悪意の勝利者(1)
「勝者、アスピス!」
戦闘終了を告げる声、鳴り響くゴングがやまぬうちに、舞台の上へと駆け上がっていた。すぐ傍まで蹴り飛ばされ、仰向けに倒れ伏した人影のもとへ急ぐ。
「ガルム。おい、ガルム! 生きてるか? 返事しろよ!」
元の姿に戻ってしまったガルムの頬を叩きながら、声をかける。返事が無い。焦燥にかられながら口許に耳を近づけてみると、微かだが呼吸音が聞こえた。良かった、息はある。
胸をなで下ろしたものの、危険な状態には変わりなかった。うっすら開いた瞳に生気が無い。上空に広がる青空を、ただ映している。呼吸自体も浅く速く、滲み出した汗が次々と流れては舞台に吸い込まれ消えていく。時折苦しそうな声ももれていた。どうやら、うなされているようだ。傷口の変色は、範囲を広げていた。黒く腫れ上がった皮膚が痛々しい。
建物の奥から、救護班が担架を持ってやって来た。怪我人を搬送するからどいてくれと主張する彼等に、蛇毒の血清があるかどうか尋ねた。答えは、わからない、だった。
曖昧な返答に苛立ちながら、高鳴る心臓をなんとか押さえつけて精神を集中させる。横たわるガルムに両手を差し出し、ゆっくりと目をつぶった。
魔法を、試すつもりでいた。全てを癒す、回復の魔法。傷の回復は勿論、毒など物理的でない障害にも効果があるはずだった。
ただ少し、自信がなかった。自身に使ったことはあっても、他者に向かって放ったことは一度も無い。成功するかどうか分からない。それでも、これに賭けたいと強く念じる。
「『癒しを司る
俺の内部で、温かな光が徐々に膨らみだした。普段なら、これを増幅させるだけで良かった。しかし今は力を増幅させながら、自分の外に向けなければならない。暴発に気をつけながら目的の方向へ放つのは、普段の倍近い精神力を必要とした。
どうか上手くいってくれ……! 祈りにも似た気持ちを胸に、言霊を最後まで唱えきる。
「――我に力を!』リカバー!」
淡い光が、沸き起こった。生命力そのものを可視化したような、不思議な躍動がある。救護の獣人達が、背後で驚きの声を上げていた。何か口々に呟いているが、反応している余裕はない。
淡く輝く光はガルムを包むと、ほのかな温もりを発し始めた。熱さは感じない。ただ、心地良い。安心と平静を呼び起こす光だ。
呼吸が、次第に整い始めていた。傷口の腫れと黒ずみが、染み出るように消えていく。苦痛に歪んだ顔が安らかな寝顔へと代わり、光が完全に消え去る頃には、唸り声が軽やかな息遣いに変わっていた。わき腹の傷口は、既に痕跡さえ無い。
ほうっと、息を吐いた。良かった、成功だ。あとは安静にしていれば、体力も回復するだろう。
振り返った先で、救護班は目を丸くしていた。呆気にとられて立ち尽くす彼等に、ガルムを救護室まで運んでくれるよう頼む。
進み出た二人の救護班は、横たわる体をしげしげと見つめてから、呼吸や脈拍をざっと確認し、手分けしてガルムを担架の上に担ぎ上げた。その間ずっと、狐につままれたような顔をしていたが、結局何も声を発することはなく、やがてゆっくりと、建物の中へ消えていった。
ふと気配を感じて振り向くと、トランスを解いたアスピスが選手控え室に戻ろうとしているところだった。勝利者の余裕か、一部で湧き立つ群集に片手を上げて応えながら、堂々とこちらに向かってくる。
真正面に立ちふさがる格好の俺を、完全に無視している。この場で斬りかかってもおかしくないほどの殺気を含んだ視線に、気づかないはずは無いのに。
颯爽と歩くアスピスが、徐々に近づいてきた。目を合わせようとしないのが、わざとらしかった。ただ俺の脇を通り過ぎる時、周囲に気取られぬくらいの大きさで呟いた声を、耳が拾った。
「死ななかったのか。……運がいい」
あざ笑うようにふっと息をもらす、その全てに衝動を感じて顔を向けると、一瞬だけ目が合った。奥底に何の感情も感じられない、無機質な瞳がそこにあった。表層を覆う粘りのある光は、不気味な嘲笑を映している。
苛立ちを込めて体ごと振り返った俺には、興味が無いとでもいうように、奴は控え室へと続く階段を悠々と下りていく。こちらの方など、もう、ちらりとも見ない。体中の血が、怒りと憎悪で沸騰するようだった。気づけば小走りでその後姿を追いかけ、力強く肩をつかんでいた。
