見えない糸(1)
「いつまでしがみ付いておる気だ。もうついたぞ」
恐る恐る目を開けると、老人は少し呆れた顔で俺を見ていた。慌てて、つかんでいた手を放す。老人はやれやれ、とばかりに自由になった手を振った。
「確かにしっかり掴まっておれとは言ったがな。 こんな風に馬鹿力で握られては、こちらの方がもたん。年寄りを労われ」
横目で俺を見ながら、
そんなに騒がれるほど、強く握った自覚は無い。それに、あの凶悪なモンスターを一人で倒せるような人物に、「こちらの方がもたない」とか「年寄り」だとか言われても、説得力が無い気がするけれど。
何となく不本意だが、一応、大人しく頭を下げておくことにした。これからしばらく世話になるわけだし、ここで心象を悪くしては後に響く。
「すみません……でした」
どうも本心を隠しきれず、つい不服そうな声になってしまう。今のはちょっとまずかったかもしれないと後悔しつつ、低頭した体勢はそのままに、ちらりと目だけで老人を見上げる。老人は面白そうに片方の眉を持ち上げ、口許に生えている髭をゆっくりと撫でた。
「そんなに恐ろしかったのか? ならば仕方無いのう」
「そんなことは……!」
反論しようと慌てて顔を上げたが、はっきり無いとは言い切れない。突然襲ってきた感覚に驚き、つい手に力を込めてしまったのは事実だし、声をかけられるまで気付かないほど、きつく目をつぶっていたのもまた、真実だ。
返答に窮していると、老人はふと顔を伏せた。不思議に思いつつ、眺める。肩が小刻みに震えている。口に手を持っていき、咳払いで誤魔化そうとしているが、もしかして――……
「……そんなに笑うことないだろ」
憮然として呟くと、たまらず老人は吹き出した。
「おまえサンが、あまりにも必死でしがみ付いてくるのが可笑しくてな」
片手で顔を覆い、それでもなお、喉の奥から押し殺したような笑いを漏らしている。
込み上げてきた
確かに、必要以上の力を込めてしまった、とは思う。思い出せば恥ずかしいし、反省もしている。痛かったと言うなら、もう一度素直に謝り直すけれど、それにしたって。
「大笑いするほどのことじゃ、ないだろ」
聞こえるか聞こえないか、程度の小声で、ぼそりと呟く。それが、老人の笑いの導火線にもう一度火をつける結果になってしまったようで、周囲に響き渡る笑い声は、俺の羞恥心を尚更に引き上げた。
* * *
老人に連れてこられた島は、ジェレミーの村があった荒野とはかなり様子が違っていた。海が近い訳でもなさそうなのに湿った空気が漂い、一面に濃い緑の植物で覆われている。どれも密集して生え、背が高い木も多いだけに、上空にあるはずの月の光さえ、ほとんど地面まで届かない。
それでも木々の隙間から射し込むわずかな光に照らされ、色とりどりの、香りが強い花が咲き乱れているのが分かる。夜だというのに大型の鳥が上空を横切り、甲高い鳴き声が周囲に反響した。
「何をぼさっと突っ立っておる」
つい景色に目を奪われてしまった。反省して声のした方へ視線を戻すと、老人は俺に何かを押し付けてよこした。訳も分からず反射的に受け取ってしまってから、手元の物体を確認する。
木製の桶のようだ。一体、どこから出してきたのだろう。
「何だよ、これ」
「何に見える」
「桶……だろ?」
「その通り」
物凄く不毛なやり取りをしている気がする。またからかわれているのだろうか、と訝って老人の顔を見るが、表情は真剣そのものだ。意図を測りかねて黙っていると、視線を上向かせ、自分の記憶を探るようにしてから軽く頷き、俺へと改めて向き直った。
「おまえサン、名はなんと言う」
言われて、はっとする。そういえば、お互いの正式な自己紹介もまだだった。
「俺は隼人だ。椎名隼人。え……と?」
「わしか? わしはシムルグじゃ」
老人――シムルグは自分も名を名乗り、すっと右手を差し出した。一瞬、握手を求められるのかと思ったが、違った。
まず、手の形が違う。それに握手をするにしては、高い位置にありすぎる。シムルグの手は、確かに俺の方へと向けられていたが、その実、森の奥にある何かを指差していた。
「早速だがな。隼人。ちょいと下りて行くと、清流がある。そこで水を汲んで来い」
「は?」
シムルグは俺の抗議を含んだぼやきを、完璧に無視した。今度は先ほど指し示した方向と、ほぼ正反対に位置する方へ、指を移動させる。
「この奥に、わしが住処にしている小屋がある。川で水を汲んだら、そこまで持ってくるのじゃ。なに、迷う事は無い。すぐにわかる」
「ちょ、ちょっと待てよ。いきなりそんな……」
苦笑しながら言おうした文句を、即座に遮られる。
「何じゃ? この年寄りに、重たい水を汲んで来いと言うのか? それにおまえサンは、これから居候の身になる訳だろうが。それ位は働いてもらわんとのう」
痛いところを突かれた。確かに修行をつけてもらう以上、多少は役に立たなければいけないと自分でも思う。でも連れてこられてすぐ自己紹介もそこそこに、全くこの辺の地理が分かっていない俺に向かって、いきなりそれはないだろう。大体水を汲むにしたって、朝になってからで良いんじゃないのか。
「丁度汲み置きの水が無くなった所だったのでな。何をするにも、水は必要じゃ」
思考と会話するようなタイミングに、息を吞んだ。ちょっと待て。今のは、偶然――じゃないよな?
