第一章:人間界編

旅立ち(1)

 高校からの帰り道。

 見上げた空は腹が立つほどに晴れ渡っていて、思わずしかめた不機嫌な顔を、そのまま元通り正面へと戻す。両肩に圧し掛かる重みが痛い。これは単純に、背負ったバックパックに入っている、教科書やら筆記用具やらの重量のせい……だけではないはずだ。

 大きく、ため息をつく。腹にたまった何かを吐き出すように、深く息を吐き出す。

 初夏の日差しは相変わらず眩しく、独り道を歩く俺の後ろに、濃い影を落としていた。


* * *


 椎名隼人しいなはやと。それが、俺の名前だ。

 数週間前に誕生日を迎えて十八になったばかりだが、歳が一つ繰り上がった程度で俺の周りの世界は変わらない。

 朝早く起きて、朝食もそこそこに身支度をととのえ、歩いて十五分、走れば五分の近場にある都立高校に通う。そこでは友人とくだらない話で盛り上がり、壇上では説教好きの担任教師が高校三年の何たるかについて長々と語る。

 誰も聞いてやしないのに、だ。


 高校の退屈な授業が終わった後、今度は家とは反対方面にある駅前に向かい、仰々しいビルを見上げてため息を吐きながら、大手予備校の門ならぬ自動ドアをくぐる日もある。それが受験生の務めというやつで、週に三日から四日のペースで行われる授業で、消化不良をおこすかと思うほど大量の知識を、気だるい頭に無理矢理詰め込んでいく。

 いかにも無機質な鉄筋コンクリートの建物から外に出る頃には、太陽などとっくに姿を消している。数駅離れた繁華街にあるビル群の、夜を昼へと変えるネオン達の所為で、数えるほどの星しか見えない暗闇の下、羽虫がむらがる街灯の薄明かりを頼りに家路を辿る。

 それが俺の日常だ。


 熱心に勉学に励んでいる方では無いと思うが、幸か不幸か、成績は常に上の中程度だった。そうなれば、自然と大人達の視線もこちらに向いてくるものらしい。

 良い学校に入らなければ良い会社に就職できないだの、負け組ではなく勝ち組に入れだの、自分たちの想定した道を歩ませようと、もっともらしい顔で同じ事を何度も語り聞かせる大人達に、俺は辟易していた。


 何が『良く』て、何が『悪い』のか。どうすれば『勝ち』で、どうなれば『負け』なのか。基準さえも判然としない価値観を一方的に押し付けられるなんて、たまったもんじゃない。

 大体、俺の人生は俺のもののはずだ。取捨選択も、俺の一存で決めて良いはずだ。

 そう言うと、大人達は決まって首を横に振る。

 一人で生きてきたような顔をしているが、お前がそこまで育つのに、どれだけの人の世話になったと思っているのか。まだ若いお前には、世の中の厳しさというものが全く分かっていない。目上の話は素直に聞いておくものだ。

 当然のように返ってくる、お決まりの台詞。これを聞くのが嫌で、不満を口に出すのをやめた。

 上から無理矢理に押さえつけられることに文句を漏らしながらも、何食わぬ顔で日々を送っている友人達。

 拭いきれぬ違和感を内面深くに押し込め、彼等にまぎれて言われたことを忠実に実行に移す俺は、いつしか成績も聞き分けも良い優等生というレッテルを張られていた。


 それ自体に不満は無い。むしろ、矛盾だらけのこの世界で上手く生きていくための、隠れ蓑になってくれている。ただ問題なのは、俺の奥底で渦巻いている、鬱屈した思いだ。

 納得のできないことに頷き、浮かんだ疑問を吐き出せないまま内に溜め込む。そんな日々の中で、他人が用意した道では無く自らが選び取った道を歩きたいという渇望は、どんなに自分自身を騙して丸め込もうとしても、消えてくれそうに無かった。

 むしろ、年々募る一方だった。

 解決の糸口を見つけるどころか、誰かに相談することもできず、袋小路に迷い込んだ俺は、自分の感情をずっと持て余していた。


* * *


 何処をどう歩いたのか、全く覚えていない。気が付くと、全く見たことの無い通りを独り、歩いていた。

 授業が終わり昼過ぎに高校を出てから、なんとなく真っ直ぐ家に帰る気にはなれずに、いつもと違う遠回りの道を選んだところまでは覚えているのに、それ以降はぷっつりと頭の中の映像が途切れてしまう。

 どうやら考え事をしながら歩いていた所為で、いつの間にか知らない道に迷い込んでしまったらしい。

 右を見ても左を見ても、同じような民家が延々と続くばかりで、目印になりそうなものは見当たらない。

 しかし俺に、焦りは無かった。高校と自宅は、他人に羨まれるほど近いのだ。適当に歩いていれば、すぐに見知った道にぶち当たるはずだった。


 青く晴れ渡っていたはずの空はいつの間にか茜色に染まり、街全体が夕暮れの気配を匂わせ始めている。

 ふと顔を光の方へと向ければ、今にも溶け落ちそうな橙色の太陽が、並び立つ家々の影に隠れては消え、消えては現れる。コンクリートの地面の上、横にのびた自分の影は、昼間学校を出た時よりも随分と長くなっている。

