別離(1)

 「大変よ! 起きて! 隼人! 隼人!」


 母さんの叫ぶような声で目を覚ました。

 いつも寝起きが悪いせいで、母さんの怒号で起こされるのは日常茶飯事だったけれど、今日は明らかに様子が違う。酷く慌てているようだ。何かあったのだろうか。


 まだ働きの悪い頭を軽く振り、寝ぼけ眼で階段を降りてリビングに行くと、 母さんは食い入るような目でテレビをみていた。起きてきた俺に気づくと、すぐにテレビを見るよう勧める。

 何だか、顔色が悪い。何なんだよ、とぼやきながら視線を画面に移す。写っていた映像を見て、眠気は一変に吹き飛んだ。


 テレビの中では、何かが街の中で大暴れしていた。家も道も、何もかも滅茶苦茶だ。

 響き渡る悲鳴。散乱する瓦礫。倒れ伏す人々。まるで戦争でも起きたような光景だったが、ただ一点、それとは明らかに異なるモノが映っていた。

 現実ではありえないはずのモノ。そう、の現実ならば。


「……んだよコレ……」


 テレビ画面を睨んだまま、立ち尽くした。知らず知らずのうちに固く握っていた拳に気付き、ゆっくりと開いてみる。

 自分の手のひらを見ると、幾筋かの爪あとが、赤い線となって残っていた。痛みもある。夢や幻なんかじゃない。現実だ。少なくとも、今は。


 高鳴る鼓動を感じながら、もう一度画面に視線を戻す。そこに映っている不可思議なモノ。

 見覚えがあった。ただしそれは、空想世界。漫画やゲームといった、作り物の世界での話だ。人に対して害をなし、しばしば討伐される運命にある存在。勇者と崇められる人種が、我が物顔で殺してまわったりするあのイキモノ。


 ――


 それはまさしく、空想世界の住人であるはずのモンスターにそっくりだった。まさかこの世界には、こんなものまでいるのか?


「母さん! これ! こういうの、昔から――?」


 勢い込んで尋ねると、母さんは画面から目を離さないまま、ゆっくりと首を横にふった。


「いいえ。こんな生き物、見た事が無いわ……」


 母さんは茫然自失で、やっとそれだけ紡ぎだすと、再び言葉を失った。画面の中のモンスターは顔を上空に向け、耳をつんざかんばかりの雄叫びをあげている。

 母さんも見た事が無い? じゃあこいつらは一体、何者なんだ?

 生まれた疑問が、口をついて出ることは無かった。母さんにも俺にも、そんな余裕など無かった。ただ目の前で繰り広げられる凄惨な光景に、息を呑む。


 テレビの中で暴れているモンスターは、大きなトカゲのような姿をしていた。鋭くとがった牙や爪。棘の並んだ太くて長い尻尾。二本足で立った時の高さは、一般家屋の二階部分にまで到達している。全身は緑色の硬そうな鱗で覆われ、所々返り血を浴びて真紅に染まっていた。

 爪一閃、尻尾一振りで、一度に何人もの人間が、断末魔の悲鳴とともに倒れる。普通の人間では、まず太刀打ちできないことなど、一目で分かる。

 それどころか、自衛隊らしき人々が銃撃等で応戦しているようだが、全く効いている様子もない。戦車は踏み潰され、人々は為す術もなく、折り重なるようにして次々と死んでいく。

 レポーターの言葉も、冷静な実況中継から次第に感情的なものへと変わり、終いには恐ろしげな悲鳴とともに映像が途切れた。もしかしたら、やられてしまったのかもしれない。


「……悪い夢でも見ているようだわ……」


 一瞬砂嵐と化し、非常事態を考慮して急遽きゅうきょスタジオに戻ったニュース画面を見ながら、母さんが力なく呟いた。テレビの中では慌てた様子のニュースキャスターが、裏からまわされたらしい文を必死に読み上げていた。


