別離(2)

 ……もうだめだ……!!


 反射的に目をつぶり、頭を抱えた。何か黒い影が、俺の前を横切った気がした。ほぼ同時に、温かいものが顔にはねた。生臭く、鉄分を含んだ匂いが鼻をつく。

 しかし、痛みは無い。ほとんど足元しか映していない視界も正常だ。損傷が大きすぎて状況が認識できない、わけではないらしい。俺が、攻撃されたんじゃ、ないのか? 

 不思議に思い、うっすらと目を開ける。


 は、まさに今、ゆっくりと崩れ落ちていくところだった。漆黒の長い髪が、眩しく輝く太陽に透かされ、陽炎のように揺らめいている。

 残像の中、振り向いたその顔には笑みが浮かんでいた。口の端から、血がこぼれている。気管に入れば咳き込んでしまいそうなほど、大量の、血が。


「……母……さん?」


 どさり、と。音を立てて倒れた母さんの傍らに、慌ててしゃがみこんだ。身体の下に、どす黒い血溜まりが広がっていく。


「母さん!」


 助け起こそうとするが、上半身を抱え上げるだけで精一杯だった。服が血塗れだ。胸の辺りから腹にかけて、三本の筋が走っている。モンスターの爪痕に違いない。

 そこから止め処なく、深紅の鮮血が流れ出している。胸が上下するたび、泉のように沸き上がる深紅を、必死で押さえつける。俺の手が血に塗れるだけで、全然止まらない。

 呼吸の音がおかしい。ひゅうひゅうと、喘息でもおこしているような息遣いだ。深く息を吸おうと喘ぐ母さんは苦しそうだ。肺にも傷がついているのか、きちんと息が吸えないらしい。

 溢れる血が止まらない。呼吸も満足に出来ない。投げ出された四肢は、ほとんど力なく垂れ下がっている。医者の心得など無くたって、誰が見ても分かる。これではもう、助からない。

 それでも傷口を必死で押さえつけながら、涙を堪えている俺の頬に手を触れ、母さんは優しく微笑んだ。


「良……かった……隼人……無事ね……?」


 何度も首を縦に振った。喉の奥で何かが詰まっているように、言葉が上手く出てこない。


「そう……それなら……いいの。早く……逃げなさい……」


 掠れた声を絞り出しながら、母さんは、何度か咳き込んだ。その度に口や腹の傷から血が吹き出し、俺の顔や体も紅く染まった。


「そんな、そんなこと、出来る訳ない、だろ?」


 やっとの思いで答えると、母さんは目をつぶり、微かに首を横に振った。悲しそうに、とがめるような表情で。モンスターが再び腕を振り上げていたことに、俺は気付いていなかった。今にも壊れそうな母さんしか、見えなかった。


 目の前を、強い風が吹き抜けた。反射で目をつぶり、軽くなった腕に違和感を感じ、再び目を開けたとき、すぐ傍にいたはずの母さんの姿は、どこにも無かった。

 慌てて顔を振り向け、探す。右にも左にも、居ない。足元には鮮やかな血溜まりだけ。それならと無意識に上へ視線を向け、声を失う。


 母さんは、モンスターの手の中にいた。ついさっきまで握られていたはずのオバさんの体は、奴の足元に転がっている。用済みになった人形のように、不自然な格好で打ち捨てられていた。無残な有様だ。

 モンスターに握られている母さんにはまだ、息があった。苦痛に顔を歪ませ、わずかに身じろいでいる。時折苦しそうな吐息が、その口許から漏れた。


「……離せ」


 無意識に、呟いていた。恐怖など、どこかへ行ってしまった。激しい怒りのせいで、頭がどうかなってしまったのかもしれない。

 強く握り締めた拳の中、手のひらが切れ、ゆるゆると血が流れ出していたことにさえ、気付けぬほどに。


「離せよ! 今すぐその手を離せ!」


 モンスターは一瞬、俺を見た。にやりと、笑ったようだった。赤く染まった牙の端から、嫌らしい呻り声が漏れる。手元の母さんに視線を戻し、何の合図も無く、迷いも躊躇いも無く、力を加えた。

 そして、音がした。耳を覆いたくなる、不快な破裂音だった。

 実際に響いた音は、そんなに大きくなかったのかもしれない。しかし、俺には感じられた。その音が。聞こえたのだ。

 ばきん、と――骨が折れる音が。


 母さんの体が、痙攣けいれんするように動いた。目が大きく見開かれ、口許から霧のような鮮血が舞った。

 一部始終が、一瞬で、でも永遠のようでもあって、それを俺は、見ていた。ただ、見ていた。抵抗も許容も無く。


 モンスターは、力を失い、ぐったりとした母さんをつまらなそうに眺め、手に込めていた力を、抜いた。

 するりと滑り落ちていく、母さんの体。全てがスローモーションのように、ゆっくりと流れ、まるで幻想の光景のようで、でも間違いない現実だと、頭のどこかで響く自分の声さえ遠く聞こえる。

 何も考えられない。言葉も出ない。ただ落下していく、その情景を、力を失った母さんの身体を、黙って目で追うことしか、できない。


 母さんの体が地面で、少しだけ跳ねた。気がした。幻覚かもしれない。わからない。ただ既にモノと化した身体がモンスターの足元に落ちて、瓦礫の中に紛れた拍子に砂埃が舞って、視界が悪くなった。

 勝利の雄叫び。空気を切り裂くようなモンスターの咆哮で、俺はやっと我に返った。いや、むしろ逆だ。完全に、我を失った。


 許せない。許せない。許さない。許さない。絶対に。絶対、許して、たまるものか!


