見込んでいたのに。まさか、泣かれるなんて。

 何と声をかけたら良いのか分からず黙り込んでいると、溢れる涙を手で拭った母さんは、俺の手をとり、両手で包み込んだ。


「隼人、帰って来てくれたのね……よかった! この二年間、一体どこで何をしていたの?」

「……?」


 一拍置いたのちに素っ頓狂な声を上げた俺を、母さんは酷く懐かしそうな表情で見つめた。

 何を言っているのか、見当もつかない。まさか、二年間も意識を失っていたというのか。いや、そんな馬鹿な話、あるわけない。

 うちの中も外も近所の町並みも、俺の記憶の中と全く変わらない。朝家を出た時と比べて変化があるとしたら、外の明るさと母さんが目の前で泣いていることぐらい。


「でも、良かった。本当に良かった!」


 泡を食っているうちに、無防備だった体を強く抱きすくめられた。

母さんの腕、こもった力には、余裕が全くない。押し殺した嗚咽おえつが耳元に響く。温かな雫が、制服の肩口を濡らした。

 力ずくで体を離すのも気が引けて、されるがままになりながら、混乱する頭をどうにか整理しようと足掻く。


「ちょっと待ってくれよ。じゃあ今は、西暦2005年、てことか?」


 圧痛を感じるほど強かった母さんの腕の力が、緩んだ。

 今度は両肩を包み込むように支えられる。正面からまじまじと覗き込む顔が、不審に歪んでいる。


「何言ってるの、隼人。今は2003年よ? 頭でもどこかにぶつけたの? そんな事までわからなくなってるなんて」

「え? じゃ、今日は2003年の○月△日……?」

「ええ、そうよ。あなた大丈夫なの? 事故にでもあって、おかしくなっている訳じゃないわよね」


 眉を寄せて、心配そうな表情。自分の右手を、俺の額と自分の額との間で交互に行き来させている。熱でもあるのかと疑われているらしい。

 大丈夫だよ、と笑んでみせると、母さんは未だいぶかしげながらも、忙しなく動かしていた手を俺の肩の上に戻した。


 どういうことなんだ。さっぱり、訳がわからない。

 2003年○月△日。俺が倒れた日と全く同じ日付だ。デジタル時計が指し示す数値とも一致する。でも母さんは俺がもいなかったと言う。


「なあ母さん。俺、その……いつどうやっていなくなったんだっけ?」


 できる限り平静を保ち冷静に頭を働かせた、はずだったが、 結局直接的な問いしか浮かんで来なかった。我ながら、頭がおかしい奴の発言としか思えない。

 案の定、母さんの不安そうな表情は、晴れるどころか一層曇った。


「隼人あなたやっぱり変よ? 病院に行った方が――」


 玄関脇の棚に手を伸ばし、電話を取ろうとする母さんを、慌てて止める。


「いや、大丈夫! 大丈夫だよ。ほら、久しぶりに帰ってきたんで、頭が混乱してるんだ」


 適当に誤魔化したものの、最後の台詞だけは、嘘じゃない。まさにその通りだ。今の俺の頭は、どうしようもなく混乱している。

 お陰で信憑性も何も無い、穴だらけの苦しい言い訳になったが、母さんも冷静ではないのか、受話器に伸ばそうとした手が止まった。

 少しだけ迷う仕草を見せつつも、119番通報は諦めたようだ。唇を結んで、再び俺に向き直る。

 母さんの中で、どんな結論が出たのかは分からない。しかし先程よりは、気持ちが落ち着いたように見えた。多少疲れた様子はあるものの、優しく微笑むだけの余裕が戻っていた。


「そう、そうなの。分かったわ。靴を脱いで、とりあえず上がりなさい。お腹空いたでしょう? 食事でもしながら、ゆっくり座って話しましょう」

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