『あっ! ただ今、新しい情報が入りましたのでお伝えいたします!』


 少しでも情報を得ようと、熱心にキャスターの言葉に耳を傾けていた俺達のすぐ傍で、突如悲鳴と轟音が鳴り響いた。テレビの中からではない。


「外か?」


 反射的に駆け出していた。リビングのドアを開け、フローリングの床を抜けて、スニーカーを突っかけると玄関から飛び出した。

 テレビで見たのとは違うタイプの、モンスターがいた。俺のすぐ目の前で暴れている。コンクリートや木々の破片が、雨のように降り注ぐ。恐怖のあまり、息を呑み、その場に立ち尽くした。


 それは大きな獅子のようで、頭に二本の赤い角、背中に大きな翼を生やしていた。頭から尻尾の先まで全体に灰色がかった毛で覆われ、人間とほぼ同じ形の手には太く尖った爪が生えている。

 開いた口から時折覗く牙は紅く、幾人もの血を含んでいるであろうそれが、目に鮮やかに焼きついた。もしかしたら至近距離だったせいかもしれないが、テレビで見たトカゲ型のモンスターよりも随分大きく感じる。腹の底まで響くような咆哮に、身がすくむようだ。


 一匹じゃ……なかったのか……!


 衝撃でほとんど動かない頭を、なんとか働かせる。このままじゃ危ない。俺は母さんに今外で起こっていることを伝えるため、一度家に戻ろうとした。


 視界の隅の、何かが気になった。反転させた身体はそのままに、顔だけを再びモンスターへと戻す。

 何だろう、何かを握っている。よく見ると、人のようだ。グッタリとして、腕や足が不自然な方向へと曲がっている。ほとんど全身血塗れで、死んでいるようにも見える。

 しかし間違いようも無い。あのシルエット。見覚えのある造形。あれはまさか――……


「オバさん!?」


 思わず出てしまった俺の悲鳴に気づいて、モンスターがゆっくりと振り向いた。反動で、握られたオバさんの手足がぶらん、と揺れた。

 低い唸り声を漏らし、モンスターが俺を見ている。その射るような視線から、目を離せない。背筋を、冷たいものが駆け抜けていく。

 唾を飲み込み、後退ろうとするが、足が震えてしまって動かない。すぐに立っているのすら危うくなって、ドアの横の壁に寄りかかった。


 モンスターが、一歩、また一歩と近づいてくる。猫が鼠をいびり殺すような、もったいぶった足取りだ。あいつは、俺がもう逃げられないことを知っている。恐怖で体が動かないと、分かっている。確実に俺を殺せると、確信して近づいてきている。


「っ……!」


 頭の中が真っ白だ。何も考えることができない。足の震えは目で見ても分かるほどに、激しい。自分の意志ではもう、どうやっても動きそうに無い。


「だ……誰か……」


 助けを求めて辺りを見まわすが、目に付く範囲には誰もいない。五体満足な者は、もう逃げてしまったのだろう。あるのは血塗れの死体に、散乱した瓦礫、そして目の前の凶悪なモンスター、ただそれだけ。

 歯がガチガチと音を立てる。巨体が生み出した大きな影が、足元を覆いつくしていく。もう声も出ない。身動き一つ取れない。

 嘘だこんなの。否定したくとも、目の前で揺れるオバさんが、這い上がる恐怖が、無残な真実を突きつける。


 目の前に立ちはだかったモンスターが、俺を見て笑うように牙をむいた。生臭い吐息が全身にかかり、ああやはりこれは現実だと、白む意識の片隅で思う。

 オバさんが無造作に振り回され、奴の手の中の身体が不自然な形にねじれて、やっぱり死んでしまったんだと嘆いて、悲しい、はずなのに、涙も出ない。

 恐ろしくて、逃げることも出来なくて、意識と身体が乖離かいりしたような感覚の中、頭上で赤黒く染まった鋭い爪が振り上がった。

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