 モンスターは、すぐには攻撃してこなかった。にやけた顔のまま、品定めするように目を細めている。

 俺は奴を、ありったけの憎悪を込めて睨み返した。握った拳から滴る血が、足元に広がっている母さんのそれに落ち、混ざった。

 モンスターから目を離さぬまま、地面に落ちていた木切れを拾う。どこかの家から飛んできたらしい、瓦礫の破片だ。長さは六十センチ程。所々ささくれ立って、妙に曲がった釘も出ている。

 握ると痛んだが、もうそんなことは、どうだっていい。倒す。目の前の敵を倒す。沸き上がる憎悪だけが、唯一の真実。


 俺の戦う意志を認めて、モンスターは面白そうに喉を鳴らした。瞳に好戦的な光が宿る。すぐに勢いよく腕を振り上げた。鋭い爪が、獲物を捉えようと迫る。

 俺は木切れを握ったまま、側転の要領で前へ転がり出て、攻撃をかわした。既に門扉が壊れていたおかげでできた芸当だ。上手く相手の懐に入り込み、素早く体勢を立て直し、空振りに終わった攻撃のせいで体勢が低くなっているモンスターの顎めがけて、木切れを思いきり打ち上げる。

 渾身の一撃。いくら屈強なモンスターとはいえ、顎は急所のはず。明らかな痛手とまではいかなくても、多少のダメージは与えられた。はず、だった。


「く……っ!」


 しかし呻いたのは、俺の方だった。

 襲い掛かった、モンスターの爪。 あれは俺を切り裂くためのものではなかった。奴は、俺がその腕に意識を集中していたことに気付いていた。だから、あえて攻撃するふりをして、自分の懐におびき寄せたのだ。

 空振りしたかに見えた右腕は、全くのおとり。そして今、油断して隙ができた俺を掴んでいるのは、奴の左手。嵌められた、と歯噛みするが、既に遅い。

 俺の攻撃は、全く効いていなかった。分厚い毛皮のせいかも知れない。吹っ飛びかけた理性の片隅で、いくらかのダメージは吸収されてしまうだろうと予測していたが、まさかノーダメージとは。


 仁王立ちになったモンスターは、捕獲した獲物を確認するように、左手を自分の目の前に持ってきた。苦しげな俺を見て、満足そうに目を細めた。生臭い息が、顔にかかる。

 不快ないましめを解こうと、必死でもがいた。声は出ないが、呼吸は出来る。加減されているらしい。屈辱が、思考を更に赤く染める。

 すぐ傍に、モンスターの鼻先があった。つかまれているのは胴だけだ。その気になれば反撃できる、と思った瞬間、力が強まり、握っていた木切れが零れ落ちた。完全に、遊ばれている。


「は……なせ……」


 強烈な圧痛。無理に声を出してみたが、己を鼓舞する力さえない。両腕で突っ張って、手の中から逃れようとするが、ぴくりとも動かない。奴にしてみれば、鼠が手の中で暴れているようなものだろう。いや、鋭い爪も牙も持たない俺では、それ以下だ。

 ろくな抵抗力も無く暴れるだけの獲物に、いい加減飽きてきたらしい。一瞥して鼻息荒く笑うと、 徐々にその手に力を込め始めた。


「っ……あっ!」


 意思に反した吐息が漏れる。

 モンスターは、俺の反応を楽しんでいた。蟻を踏み潰して遊ぶ、無邪気な子供のように。どれだけの力を込めれば殺してしまうか、探るように力を加減して、少しずつ、ゆっくりと手のひらを収縮させてゆく。

 全身に力を込め、阻止しようとしても無駄だった。唯一自由になる両手で引っかいてみるが、分厚い毛皮に阻まれて傷一つつかない。握力は少しも緩むことなく、一定の圧力を保ちながら、やんわりと確実に強まっていく。握り潰そうとする意思を、どうやっても止められない。


 体の中で、鈍い音がした。母さんが絶命した時よりも小さく、微かな音だったが、確かに俺の中に反響した。同時に、鋭い痛みが駆け抜けた。今までの人生で、初めて体験する類の激しい苦痛。痛み、というより、電流に近い。


「ゲホッ……ケホッ……!」


 激しく咳き込むと、反動でまた胸に激痛が走った。それでもモンスターの手は緩まない。むしろますます嬉々とした様子で、手のひらに力を加え続けている。獲物をなぶり殺しにすることに快感を覚えているようだ。

 反対に、俺の抵抗は弱々しいものへと変わっていった。

 もう体に力が入らない。目が霞んで、焦点も上手く定まらない。モンスターから逃れようと奮闘していたはずの両腕は、今や力なく奴の手の端に添えられているだけになっている。

 白みゆく意識の中で、思う。ああ、これが死ぬということなのか。

 そして、全ての感覚が、途絶えた。

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