「待てよ」
迸りそうになる感情を、押し殺そうとするが上手くいかない。肩を握る手が、小刻みに震える。勢いのまま殴り掛かるのだけは、なんとか回避できていると、頭の中で冷静な声がした。ただ、眩暈がするような憎悪の炎は、収まりそうに無い。
「何だ」
俺を片手で軽く払いのけたアスピスは、仁王立ちで腕を組んだ。相変わらず、口の端が厭らしく吊り上がっている。半眼で見下ろす態度が、虫けらを相手にしているという内心をそのまま映し出していて、神経を逆撫でされた気分になる。
「文句でもあるのか」
アスピスは軽く首をかしげ、ふんと鼻で笑った。まるで、気に留めることなど何も無かっただろう、と言うように。
「よくもそんな台詞が……!」
荒げた声と一歩前に踏み込んだ足が、限界ぎりぎりの理性を保つ境界線だった。振り上げる寸前で思い留まった拳の先が、小刻みに震える。
耐えきることに精神を集中していたお陰で、相手に対する反応が、遅れた。抑えを知らない残虐性の発露、そうして逆に、胸倉をつかみ上げられている。
「言っておくがな。生死を問わない、というのは、この大会の基本ルールだ。知らなかったわけじゃ無いだろう?」
捻じりあげる手に力を加えながら、わざわざ顔を近づけてくる。指先が喉元に達し、閉ざされた呼吸が悲鳴を上げる。
「……っ!」
アスピスは痛みと屈辱に顔を歪めた俺を眺めて、満足そうに目を細めると、控え室の壁に向かって投げ飛ばすように手を放した。予想もつかない動きと力に、為す術も無く叩き付けられる。
体勢を立て直せぬうちに今度は直接、喉元をつかまれた。頭を打ち付けるほどに強く、壁に叩きつけられる。二度三度と繰り返されるうちに、視界が白く霞んだ。
「俺を恨むのは見当違いだ。犬野郎が負けたのは、奴が弱かったからだろ。毒を食らってなお攻撃しようと向かってきた、気迫と生命力だけは褒めてやるがな」
もう一度強く壁に叩きつけてから、喉元を締め上げていた手がようやく放れる。自由になった身体は、無様にもその場に崩れ落ちるばかりだった。息を吸い込むだけで、痛みが走る。反撃など、望むべくもない。
アスピスは四つん這いで咳き込む俺を、勝ち誇って見下ろしていた。やっとの思いで顔を上げると、待っていたように、足元の何かを力任せに踏み潰した。
それは紙袋だった。準決勝の前に、ガルムが嬉しそうに持ってきた、焼き菓子の入った袋だ。舞台に駆け寄った時、無意識に落としてしまったらしい。まだ幾つか残っていた中身が、ひしゃげた袋の隙間から漏れ出していた。
頭の向こうで、哄笑が聞こえた。悪意の塊が、突如破裂したようだった。呼吸すら戻らない俺には、どうすることもできなかった。ただ、地面に這いつくばり、喘ぎながら、胸中に渦巻く衝動に打ちひしがれるだけだ。
嘲り笑うアスピスの声が、次第に遠ざかっていく。残されたのは地に両手足をついた惨めな俺と、潰れて広がり土と混じった、焼き菓子の残骸。
「ちく……しょおっ……!」
罵声が漏れた。
為す術もなくあしらわたこと。ガルムを馬鹿にされ、言い返すことすらできなかったこと。アスピスの、他人を虫けらとしか思っていないような態度。その全てが、悔しくて仕方なかった。
潰された焼き菓子が、旨そうな匂いを周囲にまき散らしていた。踏み躙られ足跡のついた無残な姿とのギャップに、非力な自分への怒りが膨れ上がるようだった。
後に、噂を聞いた。二回戦でアスピスと対戦した獣人が、五回戦の最中に息を引き取ったという話だ。医療班の懸命な努力の甲斐なく、傷口の壊死と呼吸困難の末に、苦しみながら死んだという。
ワカバという名のその女性には、かすり傷程度の傷が無数についていたらしい。お陰で体中が腫れ上がり、遺体は見るも無残な状態になった。果たしてそこまでする必要があったのか。
答えは勿論、決まっている。
* * *
準決勝第一試合における舞台の損傷は、ほとんど無かった。そこで小休憩だけを挟むという話になったようだ。規定された十五分は長いようで、案外短かった。気付けば準決勝二回戦まで、あと五分を切っている。