目を丸くして固まっている俺を見て、シムルグは意味深に口の端を釣り上げる。
「言うたじゃろ。精神を研ぎ澄ませれば、人の考えもある程度ならば理解できると。無論細部までは無理だが、態度にも出るほどの思考ならば手に取るように分かる。先ほどのおまえサンの様に、な」
「……じゃあ、さっきのも聞こえてたんだな?」
「何のことじゃ。ああ。わしが年寄りやら何やら言うのは、図々しいというヤツか」
「図々しいなんて言って無いだろ! ただ、説得力に欠けるって……ああっ! やっぱり聞こえてたんじゃないか!」
「誰も聞こえていない、とは言っとらん」
シムルグは素知らぬ顔で、淡々と切り返してくる。むきになっている俺とは違って、余裕たっぷりだ。このやり取りを、楽しんでさえいる。駄目だ。どうやら俺には、全く勝ち目が無いらしい。
観念して、桶を持ち上げた。
「分かった。汲んでくるよ」
* * *
シムルグの家は、森の中ではあったが、ぽっかりと開けた、ちょっとした広場のような場所にあった。空間を囲むように広がる森の木々は密集しているのに、そこだけ綺麗な更地になっている。木を斬り根を掘り起こして造られた敷地でさえないようだ。
異質だった。これも魔法の力、なのだろうか。
「おお、遅かったな」
質の良さそうな木で造られた、大きなログハウス。過剰な装飾こそ無いが、一人で住むにはいささか贅沢に思える。
その戸口を開けて突っ立ったままの俺に、木の椅子に腰掛けたシムルグが、
「……よくも、そんな、台詞が、吐けるな」
扉に手をかけ、息も絶え絶えに毒づく。それが今できる、精いっぱいの抵抗でもある。
シムルグが言う清流は、指差された方向へ水音を辿っていくだけで、すぐに発見できた。滑り落ちないように気をつけながら岸辺まで下り、周囲の暑さが嘘のような冷たさの水を、渡された木桶にたっぷりと組み入れるのも、簡単だった。そうして難なく一度元いた場所に戻り、清流とは反対方向、小屋があると言われた方角を思い出して、足を向ける。
闇に沈んだ森は月明りさえ薄らいで、足元もおぼつかなかった。微かな明かりの中目をこらして、踏み均された道筋を辿った。途中転びそうになったり、ツタに足をとられたり、何やかやで水がいくらか減ってしまったが、道そのものは迷うことなく、目的地に到着した。
ここまでは、問題がなかった。確かに多少は疲れたが、これだけなら文句を言うつもりはない。むしろ思ったより簡単に済んだと、胸を撫で下ろしただろう。
家の前に着くと、シムルグが立って待っていた。てっきり労をねぎらう為かと思ったが、シムルグは何も言わず、桶を持ったままの俺を、家の裏手まで連れて行った。
そこにあったのは、風呂の浴槽ほどの容積がありそうな、やはり木製の蓋がついた大きな
この時点で少し、嫌な予感がしていたと思う。
晴れぬ気分のまま、シムルグの指示通りに、桶の水を樽に注ぐ。澄んだ音と一緒に、透き通った冷水が流れ落ちた。
しかし樽にとっては、あまりにも些少。腹を満たすにはまだまだ足りない。実際、顔さえ満足に洗えるか危うい量だ。樽底一面に広がってはいるが、手を下につけたら手首の位置まであるかどうか。すくい取るにしても一苦労だろう。
シムルグは内部を覗き込んで確認し、俺の方を見て、笑った。にやりと、意地悪く、笑いやがった。涼しい口調で
「では何度か往復して、これを一杯にしておいてくれ」
唖然とした。
これを一杯にだなんて、どれだけ時間がかかると思ってるんだ? 風呂桶に汲んだ水で、浴槽を一杯にするようなものじゃないか。何度かではすまないだろ、絶対に。
そもそも清流からここまで、馬鹿にならない高低差がある上に、今は夜で足元もおぼつかないんだぞ。現に今汲んできた水を見てみろ。最初は桶の目いっぱいまで入れたのに、ここに来るまでに八割近くまで減ってるじゃないか。
確かに俺の体力が無いせいかも知れないけどな。いきなり何の準備も無しに連れてきてすぐ働かせるなんて、そもそもそのつもりなら気遣いとか、限度ってものがあるだろ!
次から次へと、頭の中に文句が浮かんでくる。シムルグにそれを言っても無駄なのは、分かっていた。
樽の中を覗いた時点で、ぼんやり浮かんだ嫌な予感。次はこう言われるのだろうと俺が気付いていることを承知の上で、指示を出している。あの笑みは、確信犯の笑み。俺の苦労も、かかるだろう時間も、すべて考慮した上での命令だ。
きっとこの一連の思考さえ、漏れているんだろう。
途方に暮れたが、全て悟られていると思うからこそ、諦めを口にするのは屈辱だった。何も言わずに来た道を戻り、意地になって水を汲み、中身を零さぬよう気遣いながら小走りに引き返す、そうして作業を続けること数時間。
東の空がうっすらと白み始めた頃、空だった樽に、ようやく美しく豊かな水が湛えられた。結果として今、全てが終わった報告をするため、戸口に立っている。
シムルグは、悪態をつくと同時にへたり込んだ俺の脇を通り抜け、樽の様子を確認しに行ったようだった。地面に座り込み、戸の縁部分に背をあずけて帰ってくるのを待つ。
力が抜けると、気が抜けるものらしい。そして気が抜けると、意識が遠くなる。
重くなった瞼が次第に閉じていくのを、どうしても止める事ができなかった。必死に繋ぎ止めようとする意思はもろくも崩れ去り、数分もしないうちに、深い眠りの中へ落ちていた。
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