 数羽のカラスが連れ立って、鳴きながら頭上を横切っていった。

 ふと、幼い頃に聞いた童謡を思い出し、木の上に作られた巣の中で親ガラスの帰りを待つ子ガラスの姿を想像した。普段はそんな事を考えないのにと、いつもより感傷的になっているらしい自分に苦笑をもらしつつ、歩く。


 前からやってくる楽しそうな話し声に気付き顔を上げると、幸せそうな顔をした母子連れの姿があった。若いが母親特有の包容力を感じさせる優しげな女性と、手を引かれながら母親の顔を見上げて微笑んでいる、小学生ぐらいのやんちゃそうな少年だ。

 公園からの帰りなのか、少年の服の所々には泥が跳ねていて、自分の顔ほどもあるサッカーボールを、片手で抱え込むようにして持っていた。


「ねぇママ! 今日のご飯はなぁに?」

「そうね。何にしようかしら」

「僕、カレーがいいな!」

「カレー? この間食べたばかりでしょう?」

「だって好きなんだもん。食べたい! カレー食べたい!」

「ふふ。しょうがないわね。じゃあ今日はカレーにしましょうね」

「やったー!」


 すれ違いざまに聞こえた、とりとめも無い会話。大喜びの少年のはしゃぎ声と、母親の柔らかな笑い声が、徐々に遠ざかっていく。

 俺にもあんな頃があったな、などと少し微笑ましく思いながら、胸に沸き起こる鈍い痛みを感じる。


* * *


 父親を早くに病気で亡くしてから、母さんは女手一つで俺を育ててくれた。

 俺が朝起きる時間よりも早く家を出て行き、夜寝る時間よりも遅く帰ってくる。いつ寝ているのか、そもそも本当に帰ってきているのかと、不安に思った時期もあったけれど、夜中にトイレに起きると疲れた寝顔が隣にあったし、食べ物は毎朝きちんと用意して、手紙と一緒にテーブルの上に置かれていた。

 極まれに取れる休みの日には、俺を近くの公園へ連れて行き、一緒になって遊んでくれた。

 今にして思えば、家でゆっくり体を休めていたかっただろうと思う。だが幼かった俺にとっては、それが何より嬉しい時間だった。


 小学校に上がる頃になると、学費をまかなう為に夜も仕事に出ることが多くなった。休みの日など無いに等しく、寝顔を見る機会さえ日増しに減っていった。暗闇と静寂だけが支配する家で過ごす孤独な夜も、母さんの苦労を思えば耐えられた。

 たまに顔を合わせたときに見せる、疲れを隠した弱々しい笑顔が哀しかった。言葉で表さなくとも、自分は愛されているのだという実感が常にあった。だからこそ道を誤る事もなく、たとえ数日間会えない日が続こうとも、心から母さんを信じて待つ事が出来たんだと、そう思う。


 俺は母さんが大好きで、優しく抱き締められるたび、胸に痛いほどの幸せを感じた。その微笑みが、その温もりが、俺を支える世界の全てだった。


 ――大きくなったら、俺が母さんを守るんだ。

 ――お金もいっぱい稼いで、母さんを幸せにしてあげるんだ。


 かつて幾度と無く幼い胸のうちで繰り返した誓いは、時が経っても色あせる事無く、心の奥底で密かな輝きを放っている。


 長年のキャリアとその能力が認められて、徐々に重要な仕事を任されるようになった今、母さんが夜の仕事に出る必要は無くなった。ゆとりがあるとまでは言えないが、校則でバイトを禁止されている俺が無理に働かなくても、一日三食の飯には困らない。

 高校と予備校の学費は奨学金制度に頼らなければならないことを気にして、また仕事を増やそうかと考えていた時期もあったようだが、俺は大丈夫だから無理はしないで欲しいと言うと、母さんは少し淋しそうに笑って「ありがとう」と呟いた。その笑顔が、辛かった。


 出来ることなら精神的にだけでなく、経済的にも母さんを支えてやりたかった。俺がいた所為で苦労ばかりかけてしまった、その償いがしたいと思う。

 しかし幼い頃に立てた誓いを現実のものにするには、俺が感じている世の矛盾を無条件に受け入れる必要があった。良い学校に入らなければ良い会社に就職できない。耳にタコができるほど聞いた台詞が、頭をよぎった。

 他の友人達が当然のごとくそうしているように、このまま周囲の大人達が操る手綱に素直に従っていれば、それなりの地位と収入を得る事ができるようになるのだろう。安定した役職につけば、母さんも安心してくれるに違いない。

 目の前に提示された、目的を果たすための最短距離。そちらを選べば、望んでいた筈の結末に逸早く行き着けるというのに。


 胸に溜まった淀みを深く吐き出して、仄暮れた紅に染まった道を一歩一歩踏みしめるようにして歩いた。スニーカーで押し潰された砂の音が、頼りなく響いて後ろからついて来た。

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