俺の対戦相手であるレイチェルは、選手控え室のベンチに座り、優雅に足を組んでいた。腿まで達するスリットが入った服を着ているのに、全く気にする素振りを見せない。大会運営側の関係者として控え室に待機している男性スタッフの視線も、お構い無しだ。目が合うと、挑発的な表情で笑みを返してさえいる。
間もなく試合が始まるというのに、着替えに行こうとしないのは不審だった。まさか、そのまま戦闘するつもりか。気にはなるが、正直なところそんな些細なことに構っていられるほど冷静ではない。意識は此処にあって、無いようなものだった。深く息を吐いて、足元を睨む。
そこには、つい先ほどまで潰れた紙袋が落ちていた。ガルムが俺に託して、アスピスに踏みつけにされた、紙袋の残骸だ。今は掃除され、綺麗に片付いている。
――俺を恨むのは見当違いだ。犬野郎が負けたのは、奴が弱かったからだろ。
脳裏に鮮やかに蘇る、嘲弄する顔とあざ笑う声。吐き捨てられた台詞。
残骸も痕跡も残っていないが、ほんの数分前の出来事だ。冷静さを取り戻そうとしても、難しい。
元々口車に乗せられて参加することになった、武術大会。優勝賞品にオーブが添えられると知ってからは、絶対に負けられないものとなった。だが、今は己に課した使命よりも、抑えきれない憎悪が先行しようとしている。
大会のルールだ? そんなもの、殺意の無い相手を殺していい理由になどならないだろう。自らの快楽のためだけに行う殺戮。それを正当化する理由になり得ると、本気で思っているのか。
「ふざけるなよ……」
『間もなく、準決勝二回戦を開始いたします。出場される選手は、速やかに舞台上へと移動してください』
放送が聞こえた。
深呼吸してから、舞台上へ続く階段へと足を向けた。一歩一歩踏み締めながら、冷静さを取り戻そうと思う。
先ずは、この一戦を勝ち抜くことに集中すべきだ。レイチェルに負けてしまえば、オーブを手に入れることも、アスピスに一矢報いることもできなくなる。奴にはガルムへの仕打ちと俺が受けた屈辱の礼をさせて貰わねば気がすまない。
途中、背中に視線を感じたが、振り返らなかった。粘つくような不快感に、覚えがあった。奴と視線を合わせてしまえば、理性が吹き飛ぶ予感がしていた。勝手に反応する敵意を押し殺し、歯を食いしばって、黙殺する。
舞台にあがりきると、一般観衆から巻き起こる歓声と共に、例の親衛隊の激しい声援が俺を出迎えた。それでも心中は、足取りは乱れない。頭の中にあるのは、この戦闘での完全勝利。できれば無傷で、魔法を使わずに勝ち残れれば、言うことは無い。
アスピスには恐らく、生半可な戦法は通じない。例え、一番恐ろしい攻撃は毒だと、事前に分かっていても。それだけではないと、不気味な予感めいた着想がある。奴と当たるまでは、なるべく体力を温存しておきたい。
振り返ると、対戦相手のレイチェルが壇上に上がりきったところだった。所定の場所まで、ゆったりと向かいながら、男性観衆の応援に手を振って応えている。口元には、妖艶な笑み。歩くたびに露わになる腿に少し困って、視線を外した。結局着替えなかったんだなと、その違和感だけが気にかかる。
時折ウインクや投げキッスも交えて沸き立つ観客へ愛想を振りまき、ようやく到着したレイチェルは、俺を見て、艶やかに笑った。これから刃を交える相手に向けるべきものではない、媚びと色気の混じった微笑。逆に不審を感じて顔をしかめると、一瞬、眉が揺れたが、すぐにまた余裕めいた表情に戻った。
何を考えているのか。ろくなものではなさそうだと、警戒を強める。ただ、関係ないという思いもあった。胸に染み付いた憎悪に突き動かされている今、どんな策にも惑わされる気がしない。
左手の親指で、剣の鍔を少しだけ持ち上げた。顔を出した刃が陽光を反射して、視界の端に眩しさを感じる。
トランスが終わる前に、勝負をつける。合図と同時に斬りかかり、首もとの寸前で止める。必要ならば鳩尾に打撃を加えてもいい。力の調節は難しいが、体への負担は最小限で済むはずだ。
司会者が恒例の選手紹介を始めた。そっと柄に、手をかける。踏み込みを意識して足の位置を変えると、舞い上がった砂が風に吹かれて、切迫した空気の中を舞った。
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