旅立ち(3)
あるはずの無い声に、一瞬、思考回路全てを吹き飛ばされた。意識を取り戻すとすぐに立ち上がり、台をまたいで背後に向かい、身構える。
いつの間に入ってきたのか、人の良さそうな笑顔を浮かべた男が、立っていた。
歳は三十代後半から四十代という辺り。俺よりも少し背が高い。スカイブルーのポロシャツに、カーキ色のラフなチノパンツに、画面から溢れた派手な色の光が容赦なく、跳ねる。
警戒心むき出しのまま睨みつけていると、男はふっと破顔して白い歯を見せた。
「驚かせてしまったな。すまない」
男は、つい先ほどまで俺が座っていた回転椅子に、音も無く座った。
突っ伏していたお陰でいくらか綺麗になったゲーム台に肘を置き、 組んだ両手の上に乗せた顔が、口の端に笑みを残したまま、こちらに向いた。
「邪魔をするつもりは無かったんだ。ただ照明も付けずに暗闇の中にうつぶせて、あまりにも暇そうにしていたから声をかけた」
自分が取っていた態度と目の前の男の言葉を順に並べ、胸を撫で下ろす。
あまりにタイミングが良かったので頭の中を読まれたような感覚だったけれど、冷静になって考えてみればそんなこと、あるはずもない。
姿勢を正し、改めて目の前の男を見た。
こげ茶に近い黒の髪は耳の上辺りで切り揃えられ、自然な形で首の後ろへと流れている。服には汚れどころか皺さえ寄っていない。よく見ると、質の良さそうな素材でできている。
このゲームセンターをねぐらに使う浮浪者の
「あの、ここの管理者か何か、ですか」
「いや。ただの通りすがりだよ。それより少年は何故こんな所にいるんだ」
少年。その響きが、周囲の大人たちを連想させた。
口先ばかりで中身などまるでない、無駄に年を積み重ねただけにしか思えない人間が、先を争って他人に口を出してくる。そんな状況に辟易していた俺の中に、ふと子供じみた反抗心が湧き起こる。
「俺が少年なら、あんたはオッサンだろ」
オッサンと称された男は、組んだ手に顎を乗せたまま軽く頷いた。腹を立てた様子は無い。
「そうだな、悪かった。それなら名前を聞いてもいいかな」
「……椎名隼人」
嵌められたような気もしたが、自分から言い出した手前、答えないわけにいかなかた。呟くように名乗ると、男は満足そうに目をつぶった。
「隼人、か。良い名だ」
しんみりと、まるで懐かしむように言う。
軽い違和感を覚えた。しかし俺と目の前の男とは、間違いなく初対面だ。少なくとも俺の方に、覚えは無い。
一度崩した態度を直す必要は無さそうだった。変わらず厳しい視線を、男に向けてやる。
「あんたは」
「うん?」
「名前だよ。人に聞いといて自分は名乗らないなんて、ルール違反だろ」
男の顔から、一瞬笑顔が消えた。下を向き考え込むような表情の奥で、瞳が悲しそうに歪んだ。
自分の名前を言うのに、何故そんな顔で押し黙る必要があるのか。訝っているうちに再び顔を上げた男には、元通りの柔和な笑顔が浮かんでいる。
「俺か。俺は……いいんだ、オッサンで」
奥底に憂いを秘めたような、それでいて優しく穏やかな笑み。
「ふうん」
気の無い返事をしつつも、男の態度が気になった。
つまらなそうにしていたので声をかけてきた、と友好的なことを言う割には、自分の名前なんて大して意味も無いものを隠そうとする。何か理由があるのだろうが、それを聞く気にはなれなかった。
どうせ聞いたところで答えないだろう。そんな気がする。
それに本人が『オッサン』で良いと言っているのだから、無理に名前で呼ぶ必要も無い。
「ところで隼人。さっきも聞いたが、何故こんな寂れたゲームセンターで時間を潰しているんだ。目当ての品など、ありはしないだろう」
「道に迷ったんだ」
ぶっきらぼうに言うと、男は僅かに首をかしげた。その瞳に、面白がるような光が浮かぶ。
「どの道に?」
一瞬疑問が浮かび、次に悪寒が背中を走った。一度は消えかけた警戒心が、再び蘇って全身を包んだ。
強張った足を一歩後ろに引き、身構えて正面の男を半眼で見下ろす。男は身じろぎもせず、揺るぐことなのない笑顔を俺に返した。
「そんなに驚くことは無いだろう。お前が何かに悩んでいることぐらい、一目瞭然さ。心理学者や占い師じゃなくたって分かる。それこそ、通りすがりのオッサンにでも」
「……どうだかな」
低く言って、深い息を吐く。出会い頭から驚かされっ放しだ。人の心を読むような鋭い指摘を繰り返したかと思えば、すぐに害虫さえ一度も殺した事が無いような澄み切った表情で笑う。
この先どう続けたら良いのか、迷った。
適当にはぐらかして家への道だけを教えて貰う、なんて虫のいい話は通らないようだ。隙だらけに見える正面の男に、隙は無い。
とすると道は二つ。質問を無視して男の足元に残された自分の荷物を引っつかみゲームセンターを出るか、腹のうち全てをぶち撒けるか。
大きく、深呼吸した。埃臭い灰色の吸気が肺に溜まり、生暖かい呼気が、下から伸びる光柱に照らされた埃を躍らせた。
普段なら間違いなく、前者を選び取るだろう。なのに、今は何故か、話してもいいかという気になっている。
顔見知りはおろか、ついさっき会ったばかりの見ず知らずの他人に。いや、見ず知らずの他人だからこそ、なのか。
本当は俺も、溜め込んできた
「ただの
薄く目を閉じた視界に映るもの全てが、今の俺には無い華やかな彩りに染まっていた。
自然と俯いた顔の先、鮮やかな色を撒き散らすゲーム台が、底無しに明るい単調な曲を繰り返し奏で続けている。静かに、ゆっくりとぶち撒けた思いは、薄闇と陳腐な旋律に溶けて消えた。
言ってどうにかなる問題では無い。それでも、いくらか気持ちが落ち着いたのは確かだった。余程、溜まっていたらしい。
少し気恥ずかしさを感じながら、途中で口を挟むこと無く聞いていた男を上目遣いに覗き見ると、肘をついた両手の上にある顔は、神妙にかしこまっていた。
男の顔から笑顔が消えたのは、これで二回目だ。
「……そうか。やはりおまえは、俺が見こんだとおりの人間みたいだな」
「え」
声をもらして顔を上げると、ふいに視界がぐにゃりと揺らいだ。同時に、柔らかくなった地面に両足が沈むような感覚をおぼえた。
一瞬眩暈か地震かと思ったが、どちらも違うらしい。
正面に座っていた男が、悠然と立ち上がる。
原色の光の柱が揺れる。
飽きるほど繰り返された旋律の残響が耳に残る。
上げようとした声は呼気とともに喉に詰まる。
しっかりと開いているはずの目に映る視界はぼやけ、何かをつかもうと伸ばした自分の手すらまともに見えない。
形あるもの全ての輪郭が失われ、暗闇に沈み込んでいく意識の中、最後に見た男の瞳は、悲しそうに歪んでいた。
to be continued......■